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「娯楽奉仕の心構へ――酔つてクダまく職人が心構へを説くこと」

 純文学と大衆小説はどこでどう区分するか、とは昔からよく議論される命題だ。ごく大ざっぱに言うなら、「深さ」をとるか「面白さ」をとるかがポイントで、そもそも二項対立する概念じゃない。
 それを、糞マジメか興味本位か、といった互いに他を否定するような対立項で考えるから、どこで区分けするかが問題になるわけだ。
 安吾は本エッセイで、まず、その常識的な命題を一蹴する。
 区別された中に本物の文学はない。よい純文学には優れた娯楽性があるものだ。エンターテインメントの傑作には往々にして人間が深く描かれている。シェークスピアしかり、ドストエフスキーしかり。
 だから自分は「娯楽作家」と呼ばれてもかまわない、と言うが、安吾の理想は、純文学と大衆小説の要素を混ぜただけの「中間小説」などとは全然別の次元にあった。
 深い思想を表現しようとすれば、ストーリーはおのずと波乱を含み複雑化するので、いっそう高度の娯楽性が“必要”になる、と安吾は言う。区分するどころか、人間探求と娯楽性は密接にからみ合うのが必然なのだ、と論証しようとする。ゆえに、儒学思想に支配された糞マジメなだけの文学は、逆に思想が浅薄で低俗なものなのだ、と。

「面白さを悪徳と見る人々の魂や生活は何と貧困なものだらうか」
 安吾の嘆きは「堕落論」の本旨とも通底する。世間が永遠にこうしたエセ道徳を捨てないなら、安吾の言葉も永遠にすたれることはなく、純文学と大衆小説の区分け論争も永遠に繰り返されるのだろう。

〈付記〉林忠彦が撮影した蒲田の散らかり放題の部屋に座る安吾の写真は、これまで1946年12月とされてきた。角度の違うものが数葉あるが、オリジナルに近い写真をルーペで検分した結果、机の上の原稿が本作の冒頭だとわかった。47年11月1日発表の作品だが、この時点ではタイトルはまだ付いていない。撮影時期は数カ月ほど遡るだろう。また、積み上げられた新聞のうち、日付が読めたのは47年4月20日のものだった。安吾はアンダーシャツ1枚の姿で蚊取り線香を点けて書いている。47年夏頃の撮影と見るのが最も確からしい。

 
(七北数人)
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