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「私は誰?」

 太宰・オダサクとの無頼派座談会から数日後に書かれたエッセイ。

「いったい俺は何者だろう。なんのために生きているのだろう」

 文学というものの発生由来にもつながる根源的な問い。作家は誰しも、それが永遠に答えのない問いであるとは百も承知で、それでも問う。問わずにいられない。

「自問自体が私の本性で、私の骨で、それが、私という人間だった」

 安吾の宣言は明快だが、その意味するところは「私=不可解」という曖昧なものになる。

 安吾はその自問をまるごと文章に込めた。だから「私は誰」であるかは文章の中からしか見えてこない。ただし、見えてくるのはいつも、部分だけだ。答えが存在しないからだ。

 そうして、それが人間なのだ、と安吾は考える。

 デビュー当時の、小林秀雄や河上徹太郎らとのカラミ酒。牧野信一のウチに居候の居候をした日々のこと。太宰のヘンテコな威張り方。尾崎士郎との決闘の顛末——。

 作家仲間たちの逆上・偏屈・デタラメぶりを紹介する笑い話の中にも、安吾の伝えたい思いがこもっている。生きている人間は何をしでかすかわかりゃしない。だから死者だけを扱うと言ったのは小林秀雄だが、安吾はだから生者だけを扱うと言った。そういう不定形で不可解なぬめぬめした人間をこそ、書きあらわしたいのだ。

「考えることゝ、書くことゝは違う」と再三いう。

「書くことによって、書かれたものが実在し、書かないものは実在しなかった」

 大胆不敵に、こう言い切れるだけの、魂の言葉が安吾にとっての「書かれた言葉」だ。小説に限らず、こと文章においては一言一句ゆるがせにしない作家だったから、安吾の書くものはエッセイも書簡もすべて読みごたえがあるし、信じるに価する。

 過日の太宰治展をみてつくづく感じたが、太宰はそれこそ小説以外は全部ぬけがらだった。エッセイや書簡の文章は、小説とはまるで別人。冗長で稚拙で女々しく、時に形式張っていた。しかしむしろ、小説以外には力を割かない作家のほうが昔も今も大半を占める。

 エッセイの隅々にまで張りつめた気を感じさせる安吾は、例外中の例外なのだ。

 
(七北数人)  
 
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