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「居酒屋の聖人」

 戦争中に書かれた愉快な小品。実体験にもとづくエッセイ風の作品だが、ファルス系列の小説としても秀逸な味わいがある。

 茨城県取手に8カ月間住んだ1939年の話を中心に、1935年の奈良原鉱泉滞在時のエピソードをおりまぜて書いている。

 取手の居酒屋にたむろする呑んべえたちが、とにかくコミカルでかわいい。どのエピソードも面白く、書き方もリズミカルだ。興に乗って書いているのがよくわかる。

 この町では酒屋が居酒屋を兼ねていて、「トンパチ」と呼ばれるコップ酒を飲ませてくれる。「『当八』の意で、一升の酒でコップに八杯しかとれぬ。つまり、一合以上並々とあつて盛りがいゝといふ意味ださうだ」とある。安くて景気のいい酒で、安吾は毎晩これを飲みに出かけた。

 京都、取手、小田原と放浪が続いたその真ん中の時期、安吾自身にとっては、思ったものが書けない、暗い、鬱の時代だった。けれども、京都時代を追懐する「古都」がそうであったように、ここでも自分の精神状態は味付け程度にしかストーリーに混ぜ込まない。

 ただただ、居酒屋に集まる人々の酔態を温かい目で見つめ、ユーモアたっぷりに活写する。常連客たちは酔っぱらうと皆、「俺を総理大臣にしてみろ」などと気焔をあげはじめる。まるで安吾自身が気焔をあげているような与太話。

 後半、2人の「オワイ屋」がどっちも総理大臣になって大げんか、糞尿をまきちらすエピソードがある。晩年の傑作「保久呂天皇」の元ネタがこのへんにありそうだ。ドタバタギャグに大笑いして、誰も気づかぬ背後をスーッと、切ない風が吹き抜ける。

「概して、怠け者の百姓に限つて総理大臣の気焔をあげがちだ、といふことが分つてくると、僕も内心甚だしく穏かでなかつた」

 鬱々とした気持ちの安吾が「聖人」などと呼ばれ始めるまでの顛末もユーモラスで、やっぱりちょっと切ない。

 
(七北数人)  
 
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