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    小説坂口炳五

    七北数人

    3 少年ロビンソン

     幼稚園では、遊戯の時間とか唱歌の時間、図画の時間、工作の時間、砂遊びの時間など時間割があったが、炳五はどれにもあまり気乗りしなかった。たとえば粘土で何か造りたいと思っても、時間割にないことはできない。砂遊びがやっと楽しくなりはじめたと思ったら、いきなり時間終了になってしまう。

     つまらないから、たいてい担任の女先生の言うことなど無視して、自分のやりたいことをやっていた。先生も初めこそ言うことを聞かせようとしたが、そのうちに諦めて、みんなの迷惑にならなければよい、と許してくれた。

     本棚にある絵本はすぐに読み尽くしてしまったので、家から新聞や子供向けの物語などを持ってきて読むようになった。新聞は特に講談の連載が大好きで、毎日欠かさず読み、次の日の展開をあれこれ予想したりして楽しんだ。

     また、相撲をとるのが好きだったから、場所中は新聞に載る相撲の記事も毎日たのしみにしていた。記事には必ず四十八手のどれか、前日の決まり手が挿し絵で描かれる。その絵を幼稚園に持って行って画用紙に大きく描き写すと、新聞記事よりも迫力があって、休み時間にはみんながワイワイ集まってきた。

     炳五は五郎と2人で、みんなに相撲の型や決まり手を実際に演じて見せた。男子は皆、面白がって真似をし始め、そのうちに、じゃあ一つ勝負してみよう、ということになる。ふだんから好きで研究している炳五は、まわしの握り方、ひねり方、梃子(てこ)の原理、低い姿勢、ハズの押し方など、さまざまなコツを心得ていたし、四十八手のうち半分ぐらいの手も知っているから、誰ととっても負けることはない。

     講談連載の切り抜きも、特に豪傑が活躍するシーンなど声色もつかってみんなに読んで聞かせるから、これも大ウケで、一躍幼稚園の人気者になった。

     新聞の切り抜きはすぐに読み終わってしまう。炳五は家にあった児童向け翻案読み物の中から何冊も持ってきていた。特に夢中になって読んだのが、たったひとり無人島に漂着したロビンソン・クルーソーの物語だ。

     船の残骸から見つかったわずかな食糧と道具だけが頼みの綱。水や今後の食糧など生きていくために必須のモノをどうやって手に入れるか、頭を使い、体を使い、命をつないでいくロビンソンのサバイバル日記。もうダメかと思う場面はいくつもある。アイディアや工夫でギリギリのところを乗り切った時の嬉しさと興奮。孤独なサバイバル生活のなんと羨ましいことか。いつか自分も、ひとりきりの冒険に身を浸してみたい。炳五は漂流する自分を夢みて、絶望と喜び、挫折と興奮の予感に身を焦がした。



     初冬のある朝、炳五はいつものように弁当をさげて1人で幼稚園へ向かった。幼稚園まではかなり遠く、通い初めの頃は使用人の誰彼が付き添って登園したが、すぐに道にも慣れたし、途中で金井写真館の前を通るので、そこで五郎と落ち合って2人で通うようになっていた。

     その日は、五郎が熱を出したとかで、炳五はひとりきりで歩きつづけた。ひとりだと思うと、急に自由になった気がして、むくむくと冒険心が湧いた。たったひとりで生きていくことなんて、本当にできるのだろうか。ロビンソンは船の残骸と共に漂着したから、なんとか最初の何日か何十日かを生き延びられたが、もし船もなかったとしたら……。

     そんなことを考えながら、幼稚園へ行く道を1本逸(そ)れ、また1本逸れ、より知らない方へ、知らない方へと道を逸れていった。初めての道だが、まだ帰れる自信はある。もしも知ってる道まで戻れなくなったとしても、いざとなれば海のほうへ進めばいい。海岸線をまっすぐ歩けば、やがて我が家へ通じる茱萸(ぐみ)藪へ出るはずだ。

     そのうちに、世界はまったく見知らぬ街へ変貌していた。小さな畑や田んぼもちらほら現れ、道沿いの灌木の茂みは荒れ果てて、人の気配も少なくなる。

     知ってる人は誰もいない。誰も頼りにはできない。ここからは、本当にひとりで歩いていくのだ。そう思うと、興奮で背筋がゾクゾクした。それは同時に、たえまなく襲い来る不安であったかもしれない。

     小さな公園を見つけて、炳五はポプラの木の下に腰をおろし、弁当を開いた。空は曇りがちになってきて太陽の位置が探せず、時刻はわからないが、腹具合からちょうど昼頃だろうと炳五は思う。

     弁当の中身は、竹の皮に包んだ握り飯が三つ。いつにも増して、ご飯粒が甘く感じられてウマい。食べていると、なんだかものすごく遠くまで来たような気がしてくる。もしかしたら、もう帰れないかもしれない、そんな不安がきざし、大急ぎで握り飯をほおばった。

     よし、ここを折り返し地点としよう。

     そう決めて、炳五は来た道を戻りはじめた。正確に引き返しているはずだったが、逆方向から見る街は、来たときと全然ちがって見える。あるはずのない場所に畑がある。一度も見たおぼえのない不思議な形の建物が出現する。完全に陽は翳(かげ)ってしまって、海のある方向すらわからない。帰れない不安が、現実になる。知らず知らず早足になり、途中から走り出していた。しかし、走れば走るほど、さらに新しい道へ迷い込んでいる気がして、ハッと立ち止まる。不思議な形の建物があった場所まで戻ってみようと思うが、もうどうやっても戻れない。

     なんだろう、これは。道は変な角度に曲がりくねり、まるで悪い魔法使いの罠にハマってしまったかのようだ。たくさん読んだ絵本の中で、いちばんイヤな妖婆の姿が目に浮かぶ。妖婆のページを開くだけでも恐ろしくて、二度と手にとることもしなかったあの絵本。怖いのになぜか、もう一度だけ開いてみようかと、つい思ってしまうあの顔は、いちばん怒った時の母の顔に少し似ていた。

     初冬の日は短い。ぐるぐると迷路をさまよい歩いているうちに、空は暗くなり、ちらちらと雪が舞いはじめた。炳五はマントを頭からかぶり、なるようになれと思いながら、だるく重い足をひきずって歩きつづけた。



     どこをどう歩いたのかもわからないまま、不意になじみの通りに出くわしたのは、街じゅうに夜の灯がともった頃だった。雪は降ったりやんだりして、積もるほどではなかったが、歩くとビチャビチャ音がした。

     目の前に異人池が現れ、夜の教会からクリスマスキャロルを練習する歌声が聞こえてくる。まるで天国から降ってくるような歌だな、と炳五は思う。教会の後ろには、鬱蒼と広がるポプラの森。その向こうに、古ぼけた家が何軒か並んでいて、一軒のガラス窓から鈍い光が漏れていた。

     ガラス窓の影が急に濃くなったと思うと、パッと開け放され、そこに裸の男の上半身が現れた。やはり裸の女が、男の背中にしなだれかかり、2人は何か言葉を交わして楽しそうに笑う。

    「何を見てる!」

     背後から怒気をふくんだ声がして、炳五が驚いて振り向くと、青い目の少年がそこに立っていた。半年前に逢ったきり二度と姿を見せなかった、あの少年だ。青い目に涙がにじんでいるように見えて、炳五は胸がどきんとする。

    「なんだ、おまえか」少年もちょっとたじろいだように言った。

     実は炳五のほうも、泣きべそのアトで顔がぐちゃぐちゃだったのだ。

    「久しぶりだな」炳五はしんから懐かしむ気持ちを声に出した。「またおまえに会えるかと思って、五郎と2人で何度もここに来たんだぜ」

     少年はちょっと照れたように笑ってから、ぼそりと言う。

    「いま見てたあの窓のな、あれ、オレの母親なんだ」

     炳五は絶句する。娼婦宿という言葉の意味はよくわからなかったが、そこにいる女が裸になってお金を稼いでいることは知っていた。

    「仕事が入った時は、オレは外にいなきゃいけないんだ。雨が降ろうと雪が降ろうと」

    「そう」

     炳五はしょんぼりした気持ちになり、何も言えなくなった。自分の母のことを思うと、いつになくやさしい顔ばかりが思い浮かぶ。

    「それでも、オッカサマのことが好きなんだろ?」

    「ああ、好きさ。こんなふうに夜、ひとりでポツンと池のほとりに立ってると、オッカサマに早く会いたい気持ちでいっぱいになる」

     その時、教会の大きな扉が少し開き、黒い法衣を身にまとったドイツ人の神父が顔を覗かせた。口元から頬にかけて髯もじゃの顔が、やさしそうに微笑む。ゆっくり歩いて来て、手に持っていた包みを2人の前にさしだして見せた。

    「クリスマスに渡すお菓子だけどね、今日できてきたから、君たちにもおすそ分けだ。これ持って、もう遅いから、家に帰りなさい」

     2人は神父にお礼を言い、互いに「じゃ、またな」と手を振った。

     あいつはこのアトどこで時間をつぶすのだろう。この先どんなふうに生活していくのだろう。炳五は家路を急ぎながら、自分自身の人生が暗い闇へ沈み込んでゆくような気持ちになった。