坂口安吾デジタルミュージアム

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作品紹介

「ドストエフスキーとバルザック」

 新人作家だった安吾が、優れた小説とは何か、誠実に、真正面から考察したエッセイ。

 独自の解釈もふんだんに盛り込まれているので、世界的に有名なゴルスワージでさえカンタンにこきおろされてしまう。人間心理の洞察にいかに優れていようとも、単なる洞察だけで人間世界の真実や神秘をえぐり出すことはできない。

「小説は感動の書だと、私は信じてゐる」

 この単純で力強い一文が指標だ。より大きな感動へと読者を連れて行ってくれる小説は、大きな構成を持ち、現実を超えた「芸術的真実」を見せてくれるものだ、それに最も合致するのが、標題の大長篇作家2人だと安吾は見る。

 たくさんの人物が登場し、何をしでかすかわからない個々の心をもち、思いがけない行動に出る。行動の連続が人間関係に影響を及ぼし、物語のうねりを作る。

「ゴルスワージに見られるやうな細かさはないが、細かさよりも大きい動機から小説が出発してゐるので、全行動が粗く大まかに移動して行くのは止むを得まいと思ふ」

 デビュー当初から長篇志向だった安吾は、当時、若園清太郎や矢田津世子たちとドストエフスキー研究会をたちあげ、その第1回を終えたところだった。文学の一つの理想形を、確かにドストエフスキーに見いだしていた。特に「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャに入れ込み、戦後の小林秀雄との対談でも頻りにアリョーシャが最高と述べ立てた。

 安吾自身の作品にも、ドストエフスキーに通じる部分は少なくない。「淫者山へ乗りこむ」「わが血を追ふ人々」「決闘」「淪落の青春」など、観念的な犯罪心理を描く作品に、多く影をひいているが、本質的なテーマや人間をみる見方はかなり違う。同じには書けないし、書くべきではないのだろう。

 長篇「街はふるさと」に至って、安吾のアリョーシャがひとつ、完成するが、安吾のアリョーシャはもっと明るく、カラリと晴れている。ストレートで、何事にもイノチガケだ。

「文章の体裁を纏めるよりも、書くべき事柄を完膚なく『書きまくる』べき」と述べた、そのとおりの書きぶりで、この後、安吾は突っ走っていくことになる。

(七北数人)