坂口安吾デジタルミュージアム

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作品紹介

「白痴」

「堕落論」に続けて発表された安吾の代表作。この2作が戦後文学に新風を巻き起こし、長らく不遇をかこっていた安吾は一躍、流行作家におどり出た。

 代表作ではあるが、安吾作品としてはかなり異色である。まず文体が実験的だ。特に前半、非常に長いセンテンスが多用され、会話の「 」を省いた茫々とした叙述が続く。読みやすくはないが、連鎖する白昼夢のように異空間のイメージをつむぐ魔力がある。

 舞台は空襲の只中の東京。職場の迎合主義を批判する情熱もとうに失せた伊沢の目に、世界はニヒリズムに染まって見える。長屋の隣人たちの乱脈ぶりは犬や豚と変わりない。あちこちに転がる死体にも特別な感慨はなく焼き鳥にたとえてみるだけ。

 そんな伊沢にとって、逃げ込んできた白痴の女は新鮮だった。世間の汚れに染まない女を押入に隠れ棲ませること。それがまるで自身の純粋の砦でもあるかと錯覚された。

 まさに錯覚にちがいない。女に理知の卑しさがないのは、理知そのものがないからだ。そして、幼児のような女との閉鎖空間での交渉には、意識せずとも妖しい秘め事の匂いがつきまとう。ピグマリオン(人形愛)趣味にも似た甘美で自閉的な夢。

「この女はまるで俺のために造られた悲しい人形のやうではないか」心の声が真実を語る。

 クライマックスを彩る空襲の描写はリアルで緊迫感に満ちていながら、夢のような幸福感に包まれている。舞い狂う猛火の中を女と進んでいくシーンには荘厳ささえ漂う。

「死ぬ時は、かうして、二人一緒だよ」「俺達二人の一生の道はな、いつもこの道なのだよ。この道をたゞまつすぐ見つめて、俺の肩にすがりついてくるがいゝ」



 この世に二人きり。現実からはぐれて、純粋のふるさと、無限の闇へ――。

 しかし、世界は砕けた心の残骸で埋め尽くされている。空襲下の道行きという非現実が終われば、純粋の砦もあえなく崩れ去ってしまう。本能のまま肉欲と死への恐怖だけで動く女を、伊沢は豚に見立てる。その果ての夢想――

「肉体の行為に耽りながら、男は女の尻の肉をむしりとつて食べてゐる。女の尻の肉はだんだん少くなるが、女は肉慾のことを考へてゐるだけだつた」

 絶対の孤独。不条理な怖さ。「桜の森の満開の下」への扉はこの時すでに開かれていた。

  

(七北数人)