坂口安吾デジタルミュージアム

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作品紹介

「左近の怒り」

 安吾晩年のエンターテインメント中篇。これまでミステリーに分類されてこなかったが、謎が謎を呼ぶ展開は完全にミステリー仕立てで、読者は推理する楽しみを味わえる。

「政界官界財界の裏面をバクロしたバクダン的手記」の出版をもくろむ大竜出版へ、純朴な海の男、夏川左近が入社して来るところから物語は始まる。相棒は出版社の二人きりの社員、葉子とタコスケ。葉子の兄のヤクザ洋次郎も暗躍する。

 政界でもあちこちで不穏な動きが現れ、手記の証拠となるメモの所有者は雲隠れ、左近は次々と思いがけない事件に巻き込まれる。追われる美人スパイを助けた直後、怪しい組織の男につかまり、金庫爆破を命じられたりする。

「キミは現在の東京が往年の上海だということを知らないようだね」組織の男は左近を脅すように言う。

 物語は二転三転、美人スパイの顔もくるくる変わる。本当には何が起こっているのか、被害者は誰で、加害者は誰なのか、謎だけが幾重にも重なってふくらんでいく。ただ一つ、左近の命が狙われていること――それだけが確かなようだ。

 謎解きの要素が強いミステリーなのでネタバレはできないが、行動するヒーローを軸に展開するこの小説は、日本のハードボイルド小説の先駆けと呼んでもいいだろう。

「全ての汚れに大いなる怒りを覚えずにいられなかった。海の男の心ではなかった。それは人間の怒りであった」

 左近はたった一人、悪の元凶が潜むアジトへ乗り込んでいく。猛犬のただなかを悠然と歩く。女がみな彼に惚れてしまうのも当然か。

 未完の長篇「火」に登場した無垢の豪傑青年玄吉の再来であり、それに続く長篇「街はふるさと」の主人公放二の優しさと勇気が重なって映る。

 戦うと決めたら、勝ち目がほとんどないとわかっていてもイノチをかける、その心意気も安吾そのままで、気持ちがいい。快作である。

  

(七北数人)