坂口安吾デジタルミュージアム

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作品紹介

「帆影」

 安吾24歳の時、初めて商業雑誌のもとめに応じて書いた小説。ただ、発表誌が『今日の詩』というマイナーな詩誌だったため、書評の対象にもならず、発表から40年のあいだ埋もれてしまった。

 同人誌でも「風博士」「黒谷村」など1作ごと、それぞれ毛色の違う風変わりな短篇を試みてきたが、第5作となる本作もまた実に奇妙な、小説らしからぬ小説になっている。

 愛人と二人、旅をして、ある漁村にたどり着き、宿の一室に閉じこもっている。閉じこもる「私」の移りゆく思念だけで、この小品は成り立っている。

 文章は神経質で生硬だし、ストーリーも情景も観念的なイメージの書き割りで、まるでリアリティがない。たぶん、安吾はこれをわざと、確信犯的にやっている。リアルなはずの自分の肉体も、気がつくと現実から遊離して宙をさまよっている。そういう感覚を描くための、実験。

 愛人の緋奈子は「虚しく蒼白な顔に目ばかり大きく見開きながら」何をするでもなく一緒にいる。「私」は漁村の人々とも風景ともなじめない「みぢめなエトランヂェ」で、生の実感もまったくない。
 本当には何も起こっていないのかもしれない。何も動かず、これからも何も起こらないのかもしれない。からだはカラッポで、自分の影法師だけが増殖していく。

 自分が分裂するのと符牒を合わせるかのように、浜辺に「腹部の異状に膨脹した少年の溺死体」が上がる。シュールレアリスムの絵画を思わせる、不穏で、不安な夢。

 あるかなきかの「帆影」のような、不安定なイメージの集積。“空洞”だらけの世界。

 この翌年から、安吾は「詩人」でなく「小説家」としての道を模索しはじめるのだが、本作などはまさに、安吾のいう「詩」の範疇に入るものだろう。

(七北数人)