坂口安吾デジタルミュージアム

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作品紹介

「勝夢酔〔安吾史譚5〕」

 迷探偵・勝海舟が登場する「明治開化 安吾捕物」シリーズも連載終盤にかかった頃、「安吾史譚」に登場した海舟のオヤジ夢酔の紹介文。

 冒頭は海舟論で、維新政府の誰も及ばなかった巨視的な世界観と、徹底した実質主義とを絶賛している。しかも海舟自身が書いたものを相当深く読み込んでいることがわかる。「氷川清話」など海舟談話筆録を繰ってみると、「安吾捕物」の海舟は、その性格やベランメー口調まで、本当によく実像を写しとっていた。

 不肖のオヤジをクローズアップするのは、海舟研究のおこぼれかと思いきや、安吾はむしろ、夢酔を書くことのほうが念願だった。

 戦争中に書いた「青春論」の中で、夢酔の自叙伝を切に見たいと書いている。当時は伝記本からの引用部分しか読めなかったが、その一部だけでも、放蕩無頼の限りを尽くした夢酔の生きざまに「芸術」と「精神的深さ」を感じ、自分の血と通じ合うものを感じとっていた。

「この自叙伝の行間に不思議な妖気を放ちながら休みなく流れてゐるものが一つあり、それは実に『いつでも死ねる』といふ確乎不抜、大胆不敵な魂なのだつた」

 戦後、念願かなって自叙伝原文に接した安吾のうれしさは、文章からも伝わってくる。

 江戸時代の言文一致体(ただしベランメー)の草分けで、原文も相当面白いが、安吾の語りのウマさは段違いだ。原文は5倍の長さで展開ものろいのに比べて、安吾のは絶妙な省略と編集で、同じエピソードが新鮮に息づいている。

 特に、ラストの長いエピソードは「勧進帳」「河内山宗俊」や「スティング」を思わせる、手の込んだ作戦の成否に胸が躍る。歌舞伎や映画を地で行くサスペンス満点の実話だ。

 ハッタリと名演技の底には、命を賭した虚々実々のかけひきがある。負ければ死ぬだけ。そう達観した人間だけが持つ不動心が、人生の物語を動かし、人々の心を動かす。

「彼自身は我がまま一パイに自分の人生をたのしんだ。風の中のゴミのような人生に生命の火を全的にうちこんでいたのである」

 世の人物伝や作品紹介のたぐいは、なべてこれを範とすべきだろう。

  

(七北数人)