坂口安吾デジタルミュージアム

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作品紹介

「教祖展覧会〔安吾巷談11〕」

「安吾巷談」の第11回は、“現代芸術”鑑賞の巻。というと聞こえはいいが、何から何までボロクソにケナしまくっている。

 イサム・ノグチに始まって、二科展出品画家たちの絵の一つ一つを丹念にケナす。現物の絵を見なくても、その禅問答めいたバカバカしいタイトルと絵柄の説明だけで、十分笑いのタネになっている。皮肉や諷刺といった、上から目線の批評が大嫌いだった安吾だが、ここでは相手がそういう諷刺を絵でやろうとしてるのが我慢ならず、逆諷刺のかたちで、皮肉な返しをしている。

 さかのぼって、昔の象徴派やシュールレアリスムの大家たちから小林秀雄まで、これまた丹念にほじくり返し、笑いのタネにする。もっとも、安吾はデビュー当時からブルトンが小説内に写真を貼り込んだのを批判的に書いていた。それはもはや「文学」を放棄したものだ、と(「FARCEに就て」)。

 言ってることはごく普通のことばかり。ひねくれたところのない真っ当な意見だ。けれども、すでに権威が認めた作品をケナす輩は、芸術がわからない門外漢とバカにされてしまう。一流芸術がわかる人間とされたいがために、わかったフリをする者も沢山いる。

 昔もいまも、わからないからいい、と言ってもてはやす傾向は一部にあるが、そんな理屈は通らない。わからないけど胸のこの辺に来る、とか言うならわかる。作る側も、鑑賞する側も、自分の胸に響くか否かを大事にしなければ、何も、どこへも発展しようがない。

 安吾にはすべての実験芸術を否定する意図はなく、自分の心が本当に震えたものは無名作家だろうとヘンテコ極まりない作品だろうと大々的に褒め、無価値と見たらどんなに偉大とされる作品でも容赦なくケナした。

 サルトルの小説は新しい手法を導入したという意味での価値はあるが、文学としては低いと一蹴した(「観念的その他」)。逆に文章はカオス状態でサルトルより遥かに実験的なジャン・ジュネの小説は、汚辱の中に聖性を祈りこめた渾身の文学と大絶賛している(「文芸時評」1953)。

(七北数人)