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    小説坂口炳五

    七北数人

    5 空を翔ける夢

     新潟初の活動写真館ができてから1年後には、市内で3館が開館していた。小学2年の炳五は、忍者映画や冒険活劇がかかると漏らさず見に行った。写真が生きた人間のように動くのは壮観で、同じ映画を何回見ても見飽きない。スクリーンいっぱい、自分の全身よりも大きなサイズの役者たちが見得を切り、画面の外まで一気に飛び跳ねる。

     怪盗ジゴマのシリーズなども大人気だったが、炳五のお気に入りはなんといっても忍者だ。特に「目玉の松っちゃん」こと尾上松之助が次々に演じた立川文庫の英雄たちに胸躍らせた。猿飛佐助がなにやら呪文をとなえて印を結んだとたんドロンと消え、次の瞬間には空を走っている。児雷也が印を結ぶと大蝦蟇が出現、追っ手をパクリと呑みこんで、あとは大蝦蟇にまたがり悠々と空を行く。

     鳥のように大空を自由に駆けてみたい。鳥が無理ならコウモリでもモモンガアでもいい、炳五は映画を見ながら、児雷也や佐助になって空を駆けている自分を空想する。自分の顔を、からだの周りを、ものすごい風が吹き抜けていく。耳の奥にもゴウゴウと風が吹く。このままずっと飛びつづけて、オレはどこまで行けるだろう。日本を過ぎ、外国を超え、空の彼方へ、宇宙へ、未来へ、無限に道は開けていく。

     ある日、映画の始まる前のニュースで、炳五は飛行機が空を飛ぶ映像を初めて見た。ライト兄弟初飛行の逸話や国産機の飛行記録などは新聞で読んでいたし、飛行機の写真も何度となく見ている。でも実物を目にする機会はないから、無声映像でもその轟音が聞こえてきそうなほど迫力があった。飛び立つ瞬間の緊張感、まるで紙のようにフワリと舞い上がる浮遊感、みるみる高度を上げ速度を上げる疾走感、そのすべてをたった一人の人間がコントロールしているのも新鮮な驚きだった。

     世界中の飛行家たちが野心に燃えて、飛行機の性能や飛行記録を競い合い、すでに何人もが事故死したという。男たちの命がけのトップ争いに胸が震えた。死ぬのは怖い。暗黒の、死の恐怖を感じた危険な遊びを思い出す。魂が消えてしまう恐怖――。

     それでも、いつか自分も飛行家の仲間に加わってみたい。その気持ちは強い。自分が大きくなってからではもう遅いのか、思いはじめると気ばかり焦って、居ても立ってもいられなくなってしまう。



     炳五は翌日、学校でみんなに飛行機の話をした。身ぶり手ぶりを交えて、熱病に浮かされたように飛行機の凄さを語っていると、同級生の一人がポンと炳五の肩をたたき、1冊の本を見せてくれた。

    「そんなに好きなら、こういうの作ってみないか」

     その本には、模型飛行機の作り方が書いてあるらしい。炳五は「おお」と唸り声をあげ、奪い取るようにして本を手にとった。

    「兄貴がくれた本なんだけど、オレには難しくってさ。作るのもすごく面倒くさそうだし。ほしかったら、やるよ」

     少年向けに豊富な図解入りで、作り方が詳しく書かれている。炳五は大喜びで、もうその日の授業時間は全部、模型飛行機の研究に費やした。

     簡単な紙飛行機からゴム動力の木製プロペラ機まで、種類は数多くある。ゴム動力でも単葉機と複葉機ではかなり違うし、どれも舵付きの本格派だ。骨組みや翼に使うのはヒノキが良い、プロペラにはホオノキが良い、などと書かれている。

     材木探しが一苦労かと思ったが、問題はあっけなく解決した。学校からの帰り、近所に材木屋があるのを思い出し、とりあえず店に入って訊いてみたところ、材木屋のオジサンも模型飛行機に大いに興味を示したようだ。本の図解を見ながら、次々と部位ごとの用材を出してきてくれ、

    「でき上がったら、飛ばして見せてくれよ」と、全部タダでもらえることになった。

     炳五は嬉しくて、家まで走って帰り、さっそく模型飛行機づくりに取りかかった。オジサンが最適な用材を選んでくれたおかげで、大きさも厚さもあまり加工が要らない。物差しで各部位の長さを測り、ところどころ切ったり削ったりして、初日は大まかに部品を作って終わった。

     次の日も熱心に、丹念に、いとおしむように組み立て、微調整していく。接着剤が乾くのを待つ一日が、気が遠くなりそうなほど長く感じられた。

     明日はとにもかくにも、試験的に飛ばしてみよう。どこまで遠く飛ぶだろうか。あまり人の来ない場所がいい。とすると、やっぱり浜辺か。そのあと最後の微調整をして、塗料をぬり、ピカピカにニスをぬって完成だ。

     炳五は興奮で全然眠れない。このまま冴えた頭で、朝まで布団の中にじっとしてなきゃいけないのか、と思っているうちに、いつのまにか夢をみていた。

     夢の中で、炳五は空を飛んでいた。飛行機の操縦桿を握っているのだが、機体は木の骨組みだけで、風がまともに吹きつけてくる。足の下にぐるぐる巻きのゴムが見え、ものすごい勢いで巻きをほどいていく。このままだとすぐに動力が途絶えてしまう。グライダーのようにうまく風に乗れなければ、そのまま急降下だ。

     どうすればいいか考える間もなく、危惧したとおりにゴムはたるみ、みるみる機首が下がっていく。機体を上向きにしようと焦って、操縦桿を強く引くと、力が入りすぎたのか、操縦桿は骨組みからスッポ抜け、機外へ吹き飛んでいってしまう。

     機体はきりもみ降下を始め、もはやなすすべもない。最後の手段。炳五は筋斗雲を呼ぼうと思って両手で印を結ぶが、気がつくと自分の体が小さくなり、無数の分身に分かれてしまっている。シマッタ、いまのは分身の術の印だった、と気づくがもう遅い。大きな叫び声をあげて、目が覚めた。



     なんだか寝る前よりも体じゅうが凝ってしまったような気がしたが、今日は待ちに待った試験飛行の日だと思うと、凝りも何も吹っ飛んでしまう。朝食の前にウキウキした気分で模型飛行機を乾かしてある部屋を覗き、炳五は一気に血の気が引くのを感じた。

    「ヘゴサ、ごめんよお」姉のアキが後ろから声をかける。「戸を開けたら落ちてきて、よけようとしたその足で踏んづけちゃってさ」

     飛行機はバラバラに壊れていた。ボンドで接着した部分は逆にしっかりくっついていたが、翼や本体が砕けてしまって、もう修復しようがないのは一目でわかった。「飛ばして見せてくれよ」と微笑んだ材木屋のオジサンの顔が浮かぶ。申し訳ない思いでいっぱいになる。

    「どうしてくれるんだ!」炳五は大きな声で怒鳴り、アキに詰め寄った。

    「だから、ごめんってば。板はまた買ってやるから」

    「またって……オレがどれだけの思いをこめて作ったか。もう二度と、同じ飛行機はできないんだぞ」

     炳五はブルブル肩を震わせて、いきなり姉に殴りかかった。しかし、振り上げた拳は姉に届く前に、兄の上枝につかまれていた。

    「おい、いいかげんにしろよ、このヘゴタレが」

     新潟では弱虫のことを「ヘゴタレ」と呼ぶ。上枝は炳五をバカにする時、よくこの呼称を使った。

    「そんなに大事なモノを、落ちそうな所へ置いとく奴が悪いんだろ」

     炳五はつかまれた腕を振りほどき、上枝を睨みつけた。

    「なんだと、ホズクソ!」

    「フフッ、なんだよ、それ。てんで言葉になってないぞ、ヘゴタレ」

     思いきりバカにして笑う上枝を見て、炳五は怒りを爆発させた。

    「おまえだけは絶対に許さん」

    「ほう、許さんか。なら、どうする」

    「殺す」

     言ってしまってから、炳五は急に怖くなる。言ったからには、後へは引けない。よくも悪くもそれが自分の性分だ。変えられないのだ、どうあっても。本当に兄を殺すことになるのかもしれない。

    「アハハ、面白い。やれるもんならやってみろ」

     炳五は炊事場から出刃包丁を持ちだしてきて、刃先を兄の心臓へ向けた。兄の胸から血がどくどく溢れてくる様を思い浮かべる。兄の瞳の色が白っぽく濁り、膝からくずおれて打っ伏し、そのままヒクヒク震え、やがて動かなくなる……。

     もう、何もかもオシマイだ。そう思ったら胸がギュンと締めつけられて、涙が出てきた。自分でもわけがわからず、溢れる涙は止めようもない。包丁をメチャメチャに振りまわすと、さすがに上枝も逃げ出し、炳五は泣きながら後を追った。

    「炳五!」

     突然、目の前にアサが現れた。いちばん怒った時の、恐ろしい鬼の顔をして、立ちふさがっている。

    「ヘゴサマ、もうやめれ」

     女中頭の婆やが炳五を背中から抱きしめた。そうでなくても母の顔が恐ろしくて動けなくなっていたのだが、大好きな婆やに少しでもケガをさせてはいけないと思うと、肩の力がすうっと抜けていった。



     その日の夕方、炳五は自分の宝箱の中から、何年もかけて集めた珍しい石の標本を取り出し、上枝の前に置いた。

    「これ、前に欲しがってたろ。やるよ」

     上枝はきょとんとして炳五の顔を見る。「それ、おまえの宝モノじゃないか」

    「いいんだ。もうオレの石集めは終わったから」

    「ふうん」上枝はまじまじと炳五を見つめ、今朝のお詫びだなと合点がいく。

    「おまえはオッカサマに似てるな。モノに執着しないとこなんか、そっくりだ。じゃ、コレはありがたく貰っとくよ」

     母に似ていると言われて、炳五はあの鬼の顔を思い出し、ゾクッとした。でも、悪い気はしなかった。