坂口安吾デジタルミュージアム

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作品紹介

「街はふるさと」

 1950年、安吾2作めの新聞連載小説。純文学の分野で完結まで漕ぎつけた安吾の長篇は「吹雪物語」と本作だけである。さまざまな形で試みてきた長篇模索の集大成の趣があり、「吹雪物語」と並ぶ代表的長篇と呼んでいい。共に、文壇ではほぼ黙殺されたが――。

 初めての新聞連載小説「花妖」は、大衆ウケしない、という理由で打ち切りになった。その雪辱戦の意味合いもあったから、本作の文章は「花妖」のように実験的ではないし、時間軸もシンプルで読みやすい。活劇の要素もあり、悪党のボスとの虚々実々の駆け引きも読みごたえがある。「安吾巷談」で取材したばかりのストリップ・シーンも官能的に盛り込まれ、行方不明の記代子を捜すくだりはミステリータッチだ。

 しかし、一人一人の心の動きを探るように読むべき小説なので、新聞でブツ切りに読むのには適さない。おまけに、テーマは重く、世界の背景はとてつもなく暗い。新聞小説としてはまたも失敗という感じだが、安吾の長篇としては大きな達成となった。

 人の心の深淵に迫るテーマは、長篇ならではの曲折を見せる。深い諦念と刹那的な衝動。人間関係の絡まりから思わぬところへ転がっていく運命の不可思議。打ちのめされ、ボロボロになっていく男女。もがき苦しみ、死の淵に立ち、はたしてそこに光は差すのか……。

 戦前、安吾はエッセイ「悲願に就て」の中で、「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャに触れて、こう書いた。「私も自分の聖者が描きたい。私の魂の醜悪さに安息を与へてくれる自分の聖者を創りだしたい。それは私の文学の唯一の念願である」

 青年放二は、安吾念願のアリョーシャだろう。すべてを見通す目をもちながら、頼ってくる者たちへ自分のすべてを捧げ、誰をも疑わず、人々に慰安を与える稀有の存在。

 そして、放二のためなら喜んで自分を犠牲にできるパンパンのルミ子は、全く私心をもたない“天性の娼婦”だ。このヒロイン像もまた「エゴイズム小論」以来の念願だった。

 何ものにもけがされることのないこの二人が、読み進むほどにドストエフスキーを超えて、キリストとマグダラのマリアに見えてくる。

 物語の道具立ては騒々しいのに、全体は静謐で、寂しい。不思議と明るい寂しさで、二つの不幸を迎えるラストも、安らかで、慰めに満ちて感じられる。

(七北数人)