坂口安吾について

安吾がいた時代

坂口安吾は1906年に生まれ、1955年に死去しました。
安吾が生きた時代にどんなことがあったかを
簡単にご紹介します。

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日本の歴史 安吾の歴史
1901年
~1924年
04年 日露戦争開戦
06年 06年 0歳 父仁一郎、母アサの5男として生まれる
13年 13年 7歳 新潟尋常高等小学校に入学
14年 第一次世界大戦が勃発
19年 19年 13歳 新潟県立新潟中学校に入学
22年 22年 16歳 9月東京の豊山中学へ転校
23年 関東大震災起こる
1925年
~1930年
25年 治安維持法公布 25年 19歳 下北沢分教場の代用教員に採用
26年 大正天皇死去、昭和と改元 26年 20歳 東洋大学印度哲学倫理学科へ入学
27年 芥川龍之介自殺
28年 28年 22歳 神田のアテネ・フランセヘ入学
29年 世界恐慌始まる
30年 30年 24歳 東洋大学卒業
1931年
~1945年
31年 満州事変 31年 25歳 牧野信一に「風博士」を激賞される
32年 32年 26歳 矢田津世子と出逢う
36年 二・二六事件起きる 36年 30歳 本郷菊富士ホテル屋根裏の塔の部屋に移る
39年 第二次世界大戦に突入
41年 太平洋戦争に突入
42年 42年 36歳 母アサが死去
45年 ポツダム宣言受諾
1946年
~1955年
46年 天皇が「人間宣言」 46年 40歳 4月「堕落論」、6月「白痴」を発表
47年 47年 41歳 3月梶三千代と新宿の酒場チトセで出逢う
48年 太宰治、入水自殺
50年 金閣寺、放火により消失
51年 日米安全保障条約調印
53年 53年 47歳 8月長男綱男誕生
55年 55年 48歳 2月17日、桐生の自宅で脳出血により急逝。

安吾に10の質問

本名やペンネームの由来、
好きな食べ物や嫌いな食べ物など
基本的な情報からちょっとマニアックな情報まで
これであなたも安吾通!

Q1.恐れ入りますが、自己紹介をお願い致します。

1906年10月20日に新潟県新潟市西大畑通二十八番戸(現・西大畑町五七九番地)で生まれました。家族は父母祖父のほかに兄弟姉妹十三人。そのなかで、私は五男八女の下から二番目の末男。父は私が生まれた時は、憲政本党に所属する衆議院議員であり、新潟新聞社社長を兼ねていました。

【出身校】
大正9年 3月 新潟尋常高等小学校卒業
大正9年 4月 新潟県立新潟中学校入学
大正11年 8月 新潟県新潟中学校を退学し、
大正11年 9月 私立豊山中学校に編入。
大正15年 4月 東洋大学大学部印度哲学倫理学科入学
(昭和3年 4月 アテネ・フランセ入学)
昭和5年 3月 東洋大学大学部印度哲学倫理学科卒業

東洋大学、アテネフランセ時代は語学の勉強に打ち込み、フランス語、梵語、パーリ語、ラテン語、ギリシャ語をいちどきに学びました。

Q2.お名前についておうかがいしてよいですか?

私の本名は炳五(ヘイゴ)といいます。五の字は男兄弟の五人目、炳はアキラカというような意味のほかにこれ一文字でヒノエウマを表しています。

安吾という名前は、三年迄いた新潟中学に渋谷哲治という漢文の教師がいたのですが、漢詩人の父と対照的に漢文などてんで勉強しない私に業をにやし、とうとう雷を落とし「お前なんか炳五という名は勿体ない。自己に暗い奴だからアンゴと名のれ」と言って、暗吾と黒板に大書しました。それから暗吾の方が響きがよくて通り名になりました。後年、「僕は荒行で悟りを開いたから、安吾にしたんだ」と鵜殿新氏に言って照れかくしに呵々大笑したことがありました。

Q3.身長・体重を教えてください。

息子は現在かぞえ年二十六歳、背丈は父と同様百七〇センチ余、手足長く、ひょろっとしています。坂口も若い頃は写真でしか知らないのですがひょろっとしています。容貌、体系なども同じ血統の犬のようによく似ていました。(坂口三千代)

坂口は、全体の印象が、大きいという感じがしました。寝ると畳一畳ぐらいで、目方も七十何キロだからそう大きくもないのですが、なんとなく大きいという印象なんですね。(坂口三千代)

私の部屋の本棚に使っていた、戸棚の両脇の柱には、背くらべの傷の印があって、身長の高さにエンピツで印をつけ、名前を書いました。坂口の背丈は高く、三千代と印されているのは、ずっと低かったです。(坂口三千代)

彼の体躯は二十貫近く、痩せている時でも十八貫だから肩の肉は厚く、私の非力な指先ではとても間にあいませんでした。(坂口三千代)
※1貫=3.75 kg

Q4.スポーツが得意だそうですが?

スポーツにはやや天分があって、特にハイジャンプは我流の跳び方だけでインターミドルに入賞しました。他には相撲、柔道、短距離走で賞を取ったこともあります。

また、私は泳ぎの名人です。アントワープオリンピックに日本初の水泳選手として参加した斎藤兼吉という人が、その年に優勝したカワナモクから習い覚えた新泳法、クロールを習った一人でもある程です。然し私はそれよりも潜水の名手なので、少年時代は五〇米プールを悠々ともぐったものです。

ちなみに、野球は昔から高校野球の甲子園ファン、プロ野球は巨人軍びいき。文士野球にも参加しました。桐生に越してからは獅子文六のすすめと家主の書上文左衛門の協力があってゴルフをはじめました。

Q5.作家以外に何かお仕事はされていましたか?

二十の時に中学を卒業して、そのまま一年間だけ荏原郡―現在の世田ヶ谷区下北沢―で代用教員として七十人の五年生を受け持ちました。

他は、戦争中に日本映画の嘱託をしていました。日映では三本の映画の脚本を書いたのですが、基本的な業務は一週間に一度出掛けて、試写室でその週のニュース映画と文化映画と外に面白そうなものを見せてもらって、専務と十五分ぐらい話をしてくればよかったのです。

Q6.作家デビューのきっかけは?

葛巻義敏をはじめとするアテネフランセの学友で創った同人雑誌『青い馬』に掲載された「風博士」を牧野信一が『文藝春秋』で激賞してくれたら、すぐに文藝春秋が小説をたのみにきました。

私はむしろ唖然としたばかりで、次に「黒谷村」というのを書いたのですが、新聞の文芸時評で牧野さんは再び激賞してくれ家へ遊びに来ないか?という手紙を頂いたのがきっかけです。

Q7.好きな食べ物・嫌いな食べ物は?

【好きな食べ物】
その時々によって食べるものは変るから一概にはいえませんが、おけさ飯(檀一雄は安吾丼という)、ギボシの昆布、競輪場のうどん、新貝の蛤、オックステイルのシチューなどを好んで食べていました。
おけさ飯は、ゆで卵の黄身と白身を別々に裏漉ししたものへ、焼き海苔を細かく刻んだものを入れ、そこにわさびをのせて、澄し汁を熱くしてかけたものです。

また、お弁当のようなものが好きで、桐生で古墳を探索するときなどによく三千代につくらせました。

【嫌いな食べ物】
ただナマコだけは駄目で、中原中也という夭折した詩人が、「陸のコンニャク海のナマコ」と呪文を唱えて大そう恐れていたが、私もナマコがどうしても食べられません。

Q8.どんなお酒、煙草をのみますか?

【酒】
酒はウイスキーかジン。日本酒やアブサンの場合もありますが、私は胃が弱いので早く酔うためにもきつい酒でなくてはなりません。ビールは水と同じようなもので滅多に飲むことはありません。ただ、マティーニやゴールデンフィズなどのカクテルは店によっては飲むこともあります。

【煙草】
煙草は随分と変えました。プリンス・アルバートとかボンド・ストリート、ハーフ・アンド・ハーフなどの西洋刻みから、ピース、洋モク、富士、バットと様々に吸いました。

Q9.1日の平均的な過ごし方を教えてください。

三千代と一緒にいるときは大抵、朝は五時には目を覚まし七時頃三千代が目を覚ますまで待っています。そして夜は十時にはもう眠ってしまいます。仕事中はもっと早く、夕食がすむとすぐに眠り、二、三時間で目を覚まして仕事をします。そうして朝、三千代が起きる頃酒を飲んで眠り、お昼頃起きてまた仕事をします。

Q10.好きな作家や作品はありますか?

少年時代には立川文庫を読みふけったものです。特に猿飛佐助を描いた『真田三勇士忍術名人 猿飛佐助』、馬庭念流の元祖を描いた『武士道精華 樋口十郎左衛門』に惹かれました。

大きくなるにつれてフランス文学に惹かれる気持ちが強くなり、モリエール、ボーマルシェ、メリメ、スタンダール、フローベル、モーパッサン、バルザック、ジイド、プルースト、ヴァレリー、ラクロ、コンスタン、ラディゲ、ランボー、ネルヴァル、ブルトンに至るまで、ありとあらゆるフランス文学を読みました。もちろん、その他の国の文学、例えばドストエフスキーやチェーホフ、マルクス、シェイクスピアなども読みました。

その他には、『伊勢物語』などの古典を始め、『信長記』、『太閤記』のように日本の歴史や切支丹の歴史について書かれたものも広く読みました。

戦時中は特に探偵小説・推理小説をよく読み、犯人当てのゲームをしたりもしました。

参考文献

  • 『評伝 坂口安吾 魂の事件簿』七北数人
  • 『坂口安吾の旅』若月忠信
  • 『坂口安吾展』世田谷文学館
  • 「坂口安吾年譜」『坂口安吾全集18』関井光男編 ちくま文庫
  • 「ヒノエウマの話」『坂口安吾全集16』ちくま文庫
  • 「わが師友」鵜殿新 坂口安吾選集』第八巻月報 創元社
  • 『評伝 坂口安吾 魂の事件簿』七北数人
  • 『坂口安吾の旅』若月忠信 ※陸・角力のメダル写真有り
  • 『クラクラ日記』坂口三千代
  • 「わがだらしなき戦記」『坂口安吾全集04』ちくま文庫
  • 「処女作前後の思い出」『坂口安吾全集14』ちくま文庫
  • 「ゴルフと「悪い仲間」」『坂口安吾全集16』ちくま文庫
  • 「世界新記録病」『坂口安吾全集17』ちくま文庫
  • 「風と光と二十の私と」『坂口安吾全集04』ちくま文庫
  • 「日本文化私観」『坂口安吾全集14 ちくま文庫
  • 「堕落論」『坂口安吾全集14』ちくま文庫
  • 「日映の思い出」『坂口安吾全集15』ちくま文庫
  • 「牧野さんの死」『坂口安吾全集14』ちくま文庫
  • 「世に出るまで」『坂口安吾全集16』ちくま文庫
  • 『クラクラ日記』坂口三千代 筑摩書房
  • 『小説 坂口安吾』檀一雄 東洋出版
  • 「わが工夫せるオジヤ」『坂口安吾全集16』ちくま文庫
  • 「コンニャク論」『坂口安吾全集18』ちくま文庫
  • 「小さな山羊の記録」『坂口安吾全集01』ちくま文庫
  • 「二十七歳」『坂口安吾全集04』ちくま文庫
  • 「ドストエフスキーとバルザック」『坂口安吾全集14』
    ちくま文庫
  • 「私の探偵小説」『坂口安吾全集15』ちくま文庫
  • 「観念的その他」『坂口安吾全集15』ちくま文庫
  • 「推理小説について」『坂口安吾全集15』ちくま文庫
  • 「思想なき眼」『坂口安吾全集15』ちくま文庫
  • 「娯楽奉仕の心構え」『坂口安吾全集15』ちくま文庫
  • 「詐欺の性格」『坂口安吾全集15』ちくま文庫
  • 「現代とは?」『坂口安吾全集15』ちくま文庫
  • 「探偵小説とは」『坂口安吾全集15』ちくま文庫
  • 「志賀直哉に文学の問題はない」坂口安吾全集15ちくま文庫
  • 「推理小説論」『坂口安吾全集15』ちくま文庫
  • 「文芸時評」『坂口安吾全集16』ちくま文庫
  • 「世に出るまで」『坂口安吾全集16』ちくま文庫
  • 「安吾武者修行 馬庭念流訪問記」『坂口安吾全集17』ちくま文庫

安吾事件

坂口安吾には有名なエピソードが
いくつかあります。
その中からライスカレーを
100人前頼んでしまった事件と、
お好み焼きの鉄板に手をついた事件を紹介します。

ライスカレー100人前事件

1951年(昭和26年)11月4日、練馬区石神井町にある飲食店にライスカレー100人前の注文が舞い込んだ。注文をしにきたのは、坂口三千代氏。戦後、「堕落論」、 「白痴」を発表し一躍戦後流行作家となった作家、坂口安吾氏の夫人である。

坂口夫妻は先頃の、伊東での競輪不正告発事件の難を逃れるために石神井町に住む作家、檀一雄氏の邸宅に身を寄せていた。

その坂口安吾氏がどういったきっかけで三千代夫人に100人分ものライスカレーを注文させたか、ということは本人の口からは一切明らかにされていないが、その時の状況は一緒にいた檀一雄氏、坂口三千代夫人の証言を拝借することで窺い知ることが出来る。

100人前ものライスカレーとは想像を絶する量である。果たして、本当にそれだけのライスカレーが運ばれたのだろうか?と疑問に思い調べてみたら、実際には20人から30人前ほどしか運ばれなかったそうである。

だが、我々の目には奇妙に映るこの行動も、檀一雄氏が「安吾流の人生を、未知の規模に創出する熱願」と推測するように、坂口安吾氏の創作精神が際立って現れた非常に重要な事件であることに間違いないだろう。

三千代夫人

檀家の庭の芝生にアグラをかいて、坂口はまっさきに食べ始めた。私も、檀さんたちも芝生でライスカレーを食べながら、あとから、あとから運ばれて来るライスカレーが縁側にズラリと並んで行くのを眺めていた。 当時の石神井では、小さなおそばやさんがライスカレーをこしらえていて、私が百人まえ注文に行ったらおやじさんがビックリしていたがうれしそうにひき受けた。

(引用:『クラクラ日記』坂口三千代)

壇一雄

「おい、三千代、ライスカレーを百人前……」
「百人前とるんですか?」
「百人前といったら、百人前」
云い出したら金輪際後にひかぬから、そのライスカレーの皿が、芝生の上に次ぎ次ぎと十人前、二十人前と並べられていって、
「あーあ、あーあ」
仰天した次郎が、安吾とライスカレーを指さしながら、あやしい嘆声をあげていたことを、今見るようにはっきりと覚えている。

(引用:『小説 坂口安吾』檀一雄)

参考文献

  • 『小説 坂口安吾』檀一雄 東洋出版
  • 『クラクラ日記』坂口三千代 ちくま文庫
  • 『太宰治・坂口安吾』編集:斉藤慎爾 柏書房 上記収録、「坂口安吾」檀一雄
    (『週刊現代』一九六二年三月四・一一日号)
  • 『坂口安吾の旅』若月忠信 春秋社
  • 『評伝 坂口安吾 魂の事件簿』七北数人 集英社

染太郎火傷未遂事件

台東区西浅草に店を構える「風流お好み焼き 染太郎」。
この店の女主人、崎本はるさんに作家の坂口安吾氏が一枚の色紙を贈った。
「染太郎」は1937年(昭和12年)に漫才師だった旦那さんが出征されたのをきっかけに、
当時二階を稽古場として使用していた、座付き作家の井上光氏の提案により開店した。
店の名前は高見順氏の考案した「風流お好み焼き」と旦那さんの屋号「染太郎」を合わせたものが付けられ、
多くのレビュー役者、ジャーナリスト、そして文士で賑わっている。

坂口安吾氏も、自身のエッセイで「「染太郎」というオコノミ焼が根城であった」(モン・アサクサ)と語るほど染太郎との親交は深く、『現代文学』の同人の会合に使用したり、たびたび二階に下宿をして原稿を書いていたこともあったとのことである。

さて、その贈られた坂口安吾氏の色紙には「テッパンに手を/つきてヤケドせ/ざりき男もあり」と書かれており、このような経緯があるようだ。

昭和29年11月4日、染太郎で食事をしていた坂口氏なのだが、何を思ったのか鉄板に手をついてしまった。ジュッと焼ける音がして、周りの人はギョッとした。しかし、はるさんは慌てずに、冷蔵庫から氷の塊を取り出し坂口氏の手の上にのせ、「この人は物書きだから大事な手」、と言いながら自分の手で力いっぱいに押し続けたそうである。

そして、そのはるさんの手当てと優しい言葉に感謝の気持ちをこめて、坂口安吾氏は右の色紙を書いたそうである。
だが、なぜ坂口安吾氏は鉄板に手をついてしまったのだろうか?この真相については「安吾激昂説」や「安吾探求心説」等を代表に諸説紛々と噂されている。
しかし、実際の真相は意外にもはるさんのご子息である仁彦さんの次の証言によって明らかとなるのではないだろうか。

「安吾さん、そのときひどく酔っぱらっていてねぇ。それでトイレに行こうと思ったんだろうねぇ。酩酊して鉄板にジュウッ」
(引用:『安吾と三千代と四十の豚児と』坂口綱男)
以上が、坂口安吾「染太郎火傷未遂事件」の真相である。

参考文献

  • 『浅草 染太郎の世界』かのう書房
  • 『安吾と三千代と四十の豚児と』 坂口綱男 集英社
  • 『坂口安吾の旅』 若月忠信 春秋社
  • 『小説 坂口安吾』 檀一雄 東洋出版
  • 『坂口安吾全集15』 坂口安吾 ちくま文庫
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