坂口安吾ヒストリ

執筆:七北数人
1650-70頃

坂口家の祖先は九州の陶工だった?

坂口家の祖先といわれる甚兵衛(あるいは治右衛門とも)が肥前国(現在の佐賀県)唐津から加賀国大聖寺(だいしょうじ)(現在の石川県加賀市)へ移住する。その後、越後国(現在の新潟県)長岡、さらに蒲原郡金屋村(現在の新潟市秋葉区金屋)へと移る。長岡へ来た時には多くの従者を伴っていたと伝えられている。
 坂口安吾の父仁一郎(にいちろう)(号は五峰)および長兄献吉は、甚兵衛の辿ったルートとその年代を追った結果、坂口家の祖先は陶工と関係があるのではないかと推測した。
 献吉が「坂口家の系図について」で引用した「九谷焼製造元宣伝書」によれば、次のとおりである。
 1629年に加賀藩から分封された大聖寺藩では、領内の九谷村において陶器造りを始めていたが、完成度は不十分であった。二代藩主前田利明が唐津焼の製陶法を学ぶべく人を派したところ、明より亡命の陶工数名をひきつれて帰藩。この頃から造られたのが有名な古九谷である。亡命明人の従事が国禁違犯とされ、すぐに陶工を解散させたため古九谷は数十年で終わったといわれる。
 ただし今日では、九谷焼は同じ肥前の有田焼にならったというのが定説である。唐津焼は質朴さと侘びの精神を特徴とし、有田焼は青・黄・緑などを基調とした色絵を特徴とする。豊臣秀吉の朝鮮出兵に由来する点は同様だが、技法は対照的である。
 先祖=陶工説はあくまでも推測であり、事実と断定はできない。ただ、相当な資産をもちながら唐津→大聖寺→長岡と、短期間に移り住んだ理由は陶工の流れとかかわりがあるのかもしれない。たとえば、陶工を庇護した豪農や豪商であったなど。
 また、一説に碁所の坂口仙得の末裔といわれるが、時代がまるで違う論外の説である。仙得は19世紀の江戸に生まれた人で、天保四傑として知られた碁の名人。仙得の先祖が甚兵衛である可能性もなくはないが、いまのところ確認されていない。仙得と同時代を生きた安吾の祖父得七や曾祖父得太郎の名に引かれた臆説か。

◆エピソード

 安吾も先祖の話は聞いていたらしく、1947年ごろ久しぶりに訪ねて来た檀一雄に先祖は九州にいたと話している。「唐津の先の坂口村だ。そこから逃げだしてね。ああいうケンノンなところは逃げ落ちるに限る。やっぱし、俺の先祖は平衡感覚があったよ」(檀一雄『小説坂口安吾』)

◆世相・文化

 1639年から幕末まで、鎖国令によりオランダ・中国・朝鮮以外との貿易がとだえる。外国人の移住だけでなく海外に住む日本人の帰国も禁じられていた。鎖国のもととなったキリシタン禁教令から1637年の島原の乱に至る歴史に安吾は大きな関心を寄せ、「イノチガケ」などの作品で何度もとりあげたほか、太平洋戦争中、長篇「島原の乱」執筆にとりくむが未完に終わる。

1674(延宝2)年

初代甚兵衛死去

 初代甚兵衛(治右衛門)、金屋村で死去。享年不詳。村松町円満寺(浄土真宗東本願寺派)過去帳によれば、分家は19戸あったという。二代甚兵衛が跡を継いだ。

◆世相・文化

 1682年、井原西鶴『好色一代男』出版。以後、西鶴は浮世草子の名作を数多く著す。すぐれたファルスとしてのみならず、人間の欲望を活写した西鶴の「鬼の眼」を安吾は高く評価している(「FARCEに就て」「枯淡の風格を排す」「思想なき眼」など)。
 1689年7月、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で越後を訪れる。安吾は芭蕉についてもその純粋な芸術性を高く評価しており、引用回数も多い(『国文学解釈と鑑賞』別冊「坂口安吾事典 事項編」参照)。仁一郎もまた、1893年の「説詩軒俳話」にて芭蕉を絶讃した。

1727(享保12)年

大富豪の跡目争い勃発!

 二代甚兵衛死去。享年不詳。この当時、金屋村では「甚兵衛どんの小判を一枚ずつ積めば五頭山(ごずさん)のいただきまでとどく」と言いはやされるほどの資産家であった。息子3人のうち1人は早世。残る磯右衛門(1692‐1762)と津右衛門(1702‐75)の間で本家争いが起こるが、金屋村に残った磯右衛門のほうが甚兵衛を名のり、昭和の代までその名を継いでいる。
 津右衛門は分家して同じ蒲原郡の大安寺村(現在の新潟市秋葉区大安寺477番地あたり)に移住する。その時期が相続の前か後かは不明だが、富豪伝説は津右衛門のほうに受け継がれた。いわく「阿賀野川の水が尽きても津右衛門の財産は尽きない」「津川の鉄橋(かねばし)が落ちても、津右衛門の財産は落ちない」「上(かみ)は津川から西は弥彦まで津右衛門(つえんどん)は人の領地を踏まずに行ける」。
 安吾の系譜は、この津右衛門から延びてくる。

◆世相・文化

 大安寺村は1629年に開発され、1687年から幕末まで主に幕府直轄領であった。享保の改革により未開地開墾が奨励される。
 1708年、イタリアの宣教師シドッチが屋久島に潜入上陸するが、翌年、江戸に護送され、新井白石の審問を受ける。白石はシドッチの話をもとに『采覧異言』『西洋紀聞』を著す。この審問のようすは安吾の「イノチガケ」にも書かれている。

1783(天明3)年

安吾の祖先はさらに分家して零落

 二代津右衛門(1722‐83)死去。長男甚次郎は家督を妹婿に譲り、二ツ柳村(現在の新潟県五泉市二ツ柳)に分家、友伯(1751‐1819)と改名する。分家した時期は不明だが、妹婿が三代津右衛門を襲名するより前、つまり遅くとも1783年以前と推測される。
 安吾の系譜は、初代甚兵衛からは分家の分家にあたる友伯から続く。
 友伯は学問を好み医科・理科に精通したが、世事にうとく、人に欺かれて多くの田宅を失う。

◆世相・文化

 1782~87年頃まで天明大飢饉により越後各地でも凶作が続く。
 1790年5月、財政建て直しと幕府の支配機構強化をねらった寛政の改革の一環として、「寛政異学の禁」により朱子学の振興が命じられる。

1793(寛政5)年

産土神と墓地の間に建てた坂口家

この頃、友伯は零落して故郷の大安寺村に帰り、産土神(諏訪大明神 太神宮 稲荷神社)の祠の裏(現在の新潟市秋葉区大安寺445番地あたり)に家を建てて住む。当時は本家津右衛門の家と向かい合わせに建っており、敷地の西側には今も坂口家代々の墓がある。安吾の骨もここに納められている。
 この地には1873年頃まで80年ほど居住し、安吾の父仁一郎もここで生まれる。ただし、後に表記される本籍地はここではない。⇒1873年

1795(寛政7)年

頑張る少年、文仲君

 二代友伯こと文仲(1780‐1846)は15歳にして家を再興したいと考え、自ら父に願い出て家政一切をとりしきる。無用の古美術品を売り払って家計を支え、医業にも携わりながら、わずかに残った田地を耕耘させた。以前に増して栄えていた本家の三代津右衛門から資金援助の申出があったのも断って、20余年再興に力を尽くす。
 文化文政(1804‐29)の頃、医師坂口友伯が大安寺で寺子屋を開いていたという記録が残っているが、初代か二代目かは不明。

◆世相・文化

 1798年3月、本居宣長『古事記伝』完成。
 1802年、十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』初編刊行。
 1809年、式亭三馬の滑稽本『浮世風呂』初編刊行。
 1811年、式亭三馬の滑稽本『浮世床』初編刊行。安吾はこれらの滑稽本を日本のファルスの古典として愛読したと「FARCEに就て」で述べている。

1816(文化13)年

良寛をニセ道人よばわり

 8月中旬、文仲は令名高い僧良寛の住む国上山(くがみやま)の五合庵に酒を持って訪れる。文仲36歳、良寛58歳の時。良寛は野草を摘んで供し、チガヤを切って箸とした。その折、二人は次のような歌のやりとりをした。
 「はぎ箸と世に伝へしを茅萱箸花おしみてか枝をしみてか 文仲」
 「くさのいほなにとがむらむちがやばしおしむにはあらずはなおもゑだも 良寛」(原文はすべて濁点なし)
 草の庵にはチガヤ箸が似合いで、萩の箸などと風流ぶる必要はないでしょう、何も惜しんでいるわけではありませんよ、というほどの意。
 二人は半日酒を酌み交わしながら歓談したが、帰宅した文仲は、あれはニセ道人だと言い捨てたという。禅僧でありながら酒好きであることを皮肉ったのかもしれないが、その場で良寛自筆の歌を書いてもらい、その下に水墨画「五合庵良寛初対面之図」を隣人に描かせたりした記念の幅が今に残っているのをみれば、文仲がいかに良寛に感服したかが量り知られる。

 ※注 幅には「文化十五子八月中旬」と記されているが、1818年は4月に文政元年に変わっており、また子年は文化13年であるため、文化13年の誤記とみる谷川敏朗氏の説をとった。

◆エピソード

 安吾はエッセイ「日本文化私観」の中で「大雅堂は画室を持たなかつたし、良寛には寺すらも必要ではなかつた。〔中略〕画室や寺が彼等に無意味なのではなく、その絶対のものが有り得ないといふ立場から、中途半端を排撃し、無きに如(し)かざるの清潔を選んだのだ」と良寛を高く評価している。また、最晩年の「安吾新日本風土記」でも最後に良寛の書「天上大風」を掲げて締めくくりとしている。

◆世相・文化

 1814年、滝沢馬琴『南総里見八犬伝』初輯出版(完結は41年)、武士道と儒教思想に則った波瀾万丈の伝奇ロマンが大好評を博す。安吾は「現代小説を語る」座談会で、馬琴が古典とされることについて「日本の読書界の貧困を物語るものだね」と語り、その説教臭さを批判している。
 1818年4月、全国の沿岸測量をおこなった伊能忠敬が死去。その正確な実測図は21年に完成。

1819(文政2)年

再興後は悠々自適の文仲君

 初代友伯死去。家の再興も成り、田地の収穫は年数百石に及んだという。文仲は16歳の長男得太郎(1803‐39)に家を任せ、わずかに医業に携わるほかは、大酒、囲碁将棋、俳句、詩歌などを友人らと楽しむ毎日を過ごす。風雅に親しみ、加藤北溟の経学と村松藩医佐々長庵の医術に心服、深く仏教に帰依していたが、快活で大声、人を罵ることも多く、いたずら好きな性格だったと伝えられる。

 ※注 当時の米1石はほぼ金1両に相当。現代の貨幣に正確には換算できないが、4万~12万円ぐらい。1石10万円として年数百石の収穫は数千万円の年収に当たる。富豪とはいえないが、裕福になったといえる。

◆エピソード

 この年から初めて酒を飲んだと『北越詩話』に記されているが、良寛との対面の時を含め、以前から相当飲んでいたと想像される。治療を請いに来た人には「草医者は往々にして誤診をする。死ぬのが怖くないなら俺の薬を飲め」と言ったりしたので、医業はかなり暇だったらしい。中年以後は貧者に薬を施すのみだったという。

◆世相・文化

 1825年2月、ロシア、イギリス、アメリカなどからの通商の求めが次第に強圧的になったため、異国船打払令が下る。
 1827年、頼山陽が『日本外史』全22巻をまとめる。源平から徳川に至る武家の盛衰を漢文で著したもので、仁一郎は『北越詩話』刊行後、これを目標として五言古詩を作ったりしていた。
 1828年10月、シーボルトが日本地図などを入手したことが発覚し、厳しい審問の末、国外追放となる。

1839(天保10)年

女丈夫だった安吾の曾祖母

 得太郎も代々の医業に携わったが、36歳で早世。その長男得七(1827‐1906)はまだ12歳で病弱でもあったため、文仲は得太郎の妻ミタ(1812‐1875)に後添えを迎えようとしたが、ミタは髪を切って志を見せ、感じ入った文仲は彼女にその後の家業を任せた。ミタは仁一郎ら孫たちに常々「わが家の今日あるは文仲君の力なり」と語りきかせていたという。

◆世相・文化

 1832~37年まで、天保飢饉により全国的に凶作となる。相次ぐ百姓一揆への対策として、1841年、天保の改革が始まる。
 1837年秋、越後魚沼の特色や伝説などをしるした鈴木牧之『北越雪譜』初編刊行(第2編は41年11月刊)。安吾は「日本の山と文学」で香川景樹の歌などとともに引用している。
 1839年5月、蛮社の獄が起こり、鎖国政策を批判した渡辺崋山・高野長英らが捕らえられる。
 1840~42年、英国と清の間でアヘン戦争が起こり、英国が東洋で優位な立場を築く。

1843(天保14)年

藍沢南城vs大野耻堂

 文仲の息子(得太郎の弟)秀三郎が刈羽郡南条村(現柏崎市)の私塾三余堂に入門。三余堂は藍沢南城(1792‐1860)が1820年に創設、近郊はもとより遠方からも豪農・豪商の子弟が参集したが、新津地域からは秀三郎を含む5人の名が門人記録に残っている。藍沢南城は古今東西の文献を考証研究する折衷学の儒学者で、新発田藩の大野耻堂(ちどう)、丹羽思亭と並び称された。

◆エピソード

 安吾の父仁一郎は縁戚でもあった大野耻堂の方に入門、安吾は耻堂の曾孫にあたる大野璋五一家と太平洋戦争後に同居する因縁をもつ。

◆世相・文化

 1849年7月、佐渡に異国船あらわる。
 1853、54年の二度、ペリーが艦隊を率いて浦賀および神奈川沖に来航。幕府は圧力に屈して鎖国を解き、日米和親条約を結ぶ。以後、英仏露とも和親条約締結。

1858(安政5)年

軍事費献納の標的とされた坂口家

 この頃、海岸警備の軍資金として「友伯」が35両を献金した記録が残っている。二代友伯こと文仲(1846年死去)とその子得太郎はすでに亡いので、得太郎の妻ミタかその子得七が友伯名義で献金に応じたものか。得七は中年になるまで病身であったと伝えられるが、31歳になるこの年以前に渡辺ユウ(1834‐1897)と結婚している。
 この時の大安寺村からの献金は他に津右衛門の千両と九右衛門の五両がある。九右衛門は三代津右衛門の分家筋。破格の大金を数年にわたって献金した本家の八代津右衛門(1825‐1881)は入り婿で、神道無念流坂口派と称して邸内に道場を開き、諸国の武芸者や文人らを寄宿させた。また、その豪遊ぶりでも名を馳せ、冬にも尺玉の花火を打ち上げさせていたと伝えられる。幕末には会津藩からの依頼を受け大量の刀を造るなど巨額の軍資金を献納している。

◆世相・文化

 1856年8月、米国総領事としてハリスが着任。58年6月、大老となってまもない井伊直弼は、ハリスの指摘する英仏の侵略を恐れ、アヘン禁輸条項を盛り込んだ日米修好通商条約に調印。これにより新潟が開港場と決定(1868年開港)。安吾はハリスの日記を読み、「安吾下田外史」の中で、ハリスのことを「独自の見識と抱負をもった稀な人物であったために、日本は恵まれた」と好意的にみている。

1859(安政6)年

安吾の父仁一郎誕生

 1月2日、得七とユウの間に長男仁一郎(1859‐1923)誕生。住居は初代友伯から続く稲荷神社裏の家(現在の新潟市秋葉区大安寺445あたり)。仁一郎の兄弟には長女幸(こう)(1860‐92。難波岩三郎に嫁す)、次男義二郎(1864生。南家へ婿入り)、次女貞(1869‐1946。松之山の村山家へ嫁す)、三男信吾(1877生。村山家へ婿入り)、三女留の5人が生まれる。

◆世相・文化

 4月、ロシア船とオランダ船が新潟に来る。
 9月、安政の大獄で、井伊直弼が攘夷派に弾圧を加える。翌年3月、井伊は桜田門外の変において水戸藩浪士らに暗殺された。

1869(明治2)年
10歳
(仁一郎の年齢。以下同)

戊辰戦争のツケで本家没落

 1月21日、安吾の母アサ(1869‐1942)が蒲原郡五泉町(現在の五泉市五泉)の大地主吉田久平(9代目。1834‐1901)の二女として誕生。
 この年、坂口家の向かいにあった本家の八代津右衛門は、新政府軍の非情な監察官を斬殺して逃げて来た会津藩士伴百悦(ばん・ひゃくえつ)を匿う。紙幣印刷機が津右衛門邸に持ち込まれ密かに紙幣を製造、伴は翌年大安寺村の郊外で村松藩兵に包囲されて自害する。戊辰戦争前後にはこうした贋金づくりが横行し、その罪による斬首も多かった。津右衛門も厳しく追及されて入牢、さらに財産も処分されたといわれる。
 この印刷機に関しては、軍票(軍用手形)印刷機であったともいわれ、津右衛門は当時会津軍だけでなく新政府軍からも軍資金をせびられていたという(桐生「カフェ・パリス」マダム中村千代子氏談)。

◆エピソード

 安吾は母の実家である吉田家のことを「この一族は私にもつながるユダヤ的な鷲鼻をもち、母の兄は眼が青かつた」と書いている。「この鷲鼻の目の青い老人は十歳ぐらゐの私をギラギラした目でなめるやうに擦り寄つてきて、お前はな、とんでもなく偉くなるかも知れないがな、とんでもなく悪党になるかも知れんぞ、とんでもない悪党に、な、と言つた」(「石の思ひ」)。

◆世相・文化

 1868年3月、幕府全権を担った勝海舟と新政府軍の西郷隆盛が会見、江戸城無血開城に導き、明治維新が始まる。
 同年5~7月、長岡軍と新政府軍とが会戦、長岡城陥落。8月に会津藩・米沢藩同盟軍と新政府軍とが会戦、同盟軍は新津、五泉方面へ退却。9月22日に会津藩が降伏し、戊辰戦争終結。
 同年11月、佐渡と柏崎県を新潟府に合併。新潟港が開港。

1871(明治4)年
12歳

大野耻堂、仁一郎少年を激賞す

 仁一郎、蒲原郡聖籠(せいろう)村諏訪山の絆己楼(はんきろう)に入門。絆己楼は大野耻堂が1853年に開いた私塾で、建物はいまも往時のまま保存され有形文化財に指定されている。仁一郎は従兄の野村俊次郎と共に下宿生活をして漢学詩文を学び、とくに五言絶句は耻堂に激賞された。漢詩人としての一面はこの時に決定づけられる。なお、庶民の帯刀は禁じられていたが、大小2本の刀を差して堂々と塾に通ったという。

◆世相・文化

 7月14日、廃藩置県により越後10藩が13の県に変わる。
 11月20日、府県整理により、新潟・柏崎・相川の3県となる。1874年までに3県合併。

1872(明治5)年
13歳

進取の気性を大いに発揮す

 年末、仁一郎は絆己楼から帰省。年明け正月に数え年15歳で元服祝いをする予定だったが、前髪を剃って月代(さかやき)にするはずのところ、俊次郎と共にちょんまげを落としたイガ栗頭になって帰ってきて、祖母ミタを非常に立腹させる。前年に断髪令は布告されていたが、ちょんまげへの執着がまだ根強かった時期のことである。

◆世相・文化

 2月、福沢諭吉が『学問のすゝめ』初編を刊行。
 太陽暦が採用され、12月3日が1873年1月1日となる。
 豊作と政府の倉庫米払い下げに伴い、1870年に10kgあたり61銭だった米価が72年には26銭まで下落。

1873(明治6)年
14歳

貧乏神に魅入られた得七(本籍地への転居)

 春、仁一郎が絆己楼を退学して帰郷。
 この頃、一家で同じ蒲原郡大安寺村のはずれに転居(後年、仁一郎および安吾の本籍として表記される場所で、地番は新潟県中蒲原郡阿賀浦村大字大安寺11番地→新津市大安寺509番地と変遷。現在の新潟市秋葉区大安寺509)。900坪ほどの広い宅地で、建物は旧村松藩主の隠宅を移したものといわれる。この土地は坂口家が手放した後、大安寺尋常小学校(のちの阿賀小学校)となったが、現在は空き地。当時の坂口家の所有地は約200町歩(地価にして5万)あり、米・麦・大豆などあわせて2000俵の収入があった。坂口家墓所横の旧宅は、坂口家の使用人だった昆氏が譲り受ける。
 しかし同じ頃、得七が米穀相場会社(米社)の投機に失敗、3000円余りの損失補填のため田畑の過半を失う。得七は米社のほかにも矢沢鉱山開発でも多額の投資をしており、これについても後に、仁一郎ができるかぎり損失の少ない形で処分するべく奔走した。
 11月18日、仁一郎は蒲原郡早通村の地主玉井唯次郎の二女ハマ(1860.3.12‐1889)と結婚。仁一郎14歳、ハマ13歳であった。

◆世相・文化

 1月、徴兵令が公布される。
 6月、地租改正条例公布。これにより土地所有者は地価の3%の現金を税として納めることになった。
 7月、福沢諭吉、森有礼、西周、中村正直らが明六社を設立、啓蒙思想の普及に努める。この頃、福沢は大隈重信と出逢い、親交を深めていく。
 10月、明治6年の政変。征韓論に破れた西郷隆盛、板垣退助、副島種臣らが下野する。

1874(明治7)年
15歳

仁一郎、大志をいだいて出奔

 得七の投機失敗に怒ったミタは家督を仁一郎に譲るよう迫るが、仁一郎は東京へ出奔、工部権大丞(ごんのたいじょう)の官に就いていた大野誠(号は楳華。耻堂の子)の許に身を寄せた。この折、漢詩界の第一人者であった森春濤(しゅんとう)門下の詩人山中耕雲と知り合う。大野邸は麹町下二番町にあり、仁一郎は病気治療のため下谷の順天堂に通っていたが、その途次にあった大隈重信の大邸宅が強く印象に残ったと後年語っている。坂口家では使用人の昆倉蔵を何度も捜索に向かわせ、胃腸の病気で神田の佐藤病院に入院していたところを連れ戻される。入院時、仁一郎は「野阪やすし」の変名を使っていた。

 ※注 工部省は殖産興業を支えた当時の中央官庁。大丞(たいじょう)は卿(大臣)、大輔、少輔に続く省内のナンバー4で、権官はその代理といった役職。

◆世相・文化

 1月、板垣退助らが民撰議院設立建白書を政府に提出。
 新潟県、地租改正事業に着手。

1875(明治8)年
16歳

女丈夫ミタの死去

 仁一郎は帰郷後2カ月もたたないうちに再度上京、小石川江戸川にあった中村正直(敬宇)の同人社に数カ月通学して洋学を学ぶ。当時福沢諭吉と並び称された中村は、1870年に出版した翻訳『西国立志篇』が大ベストセラーとなり、73年には福沢、森有礼、西周らとともに明六社を設立、啓蒙思想の普及に努めていた。
 この時には得七みずから東京に向かい、神楽坂の下宿屋に仁一郎を見つけて連れ帰ったという。弟の南義二郎によれば「出奔以前と以後とでは大いに性格が変化し」「不平満々たる青年だつた」という。
 この年、仁一郎の祖母ミタ死去。

1876(明治9)年
17歳

仁一郎をひきたてた本間新作

 仁一郎、蒲原郡下新村の豪農本間新作とともに、村松町から七日町村に及ぶ広大な地域の地租改正問題に取り組み、3年余にわたって奔走する。本間は当時、第四国立銀行の取締役であり、翌年には新潟町上大川前通十番町の新潟米商会所(得七が失敗した米社の後継会社で、のちの新潟証券取引所の前身)を設立して頭取となる。また、翌年4月に創刊される『新潟新聞』の発起人にも名を連ねていた。本間とのつながりからみて仁一郎早い時期から米社や新潟新聞社にかかわっていたと推測でき、米社は79年に、新聞社は10年後の87年には仁一郎が指揮権を握ることになる。
 9月3日、仁一郎とハマの間に長女シウ(1876‐1946)誕生。

◆世相・文化

 3月、廃刀令公布。
 10月、明治政府に反感をもつ士族たちが各地で神風連の乱、秋月の乱、萩の乱を起こす。

1877(明治10)年
18歳

『新潟新聞』創刊

 この頃、仁一郎は新潟町にいた山際操(柳堤)の詩才を認めて突然訪問。その後、2人はしばしば往来して漢詩を詠み合う仲となる。

◆世相・文化

 2月、西郷隆盛をリーダーとして士族らが西南戦争を起こすが、9月に西郷らが自刃して終結。
 4月7日、『新潟新聞』創刊。全国で最も古い地方新聞である。上大川前通七番町の印刷所隆文社が発行元で、社主は鈴木長蔵、編輯長は慶應義塾卒の『日新真事誌』記者斎木貴彦、印刷人は大江萬里。斎木はまもなく局長となり、11月から同じく慶應卒の藤田九二が編輯長をつとめた。創刊時より福沢諭吉肝煎りの新聞であったことがわかる。5月以降は同住所内に新潟新聞社を置き、日祝休刊だったのを月祝休刊とした。価格は1枚1銭5厘、1カ月払い35銭、3カ月払い1円であったが、7月以降それぞれ1銭3厘、30銭、80銭に値下げした。翌78年10月、本町通七番町501番地(翌年28番地に地番変更)に移転。

1878(明治11)年
19歳

郡会議員になり大隈重信と出逢う

 仁一郎は能代(のうだい)川に堰を築くための県費補助金要求でも活躍し、郡会議員に選出される。
 9月、大隈重信らを供奉として明治天皇が北陸御巡行。新発田から新津へ赴く日、本間新作父子と仁一郎が分田(ぶんだ)(現在の阿賀野市分田)の渡し口に御休憩所を設け、氷水と麦湯を饗応する。この時を契機に仁一郎の大隈に対する尊敬の念が強まっていく。

◆世相・文化

 5月、大久保利通が暗殺される。前年5月に木戸孝允も病死、維新の三傑と讃えられた西郷・大久保・木戸が相次いで没した。
 7月22日、郡区町村編制法施行に伴い、蒲原郡が分割され大安寺は新潟県中蒲原郡になる。現在の新潟市中心部は新潟区となる。

1879(明治12)年
20歳

漢詩界デビュー

 本間新作のあっせんにより、仁一郎が弱冠20歳にして新潟米商会所(米社。1893年から新潟米穀取引所、1902年から新潟米穀株式取引所、戦後は新潟証券取引所と変遷)の頭取代理となる。新潟区内では古町通五番町の池上旅館などに滞在する。以後、新潟米穀株式取引所理事長として死ぬまでこの米社を手放さなかったが、一度も相場には手を出さなかったという。
 10月頃、森春濤門下の山中耕雲が来越、仁一郎は山際操と共に歓待する。この時、耕雲の推薦により2人の漢詩が春濤の許へ送られる。
 12月から春濤の月刊誌『新文詩』(1875年創刊)に、仁一郎(五峰)と操(柳堤)の漢詩が載りはじめる。「五峰」の号は、大安寺村から遠望される五頭山の5つの峰に因む。名字は「阪口」の字を好んで用いた。五峰の詩は「剛健の気を帯び」「理窟に長じてゐるから古詩大作にふさはしい」と師の春濤は評した。
 11月に『新潟新聞』主筆に着任した尾崎行雄(咢堂)が、新潟に居住した2年の間、仁一郎を漢詩の師と仰いで一酔一吟社を結成、毎月詩会を開く。

◆エピソード

 地方在住の漢詩人として五峰とともに春濤門下の双璧とうたわれた岡山県倉敷の田辺碧堂は、五峰の詩について「君の詩は実に堂々の趣きを具へてこれを建築に例ふれば大伽藍のごとき根強いがつしりしたものである。たゞ荒作りで彫琢の点に欠くるところがないでもないが地震にも暴風にもびくともせずして聳え立つてゐる大建築」だと評した。
 安吾の「青春論」の中に「三好達治が僕を評して、坂口は堂々たる建築だけれども、中へ這入つてみると畳が敷かれてゐない感じだ、と言つたさうだ」とあるのに似ている。

◆世相・文化

 6月、最初の新潟県会議員選挙があり、本間新作が当選。新潟新聞社社長の鈴木長蔵が県会副議長となる。
 同年4月、『新潟新聞』主筆(編輯長)であった藤田九二が辞任。5月に福沢諭吉の推薦により古渡資秀が「主幹」として入社するが、8月にコレラで病死したため、福沢は新たに21歳になる直前の尾崎行雄を推薦、「総理」の肩書きで11月に入社。翌81年7月に尾崎が東京へ去るまでの間、新潟新聞社は80年8月に火災被災、しばらく新潟区大畑通一番町に移り、81年5月に新潟区医学町通一番町3番地に新築移転した。
 10月20日から12月19日まで、新潟県庁構内にて最初の県会が開かれる。この時、書記に委嘱されたのが来越まもない20歳の尾崎行雄であった。
 安吾は戦後の第一声を「咢堂小論」と題して執筆(ただし発表は遅れて単行本に書き下ろしとなった)。咢堂の世界連邦論に共鳴する部分も多かったが、「私自身の体臭を嫌ふごとくに咢堂を嫌ふ気持をもつてゐる。私の父は咢堂の辛辣さも甘さも持たなかつた。咢堂が二流の人物なら、私の父は三流以下のボンクラであつた」と「石の思ひ」で書いている。同作ではさらに、咢堂が仁一郎のことを「新潟人のうち酔つ払つて女に狎れない唯一の人間だつた」と語ったエピソードも紹介されている。

1881(明治14)年
22歳

仁一郎、新潟区を本拠とする

 仁一郎は上大川前通四番町鍛冶小路角伊狩屋文兵衛の借家に居を構え、妻ハマや妹貞と同居。『五峰遺稿』下書き稿に庚辰~辛巳(1880‐81年)に「居を大川前に移ス」とある。
 8月、森春濤が来越し、仁一郎宅に投宿。この折、小崎懋(おざき・つとむ)(藍川)が春濤門下に入る。仁一郎は小崎らを誘って、上京した尾崎行雄の詩会・一酔一吟社を引き継ぐ。小崎は仁一郎の紹介で新潟新聞社の記者となる。

◆世相・文化

 5月、大隈重信が国会開設委員を民間から登用するため統計院を新設。大隈は親交の深い福沢諭吉の支援を受けて、慶應義塾出身者を中心に声をかける。尾崎行雄と犬養毅も呼ばれて、ともに権(ごんの)少書記官に任ぜられる。
 7月、尾崎行雄が上京したため、新潟新聞社の主筆後任は、福沢と尾崎の推薦により慶應義塾講師の津田興二が引き継ぐ。
 10月、「明治14年の政変」にて伊藤博文がを免官に追い込み、これにより薩長藩閥を軸とした政権の基本路線が確立。
 この年、板垣退助が日本初の政党・自由党を結成。板垣は新潟県でも遊説し、県下の政治家の多くが自由党に入党した。

1882(明治15)年
23歳

動きだす大隈グループ

 7月、箕浦勝人(かつんど)(青洲)が『新潟新聞』主筆として来越(翌年4月まで)。箕浦は立憲改進党の機関紙がわりに『新潟新聞』を利用する。また、同紙の小崎懋、大桃相資を通じて仁一郎とも知り合い、酒席で詩を談じたり政論を戦わせたりするようになる。
 10月15日、武者喜澄(城川)と本間新作(禾雄)の編集で創刊された文学雑誌『文海一珠』の巻頭に、五峰(仁一郎)の七言絶句が載る。これは漢詩・和歌・俳諧の月刊雑誌で、中蒲原郡下新村、嘯月社刊。同人には前記3名のほか、仁一郎の弟義二郎(秋山)、大桃相資、小崎懋、中村龍太(梨洲)ら。仁一郎は自らの漢詩も毎号のように載せたが、同人たちの漢詩についての短評も数多く書いている。1885年1月、第18集をもって終巻。

◆世相・文化

 4月16日、大隈重信が立憲改進党を結成。小野梓矢野文雄(龍渓)犬養毅尾崎行雄前島密、箕浦勝人らを党員として、イギリス流立憲君主制や二院制議会を目指した。当時、東京大学の学生だった市島謙吉(春城)も大学を中退して改進党の結成に参加した。板垣退助の自由党とともに民権派の二大政党となるが、同じ頃、板垣が暴漢に襲われ負傷する事件が起こっていた。
 10月21日、大隈が東京専門学校(早稲田大学の前身)創立。小野梓、高田早苗らとともに市島謙吉も創立に深くかかわっている。大隈は「明治14年の政変」の影響で開校式に欠席したが、福沢諭吉が代わって祝辞を述べた。
 安吾の二人の兄献吉と上枝がともに早稲田大学に入学したのは、父親をめぐる交友、政治背景と無関係ではないだろう。

1883(明治16)年
24歳

『舟江雑詩』から「越人詩話」へ

 この年、全国各地で立憲改進党の遊説が行われ、市島謙吉小野梓箕浦勝人吉田熹六らが新潟で演説を行う。市島と同郷、新潟県水原の漢方医三浦桐陰も改進党を積極的に支援したので、仁一郎はこの時、市島や桐陰と出逢ったと推定される。3人は詩友となり、「印癖」と呼ばれる印の収集趣味でも交遊した。
 11月、王治本(おう・ちほん)(号は黍園(しょえん))の竹枝(ちくし)詩集『舟江雑詩』を仁一郎が編集して出版。竹枝はもともと古代中国の民間歌謡のことで、あまり形式にとらわれず、恋愛や風俗などを地方色ゆたかにとりいれた漫吟をいう。王治本は清の文人・書家で、1877年に清朝大使館の臨時随員として来日、日本各地に足をとどめて漢詩文の添削指導をした。舟江は新潟を表すが、この83年、治本は三浦桐陰を訪ねて旧交をあたためていた。仁一郎が治本と交遊したのは、桐陰とのつながりによるものであろう。
 この年ごろ、住居を新潟区寄居村の日野屋の借家(のちの知事官舎前)に移す。『五峰遺稿』下書き稿に癸未の年(1883年)「寄居村」に居住して詩を詠んだと書かれている。
 この頃から「越人詩話」の連載を構想し、資料博捜を始める。

◆世相・文化

 3月27日、新潟県会議事堂が落成。
 4月1日、上越地方初の日刊紙『高田新聞』創刊。市島謙吉が社長兼主筆となる。

1884(明治17)年
25歳

仁一郎、県会議員に

 6月、立憲改進党員で『郵便報知新聞』記者の吉田熹六が『新潟新聞』主筆となる。
 8月、中蒲原郡の県会議員に欠員が生じ、補欠選挙に仁一郎も出馬、初当選を果たす。立憲改進党に属し、衆議院に出るまでの約20年の間に9回当選、県議を辞したのは一度だけであった。阿賀浦橋の架橋、新発田街道の新設、阿賀野川改修工事の促進などは、いずれも仁一郎の尽力によるものといわれる。

◆世相・文化

 6月、全国の新聞人の筆禍が相次ぐ中、『高田新聞』の市島謙吉も8カ月入獄することになる。

1885(明治18)年
26歳

初の総理大臣は政敵

 3月に創刊された文学雑誌『萍水』の序文を五峰が寄稿。
 この年ごろ、北大畑町547番地(行形亭(いきなりや)の南東向かい。のちの吉田家別邸)へ転居したと推定される。

 ※注 従来、この年に西大畑町へ転居したとされてきたが、1888年12月27日付『新潟新聞』に次のような案内記事が出ていたことを帆苅隆氏が発見した。
 「西大畑町廿八番戸(堀田楼上隣)へ移転す/十二月二十五日 坂口仁一郎」
 これにより定説の誤りが判明。おそらくは近所の北大畑町547番地の家に移り住んだのが85年であったかと推測される。高木進氏の1973年の調査(八吾の会編『安吾の新潟~生誕碑建立にむけて』2005年に再録)によると、土地台帳ではこの北大畑の土地40坪は1906年10月から09年10月にも坂口家の所有になっており、その後、安吾の母方の伯父吉田久平(10代目)の別邸となり、1956年まで吉田家が所有した。「石の思ひ」に登場する従兄と女中頭の「白痴」の子が住んだ家である。

◆世相・文化

 太政官制度が廃止され、内閣制度へ移行。伊藤博文が初代の内閣総理大臣になる。
 坪内逍遙が『小説神髄』を刊行。日本の近代文学誕生に寄与した。

1886(明治19)年
27歳

市島春城と盟友になる

 4月、『新潟新聞』主筆の吉田熹六が洋行のため退任。東京専門学校の政治学講師になって1年めの市島謙吉(春城)大隈重信尾崎行雄高田早苗の推薦を受けて『新潟新聞』主筆となる。これ以後、市島は仁一郎と終生の親友となる。

◆エピソード

 安吾は父親の交友関係にはほとんど無関心だったが、市島には親近感をもったようである。「石の思ひ」の中で人間が本来もっている「悲しみ」に触れ、父や長兄にはそれが皆無だが、「後年市島春城翁と知つたとき、翁はこの悲しみの別して深い人であり、又、會津八一先生なども父の知人であるが、この悲しみは老後もつきまとうて離れぬ人のやうである」と述べている。

◆世相・文化

 11月4日、信濃川の河口に萬代橋が開通。6連アーチで、全長782m(現在の約2.5倍)、幅6.7mという日本最大規模の木橋であった。 ⇒1909年

1887(明治20)年
28歳

新潟新聞社の経営に乗り出す

 新潟新聞社の初代社長で官僚寄りの鈴木長蔵が、主筆の市島謙吉と対立して退社。本間新作が一時的に社長となり、鈴木が放出した株を仁一郎が引き受けて同社の経営に加わる。

◆世相・文化

 二葉亭四迷が言文一致体の写実小説『浮雲』第一篇を刊行。

1888(明治21)年
29歳

西大畑の七松居へ

 この年の春から翌年にかけての時期、仁一郎は市島謙吉に伴われて大隈重信を訪問、初めて談話を交わす。
 1月、市島謙吉の東京大学同期の友人坪内逍遙が『新潟新聞』に小説「赤星屋物語」連載を始めるが、第1回で中断。2月になって、坪内は代わりにと翻訳小説「無敵の刃」を始めるが、病気でこれも続けるのが難しくなり、続きを市島が訳載する。
 2月、新潟県政財界の重鎮だった山口権三郎の首唱により、新潟で殖産協会が設立され、仁一郎も県議仲間の内藤久寛(栗城)らと参画する。石油開発ブームの中、協会にて日本石油会社を興すことが決まり、会社の定款を仁一郎と内藤が起草。5月10日、内藤を社長として創業した。
 12月、仁一郎と市島謙吉らは殖産協会内に立憲改進党を支援する「同好会」を組織する。
 12月11日、仁一郎とハマの間に二女ユキ(1888‐1935)誕生。
 12月25日、仁一郎が新潟区西大畑町28番戸の借家へ転居。新潟大神宮と隣接した大きな家で、母屋と離れをあわせて90坪ほどあった。庭に松が7本あったことから仁一郎は「七松居」と名づけ、時にそれを自らの号にも用いた。

 ※注 町名を「西大畑通」とした例もある。たとえば、安吾没後の1956年7月12日に取得された戸籍(除籍)謄本では、「新潟市西大畑通弐拾八番戸ニ於テ出生」とある。しかし『新潟大事典』等によれば、「西大畑通」という道路名はあっても町名になったことはなく、正式ではない。実際、安吾出生当時、仁一郎が出した手紙の自宅住所は「西大畑町」になっている。もっとも、安吾は幼時に「西大畑通」と自宅の住所を記して手紙を出したことがあり、通称としては用いられていたようだ。
 なお、地番については明治19年に編成された戸籍により「番戸」表記になったが、明治22年以降編成の戸籍は「番地」で表示するように統一された。つまり、転居の翌年には「西大畑町579番地」となるはずだが、番地表記が全国に定着するまでには時間がかかり、安吾出生時の明治39年にも「番戸」表記が残っていた。

◆エピソード

 安吾は西大畑の生家のことを「田舎の旧家ほどだだつ広い陰鬱さはなかつたけれども、それでも昔は坊主の学校であつたといふ建築で、一見寺のやうな建物で、二抱へほどの松の密林の中にかこまれ、庭は常に陽の目を見ず、松籟のしゞまに沈み、鴉と梟の巣の中であつた」(「石の思ひ」)と書いている。
 また、母アサの遠縁で大正期に6、7年坂口家に住み込みで家計顧問をしていた藤宮完止によると、生家の建物は昔の検断という役所であったという。ただし、これは近所にあった新潟刑務所の前身の話を聞き違えた可能性もある。
 高木進氏の調査によると、安吾の叔母村山セキの語ったところでは「イギリス人が明治初めに来港して女学校を建てた、その家をそのまゝ使ったので大きな家だったもので、変った格好の、外人が使用した机が家の中に残っていた」という。これについても、近所の金井写真館がまさにこの話にあてはまるので、聞き間違いの可能性が高い。
 セキの夫村山真雄は、中学進学のため1897年頃から5年ほど坂口家に寄宿したが、『月刊にいがた』1947年5月号の回想文で「本宅のもと曹洞学校の跡なる家の式台には適々寺院と誤まられ賽銭などがこぼれいる」と記して、安吾の聞き書きを跡付けている。
 どの説も郷土史家は認めていないが、「曹洞宗の学校」説が証言者2人で、しかも自筆文章によるものである点、最も有力な説といえる。

◆世相・文化

 2月、伊藤博文内閣で外相井上馨の辞任に伴い、政敵の大隈重信が外相となる。2カ月後の4月に発足した黒田清隆内閣でも大隈は外相に留任、不平等条約の改正に取り組む。アメリカ・ドイツ・ロシアと個別交渉のかたわら、11月30日にメキシコと最初の対等条約を結ぶ。

1889(明治22)年
30歳

はじめの妻ハマ死去

 4月1日、町村合併によって大安寺は中蒲原郡阿賀浦村の大字となり、得七が阿賀浦村の村長に選出される。また、新潟区と関屋村が合併し、新潟市となる。
 11月18日、三女ヌイ(1889‐1930)誕生するも、仁一郎の妻ハマは産後の肥立ちが悪く、12月1日に29歳で急逝。

◆世相・文化

 2月11日、大日本帝国憲法発布。
 5月、大隈重信が進めていたアメリカ・ドイツ・ロシアとの条約改正で、大審院に外国人判事を任用するなどの譲歩案がおおやけになり、非難の声が上がる。
 10月11日、伊藤博文が条約改正に反対して辞表を提出。
 10月18日、大隈重信が国家主義団体のテロに遭い、右足を失う。大隈はそれでもなお自説の条約改正案を貫く決意であったが、大隈以外の全閣僚が辞表を提出、受理はされなかったが黒田内閣は倒れ、改正案は見送られる。  12月14日、大隈は外相を辞任。24日に元老山県有朋が藩閥内閣を組閣。

1890(明治23)年
31歳

立憲改進党に吹く逆風

 4月26日、条約改正問題を争点として県会も紛糾し、解散。県会議員選挙では立憲改進党が大敗する。仁一郎は県議を辞して立候補しなかった。
 6月、市島謙吉が第1回衆議院選挙に立候補するも、やはり改進党は逆風を受け、落選。
 10月、市島は改進党同志で『読売新聞』主筆の高田早苗の勧誘を受けて同紙の編集に参画することを決め、『新潟新聞』主筆後任を小崎懋とする。

◆世相・文化

 7月1日、第1回衆議院議員総選挙実施。ただし選挙権は直接国税15円以上納税の満25歳以上の男性に限られ、有権者数は全人口の1%余りに過ぎなかった。⇒1902年1920年1925年
 結果は自由党が圧勝、次いで保守派の大成会、立憲改進党の順。立憲改進党の尾崎行雄もこの選挙で当選し以後63年にわたって議員をつとめた。

1891(明治24)年
32歳

仁一郎、新潟新聞社の社長になる

 6月、市島謙吉が新潟新聞社を辞して上京したため、同社は株式組織をやめ、社長・仁一郎と主筆・小崎懋の共同所有となる。
 9月19日、仁一郎が中蒲原郡五泉町(現在の五泉市五泉)の吉田アサ(1869‐1942)と再婚。
 11月、仁一郎と古町通八番町「五泉屋」の芸妓五泉キチとの間に四女キヌ(1891‐1984)誕生。⇒1913年1916年

◆世相・文化

5月、元老松方正義が組閣。

1892(明治25)年
33歳

「越人詩話」連載

 1月5日から10月30日まで、仁一郎は七松山人名義で『新潟新聞』に「越人詩話」を百数回にわたって連載。郷土の漢詩人たちの人と作品を紹介・集成しようという試みで、のちの『北越詩話』の原形となる。ただし、この時点ではまだ人数は少なく、これ以後もずっと資料博捜・精査・研究が続く。「越人詩話」と16年後の『北越詩話』とは文章も内容も大きく異なっている。⇒1918年1919年

◆世相・文化

 8月、第2次伊藤内閣発足。
 11月、「七頭の豺狼(さいろう)」事件と呼ばれる新潟県白根の自由党議員の県道工事にからむ汚職が発覚、県会開会中に2人が検挙される。以後、多数派であった自由党への非難が相次ぎ、県会解散に追い込まれる。

1893(明治26)年
34歳

新潟県の代表に昇りつめる

 2月、前年の「七頭の豺狼」事件に端を発した県会議員総選挙で、立憲改進党が大勝利を収める。仁一郎も再出馬して当選、3月に県会議長となる。
 4月27日から6月7日まで、仁一郎が松下聴濤名義で『新潟新聞』に「説詩軒俳話」を連載(25回)。漢詩の立場から論じた俳諧論で、俳諧の歴史を辿りながら、芭蕉一人は俳諧の枠をとびこえた悟道の偉才として絶讃している。
 7月9日から18日まで、同名義で『新潟新聞』に「銷夏漫録」を連載(8回)。幕末の越後村上藩士・三宅瓶斎(へいさい)を紹介する序文に続けて、三宅の漢文による「三面紀行」を読み下したものである。
 9月15日から開かれた県会において、信濃川堤防改築の問題で地区間の利害が対立、傍聴席に雇い壮士が陣取って議員の発言を妨害するため、20日、議長の仁一郎は傍聴禁止を宣言する。翌日からは議場内に警官を配置するまでになる。この議案で対立した県知事の籠手田安定(こてだ・やすさだ)を弾劾すべく、仁一郎が県会を代表して法制局へ陳情に赴く。その際、早稲田の大隈重信邸を訪問。大隈は明治初年から、信濃川治水のための大河津(おおこうづ)分水開削事業が中断されていたことを気にかけていて、応援してくれたという。⇒1897年
 11月27日、五女セキ(1893‐1984)誕生。アサは1911年までに5男4女をもうけるが、次男と三男は夭折。

◆世相・文化

 8月、第2次伊藤内閣発足。
 11月、「七頭の豺狼(さいろう)」事件と呼ばれる新潟県白根の自由党議員の県道工事にからむ汚職が発覚、県会開会中に2人が検挙される。以後、多数派であった自由党への非難が相次ぎ、県会解散に追い込まれる。

1894(明治27)年
35歳

日清戦争の慰問に赴く

 12月、日清戦争のさなか、仁一郎が県会を代表して広島の大本営に赴く。

◆世相・文化

 8月1日、日清戦争が始まる(翌年4月まで)。
 9月、市島謙吉が衆議院議員に当選、1902年まで3期つとめる。

1895(明治28)年
36歳

孝行息子献吉誕生

 3月、県会改選で再選されるが、県会議長は自由党の高岡忠郷に代わる。しかし、立憲改進党が多数派であるため議事進行は困難をきわめ、高岡は12月に議長を辞す。後任には国権派からも仁一郎へ打診があったが、仁一郎は中立の立場の議長がよいと考えて鈴木長蔵を推薦、新議長とした。
 この年、当時新潟中学一つだけだった県立中学を、高田、長岡、佐渡、新発田にも設立しようという議案が出された。この時、すでに組合立中学のある高田・長岡を先に議決しようとする一派に対して、直接には利害関係のない仁一郎が正面から反対して立った。難しいほうを後回しにする案を通せば、佐渡と新発田に県立中学を置くのは不可能になる。「己れの便宜と思ふ場合は提携して行動しながら苦しくなれば之を振り捨てるといふことは極めて冷酷の処置である」として、町村立組合のない佐渡と新発田の準備が整うまで1年の延期を訴えた。大勢は不利であったが、仁一郎は強硬に主張、ある日は席上で高田派の丸山新十郎と掴み合いの大喧嘩になったという。結果、4地区同時の議決が成立し、翌年10月、準備段階として佐渡と新発田に組合立中学が設立された。
 8月3日、長男献吉(1895‐1966)誕生。吉を献じる人になるようにと仁一郎が命名した。また、少年時代の献吉に「夢楼」という雅号を授け、印章までつくらせている。献吉は生涯、父の思いを大事に守り、生前みずから付けた戒名は「碧空院釈夢楼」であった。
 「人のため幸を捧ぐる菩薩道楽しみの極み今ぞ知りぬる」献吉 1965.3.3

◆エピソード

 安吾は「石の思ひ」の中で、父が自分の子供に対して基本的に無関心であったのに、長男だけには特別に目をかけたようだと回想している。市島謙吉町田忠治といった親友らに「長男にすゝめられて西洋の絵を見るやうになつたとか、登山に趣味を持つやうになつたとか、そんなことまで得々と喋つてゐるのであつた」が、五男の自分がたまに父に呼ばれる時は、決まって墨をすることを命じられるだけで、「墨をすらされるたびに、うるさい奴だと思つた。威張りくさつた奴だと思つた」と書いている。

1896(明治29)年
37歳

支持政党も必要ならば捨てる

 年始明けの『新潟新聞』に、仁一郎が松下聴濤名義で「猿面郎」を発表。秀吉の誕生日であると当時いわれていた丙申の元日から360年めの丙申が巡って来たことに始まり、秀吉の朝鮮出兵と比べて伊藤博文の日清戦争始末を自卑的であると非難したもの。
 2月17日、長女シウが北蒲原郡越岡村(現在の豊栄市岡方)の曽我直太郎に嫁す。
 3月、立憲改進党が他の4党と合同して進歩党を結成。以後、中蒲原郡では進歩党の仁一郎と自由党の高岡忠郷の勢力が拮抗し、町村自治にまで支障を来すようになる。そこで、仁一郎は高岡と相談、2人が提携して地方自治に力を尽くすため、共に脱党する。その後の衆議院議員選挙では2回、高岡に譲り、意気に感じた高岡は後に進歩党に入党することになる。
 4月5日から18日まで、松下聴濤名義で『新潟新聞』に随筆「故紙堆」を連載(12回)。これは近世から近代にかけての珍談や逸事をあつめたもので、「越人詩話」の続きと目される回もある。
 8月、仁一郎は詩友で衆議院議員の内藤久寛(栗城)と共に舟を買い、大水害後の信濃川堤防修築を視察する。
 秋頃、弱冠20歳の山田穀城(よしき)が新潟新聞社に入社。山田は小金花作(こがね・はなさく)の名で新派歌人として知られており、『新潟新聞』の文芸欄「詞林月旦」には山田の和歌が多く採り上げられるようになる。その文才を仁一郎に見込まれ、秘書のような役目で坂口家に起居していた。なお、「詞林月旦」では主に、仁一郎の詩友らの漢詩が紹介され、森春濤門下の森槐南岩渓裳川(いわたに・しょうせん)小崎藍川らが評文を書いたが、仁一郎も五峰名義で折にふれて評文を寄せた。

◆世相・文化

 7月22日、西蒲原郡横田村(現在の燕市横田)で信濃川の堤防が決壊、大洪水となる。翌年、翌々年の夏も県下で水害が起こるが、この年の大水害は「横田切れ」と呼ばれる空前の大水害であった。⇒翌年
 9月、第2次松方内閣発足。松方正義は進歩党との連携が必須と考え、かつての政敵である大隈を外相に迎えたため「松隈内閣」と呼ばれる。

1897(明治30)年
38歳

亡き師春濤への恩愛

 年始明けの『新潟新聞』に、仁一郎が松下聴濤名義で「聞鶏の感」を発表。人心を失って久しい藩閥が存続しつづけるのは、自由党にも進歩党にも自分の利益ばかり追う輩がいるからだと慨嘆したもの。
 4月、松之山の甥村山真雄が新潟中学へ進学のため仁一郎宅に寄宿(1903年3月まで)。
 7月4日から15日まで、松下聴濤名義で『新潟新聞』に「渓声山色」を連載(7回)。師を真似るなら師を越えることはできないから、ひとえに古人を学べと教えた森春濤に対する深い尊敬の念を綴り、春濤の艶麗体に対する世評の浅薄な見方を厳しく指弾している。春濤亡き後の漢詩壇を牽引する子の森槐南や、国分青厓(こくぶ・せいがい)岩渓裳川野口寧斎佐藤六石大久保湘南永坂石埭ら春濤門下の俊英を紹介している。この年4月から新潟県知事として来越した勝間田稔(蝶夢)大野楳華の名も見える。勝間田は漢詩結社「鴎鷺会」を結成、仁一郎や三浦桐陰らとしばしば詩会を催した。勝間田の知事在任3年間が鴎鷺会の最も盛んな時であったが、その後も新知事の柏田盛文(天ヒョウ(「風」扁に「炎」)、新潟地方裁判所所長の松野篤義(洪洲)らが跡を継ぎ、仁一郎と桐陰は10余年参会しつづけた。
 7月から9月にかけて、前年にひきつづき新潟県下で水害が頻発。8月5日には内務省の樺山資紀大臣と古市公威土木局長が視察に訪れ、信濃川汽船で新潟から長岡へ向かった。仁一郎も船中同行して大河津(おおこうづ)分水開削の必要性を訴える。これをきっかけに政府も分水計画の再測量に着手、県会でも本格的に建議される。⇒1909年
 8月17日から24日まで、松下聴濤名義で『新潟新聞』に「消夏小言」を連載(4回)。森春濤一門の権威を失墜させようと図った町田柳塘の文章を語気鋭く非難したエッセイ。柳塘の文中では、森春濤が臨終の時、門下の大江敬香1人にだけ息子槐南との不和を嘆いてみせたとある。しかし、大江は春濤主宰の『新文詩』120余集中たった1首しか載らなかった、ほぼ門外の人であり、春濤・槐南の睦まじさは門人なら誰もが知るところであったと記している。
 11月13日、六女アキ(1897‐1967)誕生。
 この年、母ユウが大安寺にて死去。

◆エピソード

 村山真雄は『月刊にいがた』1947年5月号に、この年から5年間の坂口家のようすを記している。それによると、仁一郎はめったに家にいることはなかったが、妻アサ、父得七、子供5人のほか、入れ替わり立ち替わり常に食客が大勢いたという。仁一郎の弟の義二郎、真雄ら親戚の居候が4人、車夫の伝二郎に乳母が2人、家政婦や使用人が幾人かいたほか、新潟新聞社に入った歌人山田穀城、やはり見込まれて1901年から04年まで20余歳で『新潟新聞』主筆となる沢本与一、沢本の後をうけて『新潟新聞』主筆をつとめる若き日の小林存(ながろう)、よかよか飴屋の爺さん、その連れの若い娘、囲碁仲間や按摩なども常連で入り浸っていた。

1898(明治31)年
39歳

大隈による日本最初の政党内閣

 2月1日から6日まで、仁一郎が七松山人名義で『新潟新聞』に「倭寇詩徴」を連載(6回)。元寇で敗北した元の兵士が詠んだ詩から、倭寇が起こっていく過程を考察したもの。
 7月9日、聴濤山人名義で『新潟新聞』に「秋水及鉄兜(てっとう)」を、10日に同名義で同紙に「菱湖(りょうこ)の墓碑」を発表。聴濤山人名義ではさらに7月12日に「義士の逸事」、14日に「館柳湾(たち・りゅうわん)の室」、17日に「浚明(しゅんめい)及竹沙(ちくさ)」、20日から24日まで「山田蠖堂(かくどう)」(3回)とたて続けに発表した。いずれも「越人詩話」の補遺となるもの。
 4月16日から26日まで、松下聴濤名義で『新潟新聞』に「碁談」を口述連載(7回。第1回のタイトルは「棊談」)。13歳の村山真雄が筆記した。
 この年、仁一郎が東京の憲政党本部を訪ねた時、衆議院議員になったばかりの田辺碧堂もいて、森春濤門下の双璧とうたわれた漢詩人2人が初めて出逢う。

◆世相・文化

 1月、伊藤博文が3度めの組閣。藩閥・官僚による内閣で、地租増徴をめざしたが、3月15日の衆議院議員総選挙で反対派の進歩党と自由党が圧勝、6月に早々と解散、内閣総辞職となる。
 6月、進歩党と自由党とが大同団結して憲政党を結成、旧進歩党の大隈重信を首相兼外相、旧自由党の板垣退助を内相とする日本最初の政党内閣が誕生する(隈板内閣)。
 この時、文相には旧進歩党の尾崎行雄が就いたが、8月21日、尾崎は演説の中で財閥による金権政治を真っ向から批判、これが「不敬」と曲解されて、10月、明治天皇の命により解任される。
 その後、文相の後任をめぐって旧進歩党と旧自由党が激しく対立、大隈が独断で犬養毅を任命すると、板垣ら旧自由党3大臣が辞任し、隈板内閣は倒れた。
 以後、憲政党は分裂、旧自由党が憲政党の名を引き継ぎ、旧進歩党は1910年まで憲政本党を名のる。仁一郎は当然憲政本党に属した。
 11月、第2次山県内閣が発足。再び藩閥・官僚による組閣を行い、地租増徴を実現する。
 この年、自動車が初めて輸入され、築地・上野間を走行。鉄道建設を強力に推し進めた大隈は、早くから自動車社会の到来を予期していた。

1899(明治32)年
40歳

逍遙、紅葉と八一の出逢い

 8月10日、東京専門学校の巡回講話が新潟であり、坪内逍遙、市島謙吉らが講演。7月から8月にかけて、尾崎紅葉が新潟、佐渡を周遊したのは、市島の案内によったと推測される。紅葉は1897年から『読売新聞』に「金色夜叉」を連載中で、市島は同紙主筆として紅葉と交流があった。紅葉はこの時、坂口家にも止宿したという。また、当時中学生で『新潟新聞』などへの投句の常連であった會津八一もこの折、紅葉に面会し「鉄杵(てっしょ)」の号をもらっている。これも市島や仁一郎とのつながりであろう。

◆世相・文化

 9月、北越鉄道が直江津‐沼垂間で開通。

1900(明治33)年
41歳

不穏な時代のはじまり

 9月、新潟市学校裏町31番地の土地を仁一郎が購入。医学町通一番町の新潟新聞社の敷地で銀行の担保に入っていたのを返済したものである。その後一度手放すが、献吉が買い戻して新築、1923年7月に実家はここへ転居することになる。
 9月7日、次男七松(1900‐07)誕生。西大畑の家「七松居」にちなむ命名である。
 12月、23歳の小林存が新潟新聞社の歌人山田穀城に同紙上で論争を挑む。仁一郎は小林の才気を愛して、坂口家へ自由に出入りさせた。

◆世相・文化

 3月、治安警察法が公布・施行され、社会運動や労働運動の取り締まりが始まる。
 4月、新潟県高等女学校が設立される。
 9月、伊藤博文が憲政党(旧自由党)をのみこんで立憲政友会を結成。これを機に旧自由党の板垣退助は政界を引退する。尾崎行雄は大隈の憲政本党を離れて政友会に加わる。
 10月、第4次伊藤内閣発足。

1901(明治34)年
42歳

安吾の祖父二人のその後

 仁一郎の父得七が家財を整理して新潟市へ移住、西大畑の仁一郎宅の離れに住む。大安寺11番地(のちの509番地)の土地と建物は仁一郎の所有として1907年まで残す。
 3月20日、アサの父である五泉の九代吉田久平死去。
 この年、大隈重信が遊説のため来越、仁一郎も同行して県内各地を回る。
 市島謙吉が新潟の旅館で喀血、医師の指示もあって以後の政治活動を断念し、翌年から早稲田大学(同じ年に東京専門学校から改称)の図書館長となる。市島の志を継ぐ気持ちもあってか、翌年、仁一郎は衆議院に出る。

◆世相・文化

 6月、山県有朋を後ろ盾として陸軍大臣だった元老桂太郎が組閣。

1902(明治35)年
43歳

仁一郎ついに中央へ出、いきなり脱党

 4月、長男献吉が新潟市大畑小学校に入学。
 8月10日、仁一郎が第7回衆議院議員総選挙で当選。以後、1920年5月の第14回総選挙まで毎回当選した。大隈重信を総裁とする憲政本党に所属したが、新潟の同志議員9名を糾合して一時党籍を離脱、新潟県進歩党を結成する。海軍拡張のための地租増徴に反対する姿勢をまず憲政本党内に示し、気運を盛り上げるためであり、これが桂内閣を解散に追い込むもととなる。
 11月22日、三男成三(1902‐04)誕生。

◆世相・文化

 第6回総選挙まで直接国税15円以上納税の満25歳以上の男性に限られていた選挙権は、第7回から納税額10円以上に引き下げられた。⇒1920年1925年

1903(明治36)年
44歳

可愛い弟分なればこそ

 2月15日から24日まで、仁一郎の新津町報告会における演説筆記「解散問題と吾党の主張」が『新潟新聞』に連載される(10回)。ここで新潟県進歩党は地租増徴のみならず海軍拡張そのものに反対であることを宣言、日本の財政事情や過去5年間の増税率を数字で示し、日本とロシアとでは国力の違いが大きすぎること、「貧国弱兵」に近い今の日本で更なる海軍拡張をすれば、ますます弱くなるだろうことを論理的に説明している。
 3月24日から4月3日まで、仁一郎が二一老人名義で『新潟新聞』に「漢詩より見たる『野調』」を連載(11回)。新派和歌が旧派と肩を並べそうなほどに進歩してきた、とした上で、小金花作の新派歌集『野調』(3/1刊行)の欠点を指摘したもの。花作こと山田穀城は1896年から新潟新聞社記者となり、仁一郎の秘書役をつとめていた、いわば身内のような青年である。批判は痛烈だが、『野調』の中の優れた歌も多く摘記し、「花作の歌才を愛すること深きが故に敢て苦言を呈する」と記している。後半は『野調』に併録された須藤鮭川(けいせん)の歌集「花束」に対する批評になっており、花作の艶麗と対照的な鮭川の豪快さには、文辞の誤りや技巧的な浅さが目立つことを指摘。この評論は反響が大きく、同紙では4月5日から7日まで、花作の仲間の渡辺淡舟が「二一老人の『野調』評を難ず」で悪罵に類する反論を連載、4月8日に鮭川が「二一老人に一言す」にて自作の弁明を述べた。二一老人は4月10日から16日にかけて「再び野調に就て」を連載(4回)、彼らの反論の空疎さを指摘した。
 4月17日および18日に二一老人名義で『新潟新聞』に「だいなし」を発表。五峰が森槐南を讃えた言葉とその詩が槐南に誤解され、『大阪毎日新聞』にも誤報が載ったことに対する弁明。
 4月22、23日の『新潟新聞』「詞林月旦」に五峰の七言絶句連作12首が掲載される。評言は岩渓裳川
 11月、新潟県進歩党を解散し憲政本党に復党。1910年からは後継の立憲国民党、13年以後は立憲同志会、さらにその後継の憲政会に属した。当時は政党の分離・再編がひんぱんだったため必然的に所属政党名は移り変わるが、一貫して民権派であり、特に「大隈派」であったといえる。
 11月12日、四男上枝(ほづえ)(1903‐76)と七女下枝(しづえ)(1903‐84)のふたご誕生。

◆世相・文化

 12月17日、アメリカのライト兄弟が固定翼機による世界初の有人動力飛行に成功。

1904(明治37)年
45歳

三男の夭折

 11月24日、三男成三が2歳で死去。
 1901年から20余歳で『新潟新聞』主筆をつとめていた沢本与一が従軍記者として出征、後任の主筆を小林存がつとめた。小林は主筆となって2年ほど後から県内の辺境を探訪するルポを数多く連載。後に新潟民俗学の草分けとして有名になる、その土台がこの時期に培われたといえる。

◆世相・文化

 2月8日、日露戦争が始まる(翌年まで)。
 5月3日、新潟駅開業。
 新潟市の国粋座で県内初の活動写真(映画)上映。内容は主に日露戦争の戦況を報じたニュース映像であった。

1905(明治38)年
46歳

戦地視察に赴く仁一郎

 6月12日、仁一郎は同僚の衆議院議員佐藤伊助とともに、日露戦争終わり頃の戦地視察のため満洲・朝鮮への途につき、9月21日まで『新潟新聞』に連名で(時に仁一郎単独で)前線レポートを連載(45回)。佐藤はこの前線レポートでは三面江漁の筆名を名のり、仁一郎は七松山樵と対になる名を付けて、弥次喜多道中を模したユーモラスな調子で書いている。しばらく広島にとどまった後、門司から旅順、大石橋、遼陽などを視察した。
 佐藤伊助は岩船郡村上町選出の代議士で、市島謙吉らとともに早稲田大学の創立にもかかわった人。村上の三面川は江戸時代に世界で初めて鮭の増殖に成功した川として知られる。同じ村上出身の歌人で記者の須藤鮭川(けいせん)は当時出征中で、同時期の『新潟新聞』に「鮭川生」の名でしばしば前線レポートを書いている。

◆世相・文化

 1月、夏目漱石「吾輩は猫である」を連載開始(翌年8月まで)。
 5月27日、日本海海戦で連合艦隊がバルチック艦隊を破る。
 9月5日、日露講和条約調印。

  【主要参考文献】
 阪口五峰『北越詩話』上下 目黒甚七・目黒十郎 1919.3.25
 同著復刻版「解題・索引」国書刊行会 1990.7.31
 阪口献吉編『五峰余影』新潟新聞社 1929.11.3
 同著増補版附録「坂口家の系図について」
 坂口守二『治右衛門とその末裔』新潟日報事業社 1966.6
 『坂口献吉追悼録』BSN新潟放送&新潟日報社 1966.10
 明治文学全集62『明治漢詩文集』筑摩書房 1983.8.25
 『新潟日報源流130年 時代拓いて』新潟日報社 2007.11.1
 『新津市史 通史編』上下巻 新津市 1993.3.31、94.3.31
 その他、各種辞書、事典、年表等

1906(明治39)年
0歳
(仁一郎47歳)

ヒノエウマの年、坂口炳五誕生!

 10月20日、新潟県新潟市西大畑町28番戸(現在の新潟市中央区西大畑町579番地)に父仁一郎(1859‐1923)、母アサ(1869‐1942)の五男として生まれる。13人兄弟の12番目で、本名は炳五(へいご)。ヒノエウマ生まれの五男であることからの命名である。血液型はA型。
 仁一郎は当時憲政本党に所属する衆議院議員(1902年8月から20年5月まで毎回連続して当選)で、新潟新聞社社長、新潟米穀株式取引所理事長であり、五峰の号で漢詩人としても知られた。東京では日本橋区本銀町(ほんしろかねちょう)の旅館樋口屋に滞在し、その2階奥の間を新潟県代議士の集会所とした。
 アサの実家吉田家は中蒲原郡五泉町(現在の五泉市五泉)の大地主であった。
 兄姉は長姉シウ(1876‐1946)、次姉ユキ(1888‐1935)、三姉ヌイ(1889‐1930)が先妻ハマの子で、四姉キヌ(1891‐1984)が古町の芸妓五泉キチとの間に生まれた。以下、後妻のアサとの間に、五姉セキ(1893‐1984)、長兄献吉(1895‐1966)、六姉アキ(1897‐1967)、次兄七松(1900‐07夭折)、三兄成三(1902‐04夭折)、四兄上枝(ほずえ)(1903‐76)、七姉下枝(しずえ)(1903‐84 上枝とふたご)。このうち、シウは1896年2月に北蒲原郡越岡村(現在の新潟市北区岡方)の曽我直太郎に嫁しており、ユキもこの年1月30日に同郡長浦村上土地亀(現在の北区上土地亀)の新保巽に嫁していた。キヌは母の五泉キチの家にいた。下枝はのちに養女となる星名家にこの頃すでに入っていた。⇒1910年
 安吾出生当時、西大畑の家に住んでいた親族は、母アサと16歳のヌイ、12歳のセキ、11歳の献吉、8歳のアキ、6歳の七松、2歳の上枝、離れに79歳になる祖父の得七も住んでいた。仁一郎は衆議院議員として東京にいることが多かったが、仁一郎と安吾を入れて11人。のちに東京でも同居する婆やをはじめ住み込みの使用人、通学などの理由で居候する親戚や書生なども何人かいたので、かなりの大家族だったといえる。もっとも数年後には順次嫁ぐなどして少人数になっていく。
 10月30日、祖父得七が岩船郡瀬波村大字浜新田字青山519番地(現在の村上市浜新田)で死去。享年80。瀬波温泉はこの2年前の1904年に石油掘削中に熱湯が噴出して開湯。得七はしばらく温泉宿に逗留していたらしく、少し前に瀬波温泉から仁一郎宛に手紙を出していた。

 ※注 戸籍では「西大畑町28番戸」となっていたようだが、施政方針では1889年以降は番地表記が正式とされていたので、当時すでに「579番地」の地番も決まっていた。

◆世相・文化

 1月7日、桂太郎内閣総辞職を受けて、立憲政友会総裁の西園寺公望が組閣。以後7年間、長州閥で官僚を登用する桂と、護憲派ながら桂に譲歩した西園寺とが交互に組閣し、桂園時代と呼ばれた。仁一郎が属した憲政本党は政友会と並ぶ護憲政党だったが雌伏の時代に入る。
 1月、馬場孤蝶がチエホフ「六号室」の翻訳を発表。安吾は豊山中学時代からチェーホフ作品が好きでたくさん読んだ。1928年4月頃の山口修三宛書簡の中で、「チエホフが、狂人を書いた勝れた短篇を発見した」とあるのは「六号室」のこととみられ、そのほか特に「退屈な話」に感動して何度も読んだという。
 3月、米カリフォルニア州で、日本人移民制限が決議される。
 同月、東京日比谷で市電値上げに反対するデモ隊が電車などを襲撃し、軍隊が鎮圧。
 同月、島崎藤村が『破戒』を自費出版、文壇で大きな話題になる。
 5月、北一輝「国体論及び純正社会主義」が秩序妨害で発禁となる。
 6月、幸徳秋水が日本社会党演説会で直接行動論を主張。日本における無政府主義思想(アナーキズム)のはしり。⇒1910年
 10月、米サンフランシスコで日本・韓国人学童の白人からの隔離命令が出る。
 10月22日、パリでサントス・デュモンがヨーロッパ初の動力飛行に成功。11月12日には飛行距離220mを達成。アメリカのライト兄弟による初飛行から3年後のことで、世界各国の飛行機開発に拍車がかかる。安吾は小学校時代、大将か大臣もしくは飛行家になりたいと思っていた。
 同月、南満州鉄道株式会社(満鉄)設立。初代総裁は後藤新平。

1907(明治40)年
1歳
(48歳)

自然主義文学の流行

 1月20日、大隈重信が党幹部らと対立し憲政本党総裁を辞任、引退を表明。大隈は早稲田大学総長に就任したほか、精力的に文化事業に没入した。その後、反政友会新党結成のため大同団結しようとする大石正巳らの「改革派」と、あくまで民権路線を貫く犬養毅らの「非改革派」が対立を続けた。仁一郎は犬養派で「小犬養」とあだ名される一徹ぶりであったという。⇒1909年
 9月17日、次兄七松が7歳で死去。
 12月、仁一郎は本籍地の中蒲原郡阿賀浦村大字大安寺11番地(現在の新潟市秋葉区大安寺509)の900坪ほどの土地と旧村松藩主の隠宅を移した建物を、大安寺尋常小学校に譲り渡す(のちの阿賀小学校。現在は空き地)。

◆世相・文化

 2月4日、足尾銅山で坑夫らが暴動、ダイナマイトまで使用され、軍隊が鎮圧に出動。この年、別子銅山などでも軍隊が出動し、生野銀山、三池炭坑などのストや労働争議は全国で240件を記録。
 3月、ゴオゴリ「狂人日記」を二葉亭四迷が翻訳。
 7月24日、第3次日韓協約により、韓国が完全に日本の管轄下に入る。以後、韓国各地で反日運動組織と日本軍の衝突が起こる。
 7月30日、日露通商条約調印。
 9月、田山花袋「蒲団」発表。私小説論を含む自然主義文学論がさかんになる。
 11月22日、文芸協会が本郷座で翻訳劇を初演。坪内逍遥訳「ハムレット」が上演される。

1908(明治41)年
2歳
(49歳)

1年に2度の大火災

 3月8日、新潟市で大火。古町通八番町から出火して1,770戸が焼失、萬代橋も橋梁部の半分以上が焼失。⇒翌年
 9月4日、新潟市で再び大火。今度は古町通四番町から大畑町方面まで2,120戸焼失。坂口家は類焼をまぬがれる。
 12月5日、三姉ヌイが岩船郡山辺里村(現在の村上市山辺里)の小田喜一郎に嫁す。

◆世相・文化

 1~4月、正宗白鳥「何処へ」連載。
 3月25日、治安警察法改正案が衆議院で可決。女子の政治集会参加が認められる(貴族院では否決)。
 4月1日、改正小学校令により、義務教育年限が4年から6年となる。
 4月、田山花袋「生」および島崎藤村「春」の新聞連載が始まる。自然主義文学の全盛。
 7月、夏目漱石「夢十夜」発表。
 7月14日、西園寺公望にかわって桂太郎が第2次内閣を組閣、弾圧政治を強行する。
 8月、永井荷風『あめりか物語』刊行。耽美派が産声をあげる。
 9月、夏目漱石が前期3部作の第1作「三四郎」を連載(12月まで)。
 9月17日、日本初の劇映画「本能寺合戦」(牧野省三監督、尾上松之助主演)が東京の錦輝館で公開。
 10月、徳田秋声「新世帯」新聞連載開始。

1909(明治42)年
3歳
(50歳)

日本一の萬代橋(2代目)竣工

 2月27日、憲政本党内部の改革派・非改革派の対立により、非改革派を領する犬養毅の憲政本党除名問題が起こる。犬養に信頼されていた仁一郎は、両派の調停を図り、除名取消が成らなければ党分裂もやむなしと不退転の覚悟で臨む。その直後、日本製糖汚職事件の収賄議員の中に改革派がいたことが発覚、流れは非改革派に傾き、犬養の除名も取消となった。

◆エピソード

 少年時代の安吾が新潟の誇りに思っていた萬代橋は、この年に開通した2代目。この年から信濃川分水路の開削工事も始まる(1922年に通水)。分水ができると信濃川下流の水量は相当に減少するため、新潟市域の川幅を約3分の1に改修、それに伴い萬代橋も短い鉄筋コンクリート製のものに架け替える計画が生まれる。その長期計画が発表された時期は定かでないが、安吾は「日本文化私観」で次のように書いている。
 「小学生の頃、万代橋といふ信濃川の河口にかかつてゐる木橋がとりこはされて、川幅を半分に埋めたて鉄橋にするといふので、長い期間、悲しい思ひをしたことがあつた。日本一の木橋がなくなり、川幅が狭くなつて、自分の誇りがなくなることが、身を切られる切なさであつたのだ。その不思議な悲しみ方が今では夢のやうな思ひ出だ。このやうな悲しみ方は、成人するにつれ、又、その物との交渉が成人につれて深まりながら、却つて薄れる一方であつた。さうして、今では、木橋が鉄橋に代り、川幅の狭められたことが、悲しくないばかりか、極めて当然だと考へる」

◆世相・文化

 1月、文芸誌『スバル』創刊。森鴎外や与謝野鉄幹・晶子、石川啄木、木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋らを擁し、ロマン主義的でデカダンな傾向をもつ。
 2月20日、イタリアの詩人マリネッティがパリ・フィガロ紙に「未来派宣言」を発表。過去の芸術を破壊し、飛行機や自動車などのメタリックな美を讃える過激な主張が世界で話題になる。同年、鴎外がこれを紹介。高村光太郎も評論や翻訳などで何度か未来派の紹介を行った。安吾の「日本文化私観」との類似が指摘されるが、未来派の本分は近代文明と機械、スピードやスリル、エネルギーの礼賛にあり、安吾の説く「美しくするために加工した美しさが、一切ない」機能美とは別ものである。もっとも、新しい芸術思潮への興味はあり、最初の同人誌仲間だった未来派の音楽家と交流をもち、初期のファルス論は未来派とつながるダダの宣言と似通う部分があった。ダダの中心人物ツァラの詩を翻訳もしている。⇒1931年
 3月、北原白秋が処女詩集『邪宗門』を刊行。
 3月、永井荷風『ふらんす物語』が発禁処分に。
 6月、高浜虚子編『子規句集』刊行。
 7月、森鴎外「ヰタ・セクスアリス」を『スバル』に発表、発禁処分を受ける。
 9月、三木露風が弱冠20歳で代表詩集『廃園』を刊行、白秋とともに注目される。
 10月、田山花袋『田舎教師』を書き下ろし刊行。
 同月26日、伊藤博文が満州のハルビンで、韓国の青年安重根に暗殺される。これが結果的には日本による韓国併合を早めることになる。⇒翌年
 12月、萬代橋(2代目)竣工。焼け残った橋杭を使用したので初代とほぼ同様の日本最大級の木橋であった。6連アーチで、全長782m。幅はやや広がって7.9m。⇒1929年
 12月19日、日本初の動力飛行を公式に行う。徳川好敏大尉のアンリ・ファルマン機(フランス製)と日野熊蔵大尉のグラーデ単葉機(ドイツ製)。

1910(明治43)年
4歳
(51歳)

文壇にまきおこる新しい風

 3月14日、憲政本党を中心とした民権派3党が合同して立憲国民党を結成。党首は不在で、常務委員として非改革派の犬養毅と、改革派の河野広中、大石正巳の3人が党を主導。合同してもなお、数では政友会に勝てないことから、両派の対立はその後もくすぶり続けた。
 5月、仁一郎は立憲国民党新潟支部長となる。
 8月4日、五姉セキが東頸城郡松之山村(現在の十日町市松之山)の村山真雄に嫁す。
 12月21日、七姉下枝が6歳で中魚沼郡上野村(現在の十日町市上野)星名佐藤治(定太郎)の養女になる(1922年に協議離縁)。ただし、下枝は生まれて間もない頃から乳母とともに星名家に入っていた。

◆世相・文化

 1月、島村抱月がイプセン「人形の家」の翻訳を発表。
 4月、文芸誌『白樺』創刊。武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎を中心として、個性主義・自由主義をうたい、文壇に新風をもたらす。ヨーロッパの新興芸術の紹介にも寄与した。安吾は習作執筆中の1928年頃、宇野浩二や葛西善蔵とともに有島武郎や志賀直哉を愛読したが、戦後には「志賀直哉に文学の問題はない」というエッセイを書くなど文壇の権威批判の標的とした。
 5月、大逆事件により、かねてから当局にマークされていた幸徳秋水らの検挙が始まる。⇒翌年
 6月、柳田国男『遠野物語』刊行。
 8月22日、日本が韓国を併合。これにより首相桂太郎は翌年公爵の称号を受ける。
 9月14日、千里眼の御船千鶴子が評判となり、東京帝大の博士による透視の公開実験が行われる。
 11月、谷崎潤一郎「刺青」発表。荷風の絶讃を受け、以後、次々に発表された谷崎の耽美作品が文壇に衝撃を与える。安吾は中学時代に「最も読んだのは谷崎潤一郎で、読む度ごとに自分の才能に就て絶望を新にするばかり」だったと「処女作前後の思ひ出」に書いている。
 12月、石川啄木が歌集『一握の砂』を刊行。安吾は東京の豊山中学に転校してまもない1923年1月14日、三堀謙二宛書簡の中で「啄木式の独特な奴です」と注釈して7首の短歌を詠んでいる。
 12月20日、日本自動車倶楽部発会。07年に政界引退後、輸入自動車を愛用していた大隈重信が会長を務めた。

1911(明治44)年
5歳
(52歳)

無頼派(?)幼稚園児

 3月、妹千鶴(ちづ)(1911‐67)誕生。
 4月、西堀幼稚園に入園。

◆エピソード

 幼稚園時代に安吾とよく遊んだという近所の金井写真館の金井五郎は「彼の家の裏からはひと続きの自然公園で、海までグミの林が続いていました。そのなかをかけずりまわり、日暮れまでよく遊びました」と当時を回想している。「いつでも笑顔」で「がき大将でしたけれど、弱い者いじめをしない男でした」とも。安吾自身は自伝的小説「石の思ひ」の中で、「私は六ツの年にもう幼稚園をサボつて遊んでゐて道が分らなくなり道を当てどなくさまよつてゐたことがあつた」としか当時のことを書いていないため、「型通りの生活をきらって通園せず」などと年譜に記されたこともあったが、ふだんは明るく元気いっぱいの子供であった。

◆世相・文化

 1月、大逆事件の被告26人中24人が死刑判決を受け、幸徳秋水ら12人に執行される。社会主義運動への弾圧がいっそう強化される。
 同月、西田幾多郎『善の研究』刊行。⇒1921年
 2月21日、日米通商航海条約改正により、桂内閣の外相小村寿太郎が関税自主権を回復させ、幕末以来の不平等条約に終止符を打つ。
 5月5日、所沢飛行場で国産機の初飛行。
 6月、北原白秋が詩集『思ひ出』刊行、高い評価を受ける。安吾も少年時代にこれを読んで「異常なノスタルヂイを刺戟された」とエッセイ「気候と郷愁」に書いている。
 8月21日、警視庁が特別高等課(特高)を設置。思想統制の実力行使機関として恐れられる。
 8月30日、桂太郎にかわって第2次西園寺内閣が発足。
 9月、平塚らいてうが『青鞜』創刊(16年2月まで続く)、女性解放運動の旗頭となる。
 同月22日、文芸協会が坪内逍遥訳のイプセン「人形の家」を初演。主演の松井須磨子が人気を博す。
 10月、清で孫文らが辛亥革命を起こす。翌月、袁世凱内閣が成立。
 12月1日、オランダのハーグで日米など12カ国が参加して国際阿片会議が開かれる。

1912(明治45・大正元)年
6歳
(53歳)

大正改元

 夏頃から仁一郎は『北越詩話』の編集にとりかかる。1892年に『新潟新聞』に連載した「越人詩話」100余回分をもとに、郷土の漢詩人たちの人と作品を紹介・集成したもの。採り上げられた詩人は1000名を超えて大幅に増補され、内容も文章も「越人詩話」とは別個のものになっていった。⇒1918年

◆世相・文化

 1月、夏目漱石が後期3部作の第1作「彼岸過迄」連載開始。
 2月、清朝の首相であった袁世凱が寝返り、中華民国の大総統に就任。
 6月2日、アメリカで飛行機に機銃を搭載、世界初の空中射撃が行われる。
 7月、明治天皇死去。
 9月、乃木大将殉死。
 10月、森鴎外が「興津弥五右衛門の遺書」を発表、乃木大将の殉死に触発されて書いたといわれる。鴎外は以後、歴史短篇の名作を数多く発表する。
 12月21日、第2次西園寺内閣が軍閥の陰謀で倒れ、第3次桂内閣が発足。桂は内大臣兼侍従長になったばかりで、これに異を唱えて立憲政友会の尾崎行雄、立憲国民党の犬養毅らが護憲運動を展開した。

1913(大正2)年
7歳
(54歳)

立川文庫から猿飛佐助見参!

 1月、首相桂太郎は自派の官僚と他派の政党議員をとりこんで新政党(立憲同志会)を組織しようと計画。桂は護憲運動の敵ともいうべき存在だったが、立憲国民党の改革派は政友会に対抗するための唯一の活路と考えた。非改革派の犬養毅は逆に、政友会の尾崎行雄とともに桂内閣退陣を要求しており、ここにおいて大石正巳、河野広中、武富時敏、島田三郎、箕浦勝人(かつんど)の国民党五領袖が脱党、有力党員らがあとに続いた。仁一郎の滞在する旅館樋口屋2階の新潟県代議士集会所などでも議論が紛糾、秋田県の町田忠治ほか各県の国民党代議士らも参会して議論を続けた結果、新政党に参加する意見が大勢を占める。仁一郎も苦渋の決断で犬養に離反することを決め、新潟県の国民党代議士は一致して立憲同志会に加わる旨の決議書を作成。町田忠治、武富時敏らとともに立憲同志会準備委員となる。
 4月、新潟尋常高等小学校に入学。正義感の強いガキ大将だったといわれる。この頃から新聞連載の講談や相撲の記事を好んで読む。小学校時代を通して立川文庫を愛読、特に猿飛佐助の忍術と馬庭念流の剣法に惹かれ、忍術ごっこに興じる。夏には四兄上枝と一緒に日に二度ほど浜で泳ぐ。早稲田大学受験をひかえた長兄献吉も「試けんもなにも御かまいなく」毎日庭で子供相手に野球をして遊んだようすが7月10日のセキよりヌイ宛書簡に書かれている。また、仁一郎と五泉キチとの間にできた四女キヌが1916年に仁一郎の養女となるが、この年にはすでに坂口家に同居していたことが書簡資料からわかる。
 10月、桂太郎が結党前に病死したのに伴い、仁一郎は立憲同志会相談役となる。
 12月23日、立憲同志会結党。加藤高明が総裁となり、仁一郎は新潟支部長となる。

◆エピソード

 この当時の安吾の日常を、長兄献吉は「『三人兄弟』」の中で次のように書いている。「全く手のつけられないキカンぼうで、毎日学校から帰ると、書物包は家の中へ放り込んで、すぐ近所の子供、数名または十数名を引率して、いわゆるガキ大将となって、町内を騒ぎまわったものであった。そのころであるから、兵隊ゴッコか何かで、垣根を乗り越えたり、大道を突っ走ったり、とても元気なものであった。時に自分より、はるかに丈の高い子供を部下として、大声で号令をかけている姿を今でも思い浮かべる」
 また、癇癪もちの部分もあったようで、杉森久英『小説坂口安吾』の中に、小学生時代の安吾の話が載っている。ある時の父兄会に母が出られなかった時、代わりに出ることを約束していた姉もその日出られなくなった。安吾は恥をかいたと怒って、姉になぐりかかった。どこまでも追いかけてくるので、姉は最後には、父の袂の下へ逃げこんだという。ほかにも、おかずが気にいらないと言っては怒り、大事に組み立てた飛行機の模型を姉が踏みつぶしたと言って怒ったりしたらしい。安吾自身も「石の思ひ」の中で、「出刃庖丁をふりあげて兄(三つ違ひ)を追ひ廻したことがあつた」と書いている。

◆世相・文化

 1911年から刊行の始まった立川文庫から、13年1月25日『真田三勇士忍術名人 猿飛佐助』出版、忍術ブームをまきおこす。忍術名人シリーズは、猿飛佐助に続いて、霧隠才蔵、三好清海入道、由利鎌之助など続々と刊行され、同時に、目玉の松ちゃんこと尾上松之助主演でたてつづけに忍術映画が作られた。特に猿飛、霧隠、自雷也は毎年のように続篇が公開され、立川文庫の人気に拍車をかけた。1916年には、1人の少年が映画の真似をして高い所から飛び降りて大ケガをしたというので社会問題にまで発展したが、その後も4、5年の間、忍術映画のブームが続く。なお、『猿飛佐助』初版の表紙は黄色だったが、翌14年2月15日発行の異本は緑色で、この異本のほうが復刻版などで広く流布しているため、本来の初版年が誤って記述されることが多い。
 2月、尾崎行雄が犬養毅とともに内閣不信任案を提出すると桂太郎は議会を停会させ、議事堂は激昂する群衆に囲まれた。これにより桂内閣はたった2カ月で総辞職に追い込まれ、20日、立憲政友会と結んだ海軍巨頭の山本権兵衛が首相になる。尾崎は一連の護憲運動により「護憲の神様」と呼ばれ、まもなく所属していた立憲政友会とも対立して中正会を結成。
 9月、中里介山「大菩薩峠」連載開始、1941年まで断続的に書き継がれるが未完。
 10月、斎藤茂吉が処女歌集『赤光』を刊行、一作で歌人の地位を確立する。

1914(大正3)年
8歳
(55歳)

大隈重信、政界に復帰

 3月、献吉が県立新潟中学校を卒業、おそらくこの年の4月に早稲田大学大学部政治経済学科に入学。幼なじみの笹川加津恵らと4人で、東京府豊多摩郡戸塚町(現在の新宿区)に一軒の家を借りて合宿生活をし、毎土曜に大声で議論し合う。
 4月16日、大隈重信が政界に復帰し、第2次大隈内閣が誕生。大隈を擁したのは仁一郎の所属する立憲同志会と、尾崎行雄の中正会などで、加藤高明が外相、若槻礼次郎が蔵相、尾崎が法相になる。(安吾は中学時代、仁一郎の命をうけて加藤、若槻両邸を訪れる。⇒1923年へ)仁一郎は町田忠治らとともに大隈内閣の参政官に推されたが辞退し、代わりに同郷の鳥居鍗次郎を推し内務副参政官に任命させた。

◆世相・文化

 4月、夏目漱石「こゝろ」を8月まで連載。
 同月、阿部次郎が自己省察の記録『三太郎の日記』刊行。大正昭和期の学生必読の書といわれ、ロングセラーとなる。これをはじめとして哲学評論が流行する。
 同月、新潟市古町通八番町に映画館(当時は活動写真館)大竹座がオープン。その後、翌年にかけて電気館(古町通六番町)、こんぴら館(西厩島町)、沼垂座(沼垂)など相次いで開館する。
 7月、第一次世界大戦が始まる。
 9月、米川正夫がドストエフスキー「白痴」の翻訳を発表。
 10月、高村光太郎が詩集『道程』刊行。
 12月、北原白秋が詩集『白金之独楽』刊行。安吾は仏教研究にのめりこんでいた1927年頃、親鸞の和讃とともに白秋の『白金之独楽』を愛読したと山口修三宛書簡に書いている。これは白秋の最も仏教に傾いた時期の詩集であるが、1919年頃に献吉が白秋から贈呈されたものだったかもしれない。

1915(大正4)年
9歳
(56歳)

長兄宛ての安吾の手紙

 この年初め頃、献吉が結核で東洋内科病院へ入院。その後、東洋一のサナトリウムといわれた神奈川県茅ヶ崎の南湖院で療養生活に入る。安吾の最も古い書簡として、この年5月26日と6月9日に南湖院の献吉に宛てた封筒(本文散逸)が残っている。署名は「炳吾」。「阪口=坂口」「五峰=五峯」などと好きな字を自由に用いた父にならって、早くから「吾」の字を用いていたことがわかる。

◆世相・文化

 3月25日、衆議院議員総選挙。仁一郎の盟友で、十数年政治活動から退いていた市島謙吉(春城)が、大隈重信の後援会長となって選挙活動。全国各地に大隈後援会ができ、その結果、立憲同志会が第一党に躍進する。
 5月7日、加藤外相が中国に21カ条条約を強制執行。満州および中国の属国化を目的としたもので、その後の日中紛争の火種となる。⇒1919年
 11月、芥川龍之介「羅生門」発表。以後、古典に取材した名短篇を数多く著す。
 同月、松浦一『文学の本質』刊行。インド哲学の宇宙観や神秘主義的思想をよりどころとして文学の種々相を論じた文学概論書で、老荘やベルグソン、ダンテ、ワーグナーなども引用されている。安吾が中学時代に「『絶対の探究』『文学の本質』いづれも同じ著者、その名を失念、を耽読した」とあるのはこれかと推定される。バルザックの『絶対の探究』は安吾の中学時代にはまだ翻訳されていないので、もう1冊は同じ松浦一の『文学の絶対境』(1923年刊)のことと思われる。⇒1923年

1916年(大正5)年
10歳
(57歳)

大隈内閣の残党が結束

 4月、仁一郎が勲三等瑞宝章を受章。
 10月3日、大隈重信は老齢のため後継に加藤高明を推して総辞職、大隈は政界から完全に引退した。しかし、御前会議で元老らが首相に押し立てたのは寺内正毅であった。
 10月10日、大隈内閣で組んだ立憲同志会と中正会などの諸政党が合同して憲政会を結成。加藤高明を総裁とし、尾崎行雄高田早苗若槻礼次郎浜口雄幸ら7名が総務。元老政治の打破、普通選挙法制定をめざす。このうち、尾崎行雄は憲政会の普通選挙法案が理想と違ったことから21年に離党、翌22年に革新倶楽部を結成して治安維持法反対などの活動を続けたが次第に孤立していく。憲政会も以後8年間野党に甘んじる。仁一郎も憲政会結成に加わり、党務委員長、新潟支部長に就任。
 10月29日、六姉アキが新潟県七谷村上大谷(現在の加茂市上大谷)の難波常三郎に嫁す(19年に離婚)。常三郎は仁一郎の甥(妹の幸と難波岩三郎の子)である。
 12月21日、仁一郎の四女である五泉キヌが25歳で仁一郎の養女となる(翌年結婚)。

◆世相・文化

 7月、『新潟新聞』が『新潟新報』と『日刊新潟』に分離するが、翌17年8月から元の『新潟新聞』に復す。
 12月、夏目漱石死去。連載中の「明暗」が絶筆となる。安吾は概して漱石に批判的であったが、「明暗」だけは評価している。
 11月、倉田百三「出家とその弟子」を連載(翌年3月まで)。

1917年(大正6)年
11歳
(58歳)

母のために荒れ海へ

 11月22日、四女キヌが新潟市の歯科医行形行三郎に嫁す。この前月の10月12日に仁一郎は養女キヌを実子として認知している。西大畑の実家に同居する肉親は母アサと四兄上枝、妹千鶴だけになる。安吾は自分を常にひいきしてくれた婆やと、ときどき遊びに来る異母姉ヌイとに最も親しみを感じたという。
 この年から翌年にかけての時期、献吉は南湖院を退院し、その近くの松風亭にて静養しながら油絵を描いていた。

◆エピソード

 「石の思ひ」の中に、この年前後の話として次のような有名なエピソードがある。「暴風の日私が海へ行つて荒れ海の中で蛤をとつてきた、それは母が食べたいと言つたからで、母は子供の私が荒れ海の中で命がけで蛤をとつてきたことなど気にもとめず、ふりむきもしなかつた。私はその母を睨みつけ、肩をそびやかして自分の部屋へとぢこもつたが、そのときこの姉〔ヌイ〕がそッと部屋へはいつてきて私を抱きしめて泣きだした。だから私は母の違ふこの姉が誰よりも好きだつたので、この姉の死に至るまで、私ははるかな思慕を絶やしたことがなかつた。この姉と婆やのことは今でも忘れられぬ。私はこの二人にだけ愛されてゐた。他の誰にも愛されてゐなかつた」
 坂口三千代『クラクラ日記』では、安吾が語ってくれたという話はもう少し単純で、次のとおりである。「オレはおっかさまのために蛤をとってやろうと思って夜の海にいつまでももぐっていたんだ。家に帰ったらこっぴどく叱られたよ」

◆世相・文化

 1月、菊池寛が戯曲「父帰る」発表。
 2月、萩原朔太郎の処女詩集『月に吠える』刊行。高村光太郎とともに口語自由詩を確立したとして名声を得るが、内務省により発禁となり、発行人の室生犀星が出頭。
 5月、志賀直哉「城の崎にて」発表。
 10月、広津和郎「神経病時代」発表。神経症的な青年の苦悩を描いた作者の文壇デビュー作で、翌年刊行の同趣向の長篇は安吾が初めて読んだ純文学である。
 同月、志賀直哉「和解」発表。
 11月、ロシア十月革命。

1918(大正7)年
12歳
(59歳)

健康優良児だった安吾

 2月、仁一郎が新潟新聞社のあった学校裏町の土地を売却。前年までの会社分裂と関係があるかもしれない。
 10月8日、市民相撲大会の小学校尋常科東西戦(各組15人)に出場して勝利。同月13日、新潟中学秋季運動会では200メートル走の小学生の部で2着入賞。
 小学校6年間、欠席はほとんどなく体質頑健、操行優良、成績は概ね学年2番か3番で毎年学術優等の賞を受ける。
 11月、仁一郎が阪口五峰名義で『北越詩話』上巻を上梓。これに先立って4月1日から25日まで、市島春城が『新潟新聞』に同著の紹介文「苦心卅五年」を25回にわたって連載していた。
 この年、仁一郎は浜口雄幸らとともに憲政会総務となる。

◆エピソード

 妹の千鶴の友達だった山本ヤスコの回想によると、千鶴と安吾と三人でよく遊んだが、安吾は「めんどうみが非常によくって、私が算数でわからないところがあるとちゃんと教えてくれました」とある。

◆世相・文化

 1月、室生犀星が処女詩集『愛の詩集』刊行。白秋や朔太郎の絶讃を受け、9月には『抒情小曲集』も刊行。
 3月、葛西善蔵「子をつれて」発表。破滅型私小説の典型として文壇に特異な地位を占める。安吾が文壇に登場する前の1928年に没するが、その28年当時、安吾は葛西の文学を愛読した。
 4月、有島武郎「生れ出づる悩み」発表。
 9月、佐藤春夫「田園の憂鬱」発表。谷崎の推挙により耽美派作家としての地位を確立。
 9月、原敬内閣成る。
 10月、広津和郎『二人の不幸者』刊行。性格破産者を描いた長篇。⇒翌年
11月、第一次世界大戦終結。
12月、チューリヒでトリスタン・ツァラが雑誌『ダダ』第3号に「ダダ宣言1918」を発表。欧米各国で翻訳出版され、後のシュールレアリスムの若手芸術家たちに衝撃を与える。翌年5月発行の『ダダ』にはブルトン、スーポー、アラゴンや、コクトー、ジャコメッティらも参加している。安吾は1931年にツァラの詩を翻訳する。

1919(大正8)年
13歳
(60歳)

中学入学、文学への目覚め

3月、仁一郎が『北越詩話』下巻を上梓。この頃、仁一郎は頼山陽ばりに日本の歴史を詠じた五言古詩を作ったりしており、これを詩友の田辺碧堂国分青厓(こくぶ・せいがい)に見せたところ青厓も感服、これを機に知己となる。後年『五峰遺稿』に収録された詩は、仁一郎の遺志により碧堂と青厓および館森袖海の3人が編集校閲して完璧を期したものである。
 4月、新潟県立新潟中学校に入学(受験者216名中20番)。
 4月19日、六姉アキが難波常三郎と協議離婚(同年12月に再婚)。
 新潟中学では三堀謙二や渡辺寛治ら年上の読書家の友人ができ、初めて小説を読んだのはこの頃からと推測される。友人の薦めで初めて読んだ純文学が、前年刊行の広津和郎『二人の不幸者』である(「世に出るまで」)。
 6月に刊行された島田清次郎『地上』第1部も渡辺寛治とともに読んでいたと同級生だった北村博繁の回想にある。征服欲と正義感に燃える天才的少年を描いてセンセーショナルな話題を巻き起こしたベストセラーで、以後年に1冊ずつ全4部で完結した。安吾自身の回想には島田の名は出てこないので、文学として認めていなかったのだろう。これに続いて、芥川龍之介の諸作、谷崎潤一郎の諸作と読み進む。
 9月、『中央公論』に載った谷崎の「或る少年の怯れ」に特に感心する。病弱な少年の兄嫁への思慕と兄に毒殺される不安を神経症的な筆致で描いた短篇。
 秋頃、異母姉シウが婚家先である曽我家の姑の椀に猫いらずを投じたとの噂が立つ。
 この頃、静養中の献吉が小田原の伝肇寺(でんじょうじ)へ移る。その境内に北原白秋が山荘「木菟(みみずく)の家」を新築した折で、献吉はよく白秋を訪ねて歓談した。
 12月、六姉アキが越後川口の古田島和太郎に嫁す。
 この年、仁一郎が勲三等旭日中綬章を受章。

◆世相・文化

 3月1日、日本統治下の韓国で三・一運動(万歳事件)。初代皇帝高宗の葬儀に合わせて宗教指導者らが起こした独立運動で、「独立万歳」と叫ぶデモは半島全土に広がった。
 4月、宇野浩二「蔵の中」発表。9月の「苦の世界」とともに作家としての地位を確立した。安吾も1928年当時に宇野浩二を愛読、安吾のデビュー時には宇野が讃辞をおくった。
 5月4日、北京の学生約3000人が天安門前の広場でデモ。1915年に日本が提示した21カ条条約の破棄などを訴えるもので、中華民国全土に波及して五・四運動と呼ばれる。
 10月、武者小路実篤「友情」発表。

1920(大正9)年
14歳
(61歳)

権威への反抗開始

 4月、献吉が早稲田大学に復学(この年から大学部政経学科から政経学部と呼称変更)。1919年に学内で設立された建設者同盟に参加して、佐野学の指導を受ける。佐野は献吉の3つ上で、20年4月から早稲田でマルクス経済学を教えていた。東大新人会とともに学生運動の拠点となり、20、21年のロシア飢饉救済運動では全国の学校を糾合した。
 この頃、仁一郎は東京での住居を東京府豊多摩郡戸塚町大字諏訪6番地(現在の新宿区西早稲田2丁目)の借家に移し、献吉もここに同居する。
 小学校時からの近視が悪化したこと、横暴な上級生や先生らへの反抗の気持ちが強くなったことなどもあって、欠席が年間139時間と多くなり成績も悪化。これについて安吾は獅子文六との対談「青春対談」で次のように述べている。
 「非常に軍隊式なところでね、上級生には必ず敬礼しなければならぬという。僕はお辞儀をしないんだ。そうすると撲られる、僕は必ず撲り返したがね。すると今度はズラリと上級生の並んでいる前に引張り出されるという工合なんだ。そんなことからイヤになってね、当時、喫茶店があるわけじゃなし、金は持たぬし、仲間のやつら六人とパン屋の二階へ上って、馬鹿みたいに百人一首ばかりやっていた」
 ただし、同級生らの回想によると、百人一首で遊んでいたのは翌年のことと思われる。
 10月、再びシウの姑毒殺未遂疑惑が発覚し、モルヒネを調達した件で次姉のユキが新津警察署の取り調べを受ける。
 秋頃、仁一郎は体調の異状に気づき、新潟医科大学で診察を受けたところ胃ガンらしいと診断されるが、周囲には秘して後事を整えはじめる。

◆エピソード

 2年先輩の友人だった三堀謙二の回想に、次のようなエピソードがある。「通学の途中、いまの新大理学部のあたりにあった小田の稲荷さまで、私と炳吾君は“イナリサマというものは本当にあるか、ないか”で口論をし、いないという炳吾君は“いるなら石をぶっつければ出てくるだろう”と御神体に石をぶっつけたら、番人の老人に叱られた」

◆世相・文化

 1月10日、国際連盟が発足。42カ国が加盟したがアメリカは加盟せず。フランス、イギリス、イタリア、日本が(のちにドイツとソ連も)常任理事国になる。
 5月、上野公園にて日本最初のメーデーが行われる。
 5月10日、直接国税10円以上納税の満25歳以上の男性に限られていた選挙権がこの年の第14回総選挙から納税額3円以上に引き下げられる。⇒1925年
 6月、高畑素之がマルクス『資本論』の翻訳を刊行。
 9月、未来派美術協会設立。
 同月、豊島与志雄がロマン=ロオラン「ジャン・クリストフ」の翻訳を3年間連載。
 12月9日、堺利彦、大杉栄らが日本社会主義同盟結成を宣言するが、翌年5月28日に解散命令が出る。

1921(大正10)年
15歳
(62歳)

作家志望の落伍者志願

 4月、2年次留年。この頃から小説家を志す。欠席は一層多くなり、年間348時間の欠席となる。家では家庭教師をつけられたが逃げまわったという。この家庭教師については「石の思ひ」に「医科大学の秀才で、金野巌といふ人で、盛岡の人であつた」と記されており、安吾逝去時の弔電名簿に「コンノイワオ 盛岡」とある。金野は安吾の家庭教師をやっていた時、姉の下枝と交際しており、仁一郎から結婚するなら新潟市内に開業医を開くよう言われたが、自分は岩手大学医学部で研究を続けると決めていたので別れたという(帆苅隆氏調査)。下枝は幼年の頃から星名家の養女に入っていたが、1922年10月、数え年20歳になるのを前に離籍して坂口家に戸籍を戻している。金野と交際があったならば、離籍の前年から坂口家にいたと考えられる。金野は後年、宣言どおり岩手医大教授になり、1948年、耳性化膿性脳膜炎の治療に関する研究によって第1回岩手日報文化賞・学芸部門を受賞した。
 晴れた日は砂浜の松林の下に寝ころんで海と空を眺めて暮らし、授業時間が終わった頃に登校して柔道や陸上競技を練習したという。雨の日には磯部佐吉、北村博繁らサボり仲間の同級生6人(他は大谷、布田、星野)で「六花会」と称して、パン屋の2階で百人一首をして遊ぶようになる。パン資金のために授業料を流用したり、安吾がこっそり父親の刀を古物商に売り払ったり、学校でこっそり酒を飲んだり、試験問題を盗んできたりしたこともあったという。また、安吾の企画でラシャ紙表紙の回覧雑誌を発行し、先生らを諷刺する漫画などを載せる。その漫画に辛辣な説明を付けたのがばれて問題になったこともあった。ほかにも、わざわざ試験の答案を白紙で出して英雄を気どったり、卑怯な嘘をつく先生を友達と二人で殴りに行ったという噂もある。漢文教師が「自己に暗い奴」の意で「暗吾」の渾名をつけたといわれ、仲間うちでは「アンゴ」が通り名となる。
 献吉は建設者同盟とは思想が合わず1年で脱退。
 6月3日、『新潟新聞』に坂口五峰の談話筆記「雲泉と越後」が発表される。
 9月1日から立憲政友会系の『新潟毎日新聞』にシウの事件が19回にわたって連載される。ライバルである憲政会の新潟支部長仁一郎のイメージダウンを狙ったもの。これによると、19年秋頃の猫いらず事件後、20年5月頃シウはモルヒネを入手、妹ユキに頼んでその使用法等を薬剤師に問い合わせるとすぐ丸薬にして姑に呑ませたという。姑は死にかけたが持ち直したので、シウは再度ユキに薬の分量を問い合わせたが、ユキは恐怖を感じて逆にすべてを家族に打ち明けたため事件が発覚したという。動機は仁一郎の政治資金調達のため、というあたりはいかにも政友会寄りの憶測だが、警察の取り調べが入った話などは事実とみられる。
 9月18日、仁一郎が憲政会北陸大会と同時に新潟支部の屋舎新築落成式を開く。めったに地方の式には出ない加藤高明総裁をはじめ、幹事長、党務委員長ほか有志500余名が出席した。
 11月15日、シウの夫曽我直太郎が死去。
 11月、仁一郎の病患急変して入院するが、奇跡的に回復、号を更生道人、蘇庵などと改めた。この秋、仁一郎は献吉に坂口家先祖のことを語り聞かせている。

◆エピソード

 「石の思ひ」では、三人の異母姉のうち「上の二人が共謀して母を毒殺しようとしモルヒネを持つて遊びにくる、私の母が半気違ひになるのは無理がない」と書かれている。

◆世相・文化

 1月、志賀直哉が「暗夜行路」前篇を連載(8月まで)。
 2月、『種蒔く人』創刊。青野季吉・平林初之輔らが参加し、プロレタリア文学論が盛んになる。
 3月、倉田百三『愛と認識との出発』刊行。真実探求の熱意にあふれたエッセイ集で、阿部次郎の『三太郎の日記』(1914年)や西田幾多郎の『善の研究』(1911年)などとともに青年の必読書といわれた。安吾も翌年ごろから宗教や哲学の本を読みあさったようなので、これら哲学エッセイのベストセラーも読んでいたに違いない。
 7月、佐藤春夫『殉情詩集』刊行。
 同月、佐野学が月刊『解放』に「特殊部落民解放論」を発表。西光万吉らに強い感化を与え、翌年の全国水平社結成の契機となる。
 11月、原敬首相が暗殺され、高橋是清が組閣。
 11月、ワシントン軍縮会議。四カ国協定(日・英・米・仏)を結び、日英同盟を破棄する。

1922(大正11)年
16歳
(63歳)

東京の豊山中学へ転校

 1月、大隈重信の死に際して、仁一郎は市島謙吉に頼まれ、市島の作った墓碑銘を鉛板に揮毫する。そのほかにも病後の身で伊藤香草の遺稿編纂などに当たる。
 1月13日、仁一郎による大隈追悼の談話が『新潟新聞』に掲載される(14日、18日にも)。
 3月27日、シウが曽我家を離縁され、4月1日に坂口家へ復籍するも勘当の身となるが、仁一郎の斡旋により東京で家政婦の職に就いたという。
 4月、第3学年に進級はしたがますます欠席日数は多くなり、サボっている生徒を捕まえに来た教師を殴ったことなどが原因で、転校を余儀なくされる。四兄上枝が東京で安吾の転入先を探しているので、おそらくこの年頃、上枝が早稲田大学理工学部機械工学科に入学。
 6月19日、早稲田在学中の献吉が五泉の吉田徳(のり)と結婚。徳(1901.12.17‐83.1.30)はアサの姪(妹マサの娘)。この時、徳の姉林(りん)は大野璋五(耻堂の曾孫。1895.5.13‐1985.7.16)と夫婦であり、戦後、安吾とともに蒲田の家に一家で同居することになる。
 9月、東京護国寺境内の豊山(ぶざん)中学へ転校。父仁一郎、献吉夫妻、上枝とともに戸塚町の借家に同居。学校では同じ転校生の山口修三沢部辰雄と親しくなる。山口は舞台俳優志望。沢部はこの当時から狂気の徴候を見せていたという哲学好きの秀才で、安吾と2人で「悟入を志して仏教を学び牛込の禅寺へ坐禅を組みにでかけたりなどしてゐた」と「女占師の前にて」に書かれている。3人で学校をサボって、神楽坂の紅屋や護国寺門前の鈴蘭という喫茶店に入り浸る。そこは社会主義者の溜まり場だったというが、安吾自身は社会主義に深い関心はなく、プロレタリア文学も全く評価していなかった。
 10月、新潟市西大畑町の生家の大家から明け渡しの要求があったため、かつて仁一郎が所有していた同市学校裏町31番地の土地を献吉が買い戻す。ここに平屋建ての家を新築、隣接する土地に貸店舗を3軒つくる。

◆エピソード

 「いづこへ」の中で、新潟中学を退学する時、「学校の机の蓋の裏側に、余は偉大なる落伍者となつていつの日か歴史の中によみがへるであらうと、キザなことを彫つてきた」と書かれている。晩年、新潟放送のインタビューに答えて「机じゃなかったね。そんな長い文言は机の蓋じゃ無理です。柔道場の板戸に彫りつけたんですよ」と語っているが、どちらも虚構もしくはジョークであったかもしれない。
 豊山中学は、安吾いわく「全国のヨタ者共の集る中学」で、3年生の半分ぐらいは成人。新聞配達や人力車夫などをしている生徒もいたという。ボクサーの同級生に頼まれて「人心収攬術」というボクシング小説を翻訳し、その男の名前で『新青年』に載せたと「風と光と二十の私と」にあるが、『新青年』総目次にはボクシング小説らしいものは見当たらない。不掲載に終わったか、別の雑誌に載った可能性はある。

◆世相・文化

 1月10日、大隈重信が早稲田で死去。市島謙吉が葬儀委員長となって17日に日比谷公園で国民葬を催し、約30万人の一般市民が参列した。
 1月、志賀直哉が「暗夜行路」後篇を連載(翌年4月まで)。
 3月3日、西光万吉らが全国水平社結成。
 7月15日、徳田球一、山川均、佐野学らが非合法で日本共産党結成。
 8月25日、新潟県燕市から分流する大河津(おおこうづ)分水が通水。これにより信濃川下流の水量はかなり減ったため、新潟市域の川幅を約3分の1に改修する工事(770mから270mに縮小)が始まる。
 12月30日、ソビエト社会主義共和国連邦が国家樹立。

1923(大正12)年
17歳
(64歳)

震災後、父仁一郎が逝く

 1月15日から23日まで、仁一郎が七松山人名義で『新潟新聞』に「小作争議に関する管見」を連載(6回)。同紙には並行して19日から21日まで「地租軽減と政友会」も連載(3回)し、21日には「両税移譲と憲党」も発表するという具合に何重にも論陣を張る。
 1月、読書量が増すにつれ創作への意欲が強くなるとともに絶望感も深まり、石川啄木流の短歌を作って新潟中学の三堀謙二に送り、戯曲を書きかけてやめる。豊山中学での2年半の間に、チェーホフ(特に「退屈な話」)、谷崎潤一郎、正宗白鳥、佐藤春夫、芥川龍之介らの作品をよく読み、ポーやボードレール、啄木なども落伍者の文学として愛読する。宗教や自然哲学の本なども読み進め、松浦一『文学の本質』『文学の絶対境』(この年7月刊)などを耽読したと推定される。
 3月、献吉が早稲田大学政治経済学部を卒業、4月に長岡銀行東京支店に入行。
 7月、献吉が新潟の住居を西大畑町の借家から新潟市学校裏町31番地の自家に移す。しかし、母アサと妹千鶴が入居してまもなく火災に遭い、2階建てに建て直す。25年11月から28年5月まで献吉夫妻もここに同居するが、献吉の東京勤務に伴い、28年10月には店舗部分を売却。アサと千鶴も29年春には東京に出てきたが、帰省時のために住居は残したようである。アサが死去する42年まで新潟の住居はここであった。
 9月1日、関東大震災が起こり、2日、戒厳令下、仁一郎の命をうけて加藤高明若槻礼次郎両邸を震災後の火事見舞いに訪れる。その時、若槻には会えなかったが加藤には会えたといい、中学生の自分と「何の距てもない心の幼さ」が加藤に感じられ、同時に「父のスケールの小さゝを痛切に感じた」と「石の思ひ」に書いている。加藤は翌24年6月11日から首相となったが、26年1月に死去、若槻が後を受けて首相になった。
 11月2日、父仁一郎が死去。叙従五位。遺志により解剖の結果、胃癌ではなく後腹膜腫瘍(こうふくまくしゅよう)であったことがわかる。4日に東京で、11日に新潟で、それぞれ告別式が行われる。戒名は生前に自ら記した「攬秀院釈五峰居士」。12日に大安寺の坂口家代々の墓所に納骨された。同月14日、献吉が長岡銀行を依願退職。その後、横浜鶴見の日英醸造株式会社に会計係として入社する。鶴見にはビール工場、有楽町に事務所があったので、献吉の勤務地は有楽町が多かったかと思われる。
 年末、家賃負担を軽減するため、献吉夫妻、上枝、婆やとともに東京府池袋村丸山1636の四軒長屋へ転居。

◆書簡

 1/14 三堀謙二宛

◆世相・文化

 1月、稲垣足穂『一千一秒物語』刊行。モダニズム文学および新感覚派文学のはしりといえる。
 3~4月、宇野浩二「子を貸し屋」発表。
 4月、江戸川乱歩「二銭銅貨」発表。
 5月、横光利一「日輪」「蠅」を発表。
 6月5日、第一次共産党事件。堺利彦、山川均ら共産党議員が一斉検挙される。佐野学は直前にソ連に逃亡していた。
 7月、松浦一『文学の絶対境』刊行。
 9月1日、関東大震災。

1924(大正13)年
18歳

ハイジャンプで全国優勝!

 この春、一家で池袋近辺のさらに家賃の安い家へ転居。「そのときは二階の八畳に上枝さまと炳五さまが入り、下の八畳に主人と私、その隣りの三畳に婆やが住みました」と坂口徳の談話にある。
 9月20、21日の両日、駒場トラックにて全国中等学校競技会が行われ、走り高跳びで優勝。雨でグラウンドがぬかるんだため、1.57mという例年より低い記録であった。
 10月18日、豊山中学の運動会でも陸上競技(砲丸投げ、ハードルなど)に選手として出場。11月1日には学内の相撲大会、2日には柔道大会にも出場する。ほかにも、野球では投手をやったという。
 12月、坂口家の財産整理が行われ、10万円ほどの借金が残っていることが判明。
 この年、献吉は日英醸造の宣伝広告係に異動。通勤の便を図って東京府荏原郡大井町字元芝849(現在の品川区東大井)に一家で転居。

◆世相・文化

 3月、谷崎潤一郎「痴人の愛」を連載(翌年7月まで)。
 4月、宮沢賢治が詩集『春と修羅』刊行。12月には童話集『注文の多い料理店』を刊行。
 6月11日、普通選挙法を選挙公約に掲げた憲政会が比較第一党となり、加藤高明が護憲3派内閣の首相となる。
 6月、プロレタリア文学雑誌『文芸戦線』創刊。平林初之輔や青野季吉が論陣を張り、葉山嘉樹、黒島伝治らを輩出した。
 10月、横光利一、川端康成らが『文芸時代』創刊。新感覚派の登場として話題になる。
 この年、アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』刊行。

1925(大正14)年
19歳

小学校の先生となるモラトリアム時代

 1月半ば頃、母アサが借金の相談のため上京し4、5日滞在。この時、安吾の身のふり方についても話し合われたもようで、大学入学をあきらめて代用教員として働くことに決める。その頃の山口修三宛書簡に「実を云えば山へでも入って暮したかったのです。瞑想と自然がどれだけ私をそそのかしたか知れません」と書き送っている。また、1927年10月頃の山口修三宛書簡には「僕は中学を卒業する年の一月二十八日の夜十二時頃、初めて、創作と内心とのピッタリと合一した、境地を味つた」と書かれている。
 3月15日、豊山中学卒業。31日に荏原尋常高等小学校下北沢分教場(現在の世田谷区立代沢小学校)の代用教員に採用され、5年生を担当。就職に伴い分教場近くの下宿屋に住んだが、20日ほどして荏原郡松沢村松原1783(現在の世田谷区松原)の分教場主任・石野則虎方の2階に移る。分教場には教室が3つしかなく、安吾が受け持った5年生は分教場の最上級で、42、3人のクラスだった。月給は45円。
 7月、献吉の親友でしばしば『改造』に文章を発表していた伴純という論客が、青梅の日影和田の山中で原始生活をしていたところ、山を引き上げて遊びに来ていた。そこで、一夏を伴の山小屋で過ごそうと日影和田に赴くが、マムシの侵入に悩まされ数日で帰る。
 秋には生徒たちを連れて渋谷から電車に乗り、神奈川県の逗子海岸へ遠足に行く。
 10月、献吉によって仁一郎の漢詩を集めた『五峰遺稿』全3冊が刊行される。
 11月1日、献吉は新潟新聞社の久須美社長から、会社の経営困難を救うべく入社懇請されていたのを受け、伴純を誘って入社。献吉が営業主事、伴が編集主事として同時入社した日付は、これまでの献吉側資料では1926年11月1日とされていたが、伴の履歴書等はすべて1925年11月1日であったと後年になってわかる。伴の死後、献吉自身も気になって未亡人に尋ねたところ、長男出生の年だったので間違いないと言い、その言のほうに重みがある。献吉のほうで「大正末年」と覚えたのが実は昭和元年の前の年だったという勘違いであろう。安吾の自伝的小説「二十一」によれば、少なくとも1926年3月以降、安吾と上枝が住む池袋の家に献吉夫妻は同居していない謎も、この説を裏づけるに十分である。(その後、この年11月19日の新潟新聞に「両君の入社を歓ぶ」と題して市島謙吉談話が記事になっていたことが判明した。)
 11月2日、献吉が仁一郎の三回忌法要を新潟で執り行う。

◆エピソード

 当時の教え子の談話によると、絶対に怒らない優しい先生で、できない子の面倒をよく見てくれたし家庭訪問もよくやったそうだ。運動の授業は非常に熱心で、そのほか一週間に2回くらい、音楽や算術の時間などをつぶして裏の公園やお寺に連れて行って写生を教えたりした。放課後はいつも教員室に居残って勉強しており、生徒が来ると「坊っちゃん」とか百人一首などを読んで聞かせた。生徒たちの評判も相当よかったらしい。「安吾なんて読みにくいから、『あんこ先生』ってあだ名で呼んでいました」と回想されているので、先生としても「安吾」の名を使っていたことがわかる。
 戦争中、安吾は『新潟日報』で伴純の論文を読み、「先ずこれぐらいベラボーな論理を失した神がかりは天下になかったようである」とのちに書いている。

◆書簡

 25年頃 山口修三宛

◆世相・文化

 3月、ラジオ放送が始まる。
 4月、加藤高明内閣で治安維持法公布。おもに共産主義の弾圧を目的とし、3年後の1928年には緊急勅令で死刑法に厳罰改定された。
 5月、普通選挙法公布。納税額による制限は撤廃され、選挙権は満25歳以上の男子すべてに与えられたが、女子には太平洋戦争後まで与えられなかった。
 8月、江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」発表。
 9月、堀口大學の訳詩集『月下の一群』刊行。

1926(大正15・昭和元)年
20歳

インド哲学探究、没我の修行

 3月31日、代用教員を依願退職し、東洋大学印度哲学倫理学科へ入学。早稲田大学機械科に在学中の上枝、婆やと3人で池袋近辺を転々と移り住み、最後には板橋中丸へ転居。悟りの境地を得ようとして、仏教書・哲学書などを読みふけり、睡眠は1日4時間、夜10時に寝て午前2時に起きる修行生活を続ける。上枝はボートとラグビーとバスケットボールの練習にあけくれていたという。
 6月4日に新津で徴兵検査を受け、第二乙種歩兵補充兵に決まる。夏休みにも帰省。

◆世相・文化

 1~2月、川端康成「伊豆の踊子」発表。
 4月、中勘助「銀の匙」発表。
 8月、横光利一「春は馬車に乗つて」発表。
 10月、江戸川乱歩「パノラマ島奇談」発表。
 12月、改造社から1冊1円の『現代日本文学全集』刊行。円本ブームが生まれる。
 12月25日、大正天皇死去。昭和と改元するが、元年はわずか1週間しかなかった。

1927(昭和2)年
21歳

鬱病発症

 1月28日、七姉下枝が熊本県下益城郡海東村(現在の小川町)出身の和田成章に嫁す。
 3月、印度哲学倫理学科の学生たちによる同人誌『涅槃』第2号に研究論文を発表。学年末試験の最中、自動車にはねられて左頭部をコンクリートへ叩きつけ、頭蓋骨にヒビが入る。以後2年ほど水薬を飲みつづけるが、この後遺症もあってか鬱病の症状が現れだす。
 夏頃、本気で創作を始めるが、何も書けず。自分には「命かぎりの芸術が、まだないからだ」と山口修三宛書簡に書かれている。「僕の頭は、とぎすました刀の様に、何物も透通しながら、書けない懊悩と懊悩の中で、いよいよ来るべき発狂をさぐり当ててしまつた」とも。鬱病の悪化に伴い幻聴や耳鳴り、歩行困難などの症状が出てきたので、修行生活を中断、療養のため新潟へ帰省。新潟中学時代の友人三堀謙二を訪ね、まもなく帰京。印度哲学には幻滅を感じはじめ、創作欲が旺盛になるが、一行も読書できなくなってしまう。
 9月18日、東京府北豊島郡西巣鴨町大字池袋1060(現在の豊島区西池袋)に上枝、婆やと共に転居。以後2年8カ月ここに落ち着く。
 秋頃から、岸田国士・岩田豊雄・関口次郎主宰の新劇研究所の研究生になっていた山口修三と、精神病で巣鴨保養院に入院中の沢部辰雄の2人を毎日のように訪問。山口は弟とともに遊び歩いていたらしく不在がちだったが、山口家のお喋りの婆やと深夜まで話し込む習慣がつく。婆やは山口の叔父をパトロンとしていたが、月々の生活費を山口兄弟が使い込んでいるらしいと安吾に愚痴をこぼしていた。
 この頃、東洋大学では大学制度が変わろうとする時期で、印度哲学倫理学科の学生たちは同盟ストライキを打つ。安吾も一度、内藤という学生と共にストライキの首謀者的役割を果たしたことがあったという。

◆発表作品等

 3月、「意識と時間との関係」(『涅槃』)
    「今後の寺院生活に対する私考」(『同』)

◆書簡

 27年頃 山口修三宛
 9/17 三堀謙二宛
 10月頃 山口修三宛

◆世相・文化

 2月、谷崎潤一郎が『改造』にエッセイ「饒舌録」を連載(12月まで)。
 3月、芥川龍之介「河童」発表。
 4月20日、田中義一内閣発足。金融恐慌の中、モラトリアム(支払い猶予令)を発動するが、不況は深刻化、労働争議が相次ぐ。
 4月、谷崎と同じ『改造』誌上で、芥川龍之介が「文芸的な、余りに文芸的な」を連載(8月まで)。筋の面白さ自体には芸術性はないとして、谷崎と「小説の筋」論争を繰り広げる。そのさなかの7月24日、芥川が自殺し文壇に衝撃を与える。
 5月21日、アメリカのリンドバーグが単葉プロペラ機「スピリット・オブ・セントルイス」号により単独無着陸でニューヨークからパリへの大西洋横断に成功。
 9月、瀧井孝作『無限抱擁』刊行。

1928(昭和3)年
22歳

アテネ入学、文学への回帰

 この年の初め頃、沢部は退院して千葉の方へ行く。この頃、イカサマ商売で儲けているケイズ屋と名のる男と知り合い、アルバイトで春本を3つほど書いたことがあったらしい。
 3月、上枝が早稲田大学理工学部機械工学科を卒業、小石川の東京計器製作所にエンジニアとして入社。⇒1948年
 この頃から、語学に集中することで鬱病を根治しようと考え、梵語、パーリ語、チベット語を習うほか、4月には神田のアテネ・フランセヘ入学し、フランス語、ラテン語も一どきに勉強する。東洋大学へも通いつづけ、前年のストライキ時の活躍が買われて、学生自治会の副委員長に選ばれるが、委員長の吉田通俊に頼んで辞退する。
 5月、献吉が新潟新聞社の理事兼東京支局長に就任、献吉夫妻も池袋の借家に同居する。徐々に鬱病も治り、ポー、ヴォルテール、ボーマルシェなどのファルスを愛読。ほかにもメリメ、スタンダール、フローベール、モーパッサン、バルザック、ジイド、プルースト、ヴァレリー、ラクロ、コンスタン、ラディゲ、ランボー、ネルヴァル、ブルトンに至るまで、フランス文学の代表作を熱心に読みあさる。アテネ・フランセで知り合った長島萃江口清と読書会を始める。
 9月4日、山口修三宛書簡の中で「今愛読している人、宇野浩二、葛西善蔵、有島武郎等。みな正しい人々だった。腹の立つ人、夏目、芥川、岸田、片岡などいふ人々、下らない人達だと思っている。/俺は俺の真実を見たいと同様に、何者からも亦真実を見せてもらひたい。宇野、志賀といった人々から見せてもらへる真実を、ほかの誰からも見せて貰ひたいと願ってゐる。俺もまた、俺の真実を皆にみて貰ひたいと願っている」と書く。
 その後まもなく、山口は婆やを残して弟と夜逃げする。これがもとで山口とは絶交するが、5年後、山口から今は真面目に働いているので、また友達になってほしいという手紙が届き、とまどう心境を矢田津世子に宛てて書いている(⇒1933年へ)。もっとも、その間の30、31年には居場所が知れていたようで、『言葉』『青い馬』の同人に加えて創作発表の場を与えてやるだけの温情は保った。
 本格的に小説を書きはじめ、11月末締切の第2回『改造』懸賞創作に応募したと推定される。規定の原稿枚数は150枚以内で、1000篇以上の応募があった。「小さな山羊の記録」によると、その処女作は「チエホフの短篇に感動したあまり、自分も書いてみたくなって」書いたもので、「老人が主人公」、「スラスラと、一夜に一冊のノート一ぱいの文章がよどみなく書きあげられた」という。この頃、安吾が何度も読んだというチェーホフの「退屈な話」は、神経症的な老人を主人公に、現代人の不安をリアルに描いた作品である。

◆世相・文化

 28年頃 山口修三宛
 4月頃 山口修三宛
 09/04夜 山口修三宛

◆世相・文化

 1月、嘉村礒多「業苦」発表。7月発表の「崖の下」とともに注目を浴び、私小説の極北と称される。
 2月、佐多稲子「キャラメル工場から」、黒島伝治「渦巻ける烏の群」発表。
 2月、第1回普通選挙実施。
 3月15日、三・一五事件。労働農民党や非合法の日本共産党などの関係者約1600人が治安維持法違反容疑により検挙される。これに伴い、プロレタリア文学の2派が合同して全日本無産者芸術連盟(ナップ)を結成、5月に『戦旗』を創刊。小林多喜二や徳永直らが同人で、『文芸戦線』の黒島伝治も『戦旗』に移る。
 3月、谷崎潤一郎「卍」を連載(30年4月まで)。
 4月、『改造』第1回懸賞創作の受賞作として龍胆寺雄「放浪時代」が掲載される。安吾はこれに刺激を受けて処女作を書きはじめる。
 6月、中村武羅夫「誰だ?花園を荒す者は!」発表。プロレタリア文学批判の急先鋒となる。
 同月、牧野信一「村のストア派」発表。幻想と現実の交錯する作風に転じ、「ギリシャ牧野」と呼ばれる。牧野は初期の安吾作品に自分と同質のものを感じたようだが、安吾はデビュー後まで牧野作品を読んだことがなかった。
 6月4日、満州王として君臨した張作霖が列車移動中、関東軍のテロにより爆殺される。安吾の「いづこへ」の中で、1934年頃よく飲みに行った十銭スタンドのマダムの亭主が「張作霖の爆死事件に鉄路に爆弾を仕掛けたといふ工兵隊の一人」だと話していたと書かれている。
 7月28日、アムステルダム・オリンピック開催。織田幹雄が三段跳び、鶴田義行が200m平泳ぎで優勝、人見絹枝は800mで2位となる。
 7月、山本有三「波」を連載(11月まで)
 8月、野上弥生子「真知子」を連載(30年12月まで)。
 同月、林芙美子「放浪記」を連載(30年6月まで)。
 12月、谷崎潤一郎「蓼喰ふ虫」を連載(翌年6月まで)。

1929(昭和4)年
23歳

わかり合う母と子

 春、母アサと妹千鶴が上京、池袋の借家に7人で同居。フランスで本場の芸術を見たいという気持ちが強くなり、アサは自分の生家から資金援助してもらって安吾を留学させてやろうと真剣に考えていたらしい。しかし自信はゆらぎがちで、「途中で自殺しそうな気配の方を強く感じて」フランス行には踏み切れなかったと「世に出るまで」に書かれている。
 11月、献吉が父仁一郎の追悼録『五峰余影』を刊行。
 この年再度、『改造』懸賞創作に応募したようである。

◆世相・文化

 3月5日、旧労農党の山本宣治が右翼の暴徒に刺殺される。
 4月、島崎藤村「夜明け前」連載開始。
 同月、安西冬衛『軍艦茉莉』刊行。
 同月、中原中也河上徹太郎大岡昇平、富永次郎、安原喜弘らが同人誌『白痴群』創刊(翌年4月まで刊行)。
 4月16日、四・一六事件。共産党員が再び一斉検挙にあう。
 4月20日、萬代橋上流両岸の埋め立て工事が始まる。
 5月、井伏鱒二「山椒魚」発表。
 5~6月、小林多喜二「蟹工船」発表、のちに発禁となる。
 6月、徳永直「太陽のない街」を連載(11月まで)。
 7月2日、田中義一内閣が総辞職し、立憲民政党の浜口雄幸が組閣。
 8月23日、萬代橋(3代目)竣工。6連アーチの構造は初代から変わらないが、木橋から鉄筋コンクリート製に変わった。全長は782mから306.9mに縮小、幅は6.7mから21.9mに広がった。この橋は2004年7月に重要文化財に指定された。国道に架かる橋では東京の日本橋に続いて全国で2例めである。
 9月、『改造』の懸賞評論で、小林秀雄「様々なる意匠」が第2席となり文壇デビュー。第1席は宮本顕治「『敗北』の文学」。
 9月、モダニズム詩誌『詩と詩論』創刊。
 10月24日、ニューヨーク株式市場の大暴落を機に、4年に及ぶ世界恐慌が始まる。
 同月、川端康成、横光利一らが『文学』創刊。同誌に小林秀雄がランボー「地獄の季節」の翻訳を連載。
 11月、西脇順三郎『超現実主義詩論』刊行。付録に瀧口修造「ダダよりシュルレアリスムへ」収載。
 11月、井伏鱒二「屋根の上のサワン」発表。

1930(昭和5)年
24歳

はじめての同人誌発刊

 3月、東洋大学卒業。4年間の在学中に、倫理、教育、国文学、支那哲学、印度哲学、西洋哲学、歴史、英語及英文学などを学び、どの学科も高得点であった。
 5月、荏原郡矢口町字安方127(1932年10月以降は東京市蒲田区安方町127。現在の大田区東矢口2丁目)に家が建ち、アサ、献吉夫妻、上枝、千鶴と共に池袋から転居。女子美術専門学校へ通う姪の綾子も交えて、家族で麻雀や花札をして遊ぶ。
 夏頃、アテネ・フランセに通う葛巻義敏本多信江口清山沢種樹長島萃若園清太郎関義高橋幸一らと同人誌『言葉』の創刊準備に入る。豊山中学時代の友人山口修三も同人に加わっているが、同人会などには出席しなかったもようである。翻訳中心の雑誌とするため、葛巻の家で徹夜で翻訳する日がしばしばあり、『言葉』に発表したほかにも、ジイドの「オスカー・ワイルドの思い出」などを翻訳する。
 11月、『言葉』創刊。葛巻と交代で編輯兼発行人を務める。発行所は献吉が理事兼東京支局長を務める新潟新聞社東京支局(京橋区中橋和泉町六)の2階となっているが、編集会議は葛巻の部屋か蒲田の坂口家で行われることが多かった。処女作「木枯の酒倉から」は葛巻が強く推して『言葉』第2号に掲載されることになるが、その掲載採否が同人会議で決まる前後の同月14日、好きだった異母姉ヌイが黒色肉腫のため40歳で死去。鎮魂の思いをこめた次作の構想を練る。また、葛巻宛に未定稿「愛染録」を書いて送るとともに、「僕は今、ドビュッシイのやうな小説を書こうと思つてゐます」「この小説は、短い期間では出来さうもありません。この中で、僕は、少年と少女と同性愛と犯罪と、親と子と、惨酷と、□(イン)惨と、それらの中から、夢のやうな何かある純情さを浮彫りすることを意企するつもりです」と書き送った。
 年末、サティの歌曲を日本で初演した三瀦牧子宅を『言葉』同人たちと訪問し、サティの「Je te veux(おまえが欲しい)」を歌ってもらう。

◆エピソード

 この春から女子美術専門学校へ入学した姪の湯浅綾子さん(ヌイの娘)は、毎週土日は坂口家へ遊びに行っていたという。その頃麻雀のセットが手に入って、アサ、献吉、徳、上枝、安吾、千鶴、綾子さんの7人のうち手の空いた人から卓を囲んで夜通し麻雀をやった。夏には、アサは腰巻き一枚で上半身は裸、上枝もいつも褌一枚でいたが、安吾は絶対に裸にならなかったという。その頃の安吾は痩せていて、あばら骨が人に見えるから嫌だと言って、いつも妹の千鶴が作ってくれたパジャマを着てナイトキャップをかぶっていた。麻雀で金を賭けたこともあって、安吾のトレードマークのステッキは、麻雀で勝った金で買ったのが初めらしい。当時はステッキがはやっていて、アテネ・フランセの仲間たちの間でも安吾のほかに長島萃、若園清太郎、本多信、片岡十一などが愛用者だった。麻雀のブームが終わった頃からは花札をやったという。
 この年の5月5日、神田のカフェの支配人募集広告を見て就職面接に出かけた話が「暗い青春」に書かれている。「誰の目にも一番くだらなさうな職業だから」という理由であり、結局履歴書をその場で返却してもらって帰ったという。同じ頃、長島萃と九段の祭りでサーカスを見たあと、衝動的に一座に入れてくれと頼んだとも書かれている。この時は「長島に見せるための芝居気」もあったらしい。落伍者志願を現実の上で実験(あるいは取材)する気持ちがあったかもしれない。

◆発表作品等

 11月、翻訳 マリイ・シェイケビッチ「プルウストに就てのクロッキ」(『言葉』)
    「編輯後記」(同)

◆書簡

 11月末頃 葛巻義敏宛

◆世相・文化

 1月11日、浜口内閣で、井上準之介蔵相により長年の懸案だった金解禁が断行される。産業の構造改革をめざしたものであったが、世界恐慌の影響もあって、大不況に陥る。
 1月21日からは英米日仏伊5カ国によるロンドン軍縮会議が行われ、首席全権として若槻礼次郎が出席、4月22日に条約調印。これにより軍部との対立が激しくなる。
 3月、牧野信一「西部劇通信」「吊籠と月光と」を発表。
 5月、堀辰雄、井伏鱒二、小林秀雄、神西清、深田久弥、永井龍男、今日出海らが『作品』創刊。執筆者はほかに川端康成、横光利一、武田麟太郎、牧野信一、萩原朔太郎、三好達治、北川冬彦、岸田国士ら。翌年、牧野が創刊する『文科』同人と重なる執筆者が多い。
 6月、直木三十五「南国太平記」を連載(10月まで)。
 9月、横光利一「機械」発表。
 11月、堀辰雄「聖家族」発表。
 11月14日、浜口雄幸首相が東京駅で銃撃されるが、この時は一命をとりとめる。⇒翌年
 12月、三好達治が処女詩集『測量船』刊行。
 エロ・グロ・ナンセンス文学が隆盛をきわめる。

1931(昭和6)年
25歳

衝撃のデビュー

 1月、葛巻宛に習作「僕の一人の友に就て」を書き送る。『言葉』第2号刊行前から、葛巻らと岩波書店より刊行してもらうべく交渉を始める。芥川龍之介の甥である葛巻は、芥川の遺稿の整理や全集出版などの責任者を負っていた関係で、全集の版元である岩波書店の力を借りようとしたが、交渉は難航、2月に出すはずの後継誌は5月まで延びる。『言葉』第2号では、アテネの先生をしていた山田吉彦(きだみのる)阪丈緒とを同人に加えて、岩波への口添えを頼んだようだが、結局は葛巻の立場上の力が大きかったものと思われる。
 5月、誌名を『青い馬』と変えて岩波書店より新創刊。菱山修三西田義郎鵜殿新一片山勝吉大久保洋海らが新規加入。安吾は創刊号に小説、エッセイと翻訳2本を載せている。
 6月、『青い馬』第2号に発表した「風博士」が文壇に新風を巻き起こす。岩波の名前もあって文壇の注目度は格段に増しており、当時『文藝春秋』の編集者だった永井龍男などが真っ先に注目して井伏鱒二に推奨。永井が牧野信一にも教えたのかもしれない。
 7月、アテネ高等科1年度期末試験で「賞」を得る。『青い馬』第3号には「黒谷村」を発表。この号から江口清本多信とともに編集主幹となり、編集所も田畑の葛巻方から神田岩本町の江口方に移る。同月、牧野信一が『文藝春秋』付録冊子で「風博士」を激賞、8月23日付『時事新報』では「黒谷村」を絶讃、同時に大森山王の牧野家への招待状が届く。牧野は宇野浩二にも安吾の諸作を奨め、宇野は『時事新報』12月14日号で「本年度下半期の傑作」に「竹藪の家」を挙げた。島崎藤村も「黒谷村」などを褒めていたといわれるが、藤村に関しては確証がない。
 8月末頃、牧野家初訪問の日、牧野を編集主幹として創刊される『文科』に長篇小説の連載を奨められ、以後、河上徹太郎中島健蔵、佐藤正彰、三好達治小林秀雄ら牧野を中心とする文学グループに加わって痛飲する日々が多くなる。
 10月1日、春陽堂から『文科』創刊。執筆作家はほかに、井伏鱒二、堀辰雄、稲垣足穂、嘉村礒多、丸山薫、安西冬衛、坪田譲治、瀧井孝作、上林暁らで、青山二郎が装幀。芸術派の新鋭・中堅として有名な作家ばかりの中で、全くの新人の安吾と主幹の牧野だけが全4集で長篇小説を連載した。長篇のタイトルは初め「長旅の果」で、その第1話を「竹藪の家」としてあったが、発表時に総題は省かれる。

◆発表作品等

 1月、「木枯の酒倉から」(『言葉』)
 5月、「ふるさとに寄する讃歌」(『青い馬』)
    「ピエロ伝道者」(同)
    翻訳 ヴァレリイ「ステファヌ・マラルメ」(同)
    「エリック・サティ(コクトオの訳及び補註)」(同)
 6月、「風博士」(『青い馬』)
    翻訳 ロヂェエル・ビトラック「いんそむにや」(同)
 7月、「黒谷村」(『青い馬』)
    翻訳 トリスタン・ツァラ「我等の鳥類」(『L'ESPRIT NOUVEAU』)
 8月、「帆影」(『今日の詩』)
    「現代仏蘭西音楽の話」(『L'ESPRIT NOUVEAU』)
 9月、「海の霧」(『文藝春秋』)
 10月、「霓博士の廃頽」(『作品』)
    「竹藪の家」(『文科』翌年3月まで連載)

◆書簡

 1月頃 葛巻義敏
 9/03 山口修三

◆世相・文化

 1月20日、菱山修三が21歳で処女詩集『懸崖』(第一書房)を刊行。アテネにいた菱山はこのあと『青い馬』同人に加わる。
 4月13日、前年銃撃を受けた浜口雄幸が首相を辞任、第2次若槻内閣が発足。
 4月、横光利一「時間」発表。
 同月、野村胡堂「銭形平次捕物控」連載開始。
 5月、梶井基次郎の短篇集『檸檬』刊行。小林秀雄らの絶讃を浴びるが、梶井は翌年病死。
 8月26日、浜口雄幸死去。
 9月、谷崎潤一郎「盲目物語」発表。
 10月、牧野信一「ゼーロン」発表。『文科』に長篇「心象風景」を連載。
 9月18日、満州事変勃発。日本の関東軍は5カ月後には満州(現中国東北部)全土を占領するに至る。若槻内閣の不拡大方針は軍部に破られる。
 同月、谷崎潤一郎「武州公秘話」を連載(翌年11月まで)。
 11月11日、新潟放送局が開局。
 12月、伊藤整らがジョイス『ユリシイズ』上巻の翻訳を刊行。
 12月13日、若槻内閣に代わって犬養毅内閣が発足。
 12月21日、イギリスなどに追随して日本も金輸出再禁止、管理通貨制に戻す。これを予測していた各財閥はドルの思惑買いによって巨利を得る。

1932(昭和7)年
26歳

矢田津世子との出逢い

 この頃、牧野家が泉岳寺附近へ引っ越したため、小学2年生だった牧野の一子英雄を九段の暁星小学校に編入させる手続きを代行。
 1月18日、1931年の代表作をあつめた春山行夫編『年刊小説』(『詩と詩論』別冊、厚生閣書店刊)に「風博士」が収録される。
 2月1日、「帆影」が『今日の詩』に再掲される。
 3月初め頃、「竹藪の家」続篇の取材のためか京都へ旅行。河上徹太郎の紹介で京大仏文科を卒業して上京する間際の大岡昇平を訪ね、大岡の世話で独文科の加藤英倫が住む左京区八瀬黒谷門前のアパートに部屋を借りる。左京区百万遍の京都アパートメントにいた京大哲学科美術史専攻の安原喜弘や加藤、画家の黒田孝子らと毎晩のように酒を酌み交わし、加藤とは連れ立って1週間ほど神戸へも旅行する。河上、大岡、安原は、中原中也らと1929~30年に同人誌『白痴群』の仲間であった。この時からの縁で、加藤、安原と中也、黒田孝子らはのちに安吾と牧野の肝煎りで創刊される『紀元』の同人になる。
 4月初め頃、上京後まもなく『文科』の廃刊が決まり、創作の方向性に迷いはじめる。「詩人」でなく「小説家」としての道を模索し、牧野とは意見が食い違うようになってあまり会わなくなる。
 5月10日、「ふるさとに寄する讃歌」が『小説(roman)』第2輯・特別号に再掲される。
 7月19日、「木枯の酒倉から」が『サロン』に再掲される。
 秋頃、京橋のバー「ウヰンザア」で中原中也と知り合い、中也や河上らとは飲んだ後によく待合や娼家などへ繰り出したようである。ウヰンザアの女給だった坂本睦子とホテルや旅館などを泊まりあるくようになったのもこの頃である。睦子は中也や小林秀雄、河上らとも浮き名を流し、戦後は大岡と暮らして「花影」のモデルになった女性で、1958年に自殺する。やや神経衰弱の気味があり、肉体の交渉を強烈に拒むくせに、ただずっと抱き合っているのを好んだという。その激しくも寂しげな風貌をもつ女性像は、その後「恋をしに行く」など安吾作品のそこここに立ち現れる。
 11月3日から8日まで新潟に帰省。
 12月、鎌倉で病気療養中の姪村山喜久を見舞い、義兄の村山真雄、その弟の政司とともに戯れの詩画集「小菊荘画譜」3冊を作る。ウヰンザアで加藤英倫と飲んでいる時に矢田津世子と出逢い、加藤に紹介されたというのは、この年末から翌年1月半ばにかけての時期であると考えられる。加藤と連れだって矢田が初めて安吾の家を訪れた時、ヴァレリイ・ラルボオの翻訳本(おそらく10月15日刊行の『仇ごころ』)を忘れていき、まもなく矢田からの自宅招待状が届いたという。
 12月28日、四兄上枝が山形県東置賜郡赤湯町(現在の南陽市)の須藤雪子と結婚。

◆発表作品等

 2月、「蝉」(『文藝春秋』)
 3月、「FARCE に就て」(『青い馬』)
 4月、「群集の人」(『若草』)
 6月、「母」(『東洋・文科』)
 9月、「Pierre Philosophale」(『文学』)
 10月、「村のひと騒ぎ」(『三田文学』)

◆発表作品等

 2月、「蝉」(『文藝春秋』)
 3月、「FARCE に就て」(『青い馬』)
 4月、「群集の人」(『若草』)
 6月、「母」(『東洋・文科』)
 9月、「Pierre Philosophale」(『文学』)
 10月、「村のひと騒ぎ」(『三田文学』)

◆書簡

 4/30 黒田英三郎・孝子宛
 4月頃 山本経宛
 8/22 「陽気な女房」より来信
 10/27 谷丹三

◆世相・文化

 2月、嘉村礒多「途上」発表。
 2~3月、血盟団事件。日蓮宗の僧侶井上日召の指令により、前蔵相の井上準之助、三井財閥の団琢磨が射殺される。日召は他に20余名の暗殺を企てていたが逮捕。
 3月1日、満州国建国宣言。清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を執政に担ぎ上げた日本の傀儡国家で、長春を新京と改名して首都とする。
 4月、島崎藤村が「夜明け前」第2部を連載(10月まで)。
 3月、伊藤整が評論「新心理主義文学」を発表。
 5月15日、五・一五事件。青年将校らが犬養毅首相を射殺、政党政治が終わる。同時刻に、牧野伸顕内大臣邸、立憲政友会本部も襲撃される。
 5月26日、朝鮮総督であった斎藤実を首相とする挙国一致内閣が発足、国内政治の安定をめざし、軍部や政財界との妥協点を探る。
6月、武田麟太郎「日本三文オペラ」発表。
 7月、小林秀雄がヴァレリイ「テスト氏との一夜」の翻訳を発表。
 7月30日、ロサンゼルス・オリンピック開催。南部忠平が三段跳びで世界新を出したほか、馬術、水泳などで日本が7つの金メダルをとる。
 7月31日、ドイツ総選挙でヒットラー率いるナチスが第1党となる。
 9月、小林秀雄「Xへの手紙」発表。
 10月15日、堀口大學・青柳瑞穂共訳でヴァレリイ・ラルボオの長篇『仇ごころ』刊行。ラルボオの翻訳本はこれが初めてである。
 11~12月、谷崎潤一郎「蘆刈」発表。
 12月、丸山薫が処女詩集『帆・ランプ・鴎』刊行。

1933(昭和8)年
27歳

苦しい恋と憂鬱の連鎖

 1月、矢田津世子との交際が急速に深まり、互いの自宅を訪問し合うようになる。この年、2人は頻繁に手紙もやりとりした。内容はまじめな文学についての話題が中心で、現存する安吾発信の書簡だけでも、この年1年間で31通にのぼる。
 2月5日、「ふるさとに寄する讃歌」を収録した『小説』第2輯が、450部限定の単行本として芝書店から刊行される。
 3月初め、矢田に誘われて同人誌『桜』の創刊に加わる。これは『モダン日本』の編集者でもあった作家大島敬司を主宰として中西書房から発行することになった半商業的同人誌で、当初は乗り気でなかった。安吾の招請により菱山修三が加わったことで勢いづき、また、同人の田村泰次郎井上友一郎真杉静枝河田誠一らと親しくなって、互いの家を行き来するようになる。同時期に隠岐和一若園清太郎山沢種樹らの編集になる同人誌『紀元』の企画準備にも協力し、同誌には後に中原中也加藤英倫安原喜弘らを加入させる。『紀元』には他に鵜殿新一片山勝吉西田義郎谷丹三、丸茂正治、寺河俊雄らが参加、装幀は青山二郎、長谷川春子らが担当した。
 3月26日、新宿中村屋で行われた『桜』同人の座談会「文学の新精神を語る」に出席。安吾はこの座談会で、文飾よりも主題と格闘することの重要さを説き、そのためには長篇を書かなければいけないと語る。また「文学とは社会制度に対する反逆であり革命だ」と宣言する。
 4月頃、『桜』同人会に顔を出していた『時事新報』文芸部記者の笹本寅から、矢田が同紙社会部部長で既婚者の和田日出吉と毎日曜に会っていると聞き、衝撃を受ける。相前後する頃、同人の河田が2人の仲をとりもとうとして矢田家を訪ねたところ、矢田は安吾の人間と文学を尊敬していると河田に伝えたという。
 5月1日、『桜』創刊。創刊号から安吾と矢田、田村が長篇の連載を始める。同月10日、有楽町の朝日講堂で創刊記念の「文芸講演と舞踊・映画の夕」を開催。安吾はこのような式典は俗悪で文学者のやることではないと反対したが押し切られたもので、順番に演台に立たされる。安吾は緊張をほぐすため楽屋でウイスキーをラッパ飲みして、「ナチス党の敬礼のように、右手を高々とまっすぐに斜上方にさしだして、上手から舞台にあらわれた。なにか二言、三言しゃべったかと思うと、また同じように右手をさしだして、舞台の上手にひっこんだ」と田村の回想記にある。また、この日の講演会控室では『紀元』の最初の打ち合わせ会も行われ、安吾はその席で谷丹三と隠岐和一の2人を絶讃する。『桜』と重なったため安吾の寄稿は少なく、編集実務にもタッチしていないが、後々までメンバー集めのほかいろいろと相談に乗った。
 同月下旬、『青い馬』の同人だった大久保洋海(ひろみ)が始めた週刊紙『東京週報』へ矢田の原稿を載せるよう斡旋、矢田は同紙へ社会時評を連載したもよう。また、23日に矢田宅へロシア作家ザイツェフの本を送る。
 6月7日、矢田津世子、片山勝吉、加藤英倫らを誘って矢口の渡しでのピクニックを計画していたが、『桜』第2号の校正の遅れなどで当分延期となる。『桜』は以降の刊行が難しくなる。
 7月21日、矢田が左翼関係者にカンパした容疑で特高に連行され10日余り留置される。この事件以来矢田の健康がすぐれず、あまり会えなくなる。
 8月、長兄献吉が満洲へ視察旅行に赴く。
 8月15日、『紀元』創刊号が出来、同人一同が集まる。同月19日、若園清太郎訳のデボルド『悲劇役者』出版記念会に旧『青い馬』同人や中原中也らと参加。同月24日、矢田宅へ見舞いに行き、ドストエフスキー研究会の計画を伝える。
 9月1日、『紀元』創刊。同月6日、矢田、若園、菱山修三、鵜殿新一らを神楽坂の喫茶店、紅屋に集めてドストエフスキー研究会を開く。同月17日頃から末頃まで新潟に滞在。22日から3日間、新潟新聞本社3階ホールにて親戚の画家村山政司らの展覧会を手伝う。松之山の村山真雄のもとで宿帳に「秋縹渺たる村家に来り酔ふ 酔ひ痴れてわめくに遠し村の家 安吾」と墨書したのはこの時のことと思われる。
 10月、『桜』版元の中西書房が手を引いたため第3号が発行できなくなる。同人たちから非難を浴びた大島敬司が同人脱退、井上友一郎が編集長となる。田村泰次郎が新たに北原武夫や石川利光らを仲間に入れ、同人費運営の形で事態打開を図る。井上の回想によると、第3号はすでに組み上がっていて、井上、田村、坂口、真杉、北原の5人で新橋駅近くの印刷屋へ支払い猶予の交渉に出かけたという。安吾は嫌気がさして早々に帰ってしまい、結局交渉は決裂する。その時、北原はこっそり一束の『桜』第3号をオーバーの下に隠し持って出てきたというが、ここに連載中の「麓」第3回が掲載されていたかどうかは不明。翌年1月に近藤書店から復刊された『桜』通巻第3号には掲載されていない。この交渉からまもなく、同人を脱退する旨、井上友一郎に言い送る。矢田、菱山、真杉も脱退する。
 同月15日、ドストエフスキー研究会第2回を開くが、若園1人しか集まらず、以降中止となる。同じ頃、豊山中学時代の親友で、家の生活費を使い込み失踪していた山口修三から何年ぶりかで許しを乞う手紙が来る。悪いことが重なり、しだいに鬱病の症状がぶりかえすようになる。
 同月、中篇「浅間雪子」が完成し『文學界』に送る。この『文學界』は、小林秀雄、川端康成、宇野浩二、武田麟太郎、林房雄らの編集で文化公論社より同月創刊されたもの。「浅間雪子」のタイトルは戯曲版「麓」のヒロイン名と同じである。この作品は『文學界』の翌年2月号に発表予定で組み置きとなったまま掲載されずに終わる。同誌はその号で一時廃刊となっている(4カ月後に文圃堂書店から1巻1号として復活)。そうした諸事情が影響したものと考えられ、未掲載の原稿の内容とその存否は現在も不明である。
 同月30日、若園に誘われてテアトル・コメディへ観劇に行き、若園とフランス15世紀の戯曲を共訳する約束を交わす。
 11月半ば頃、猿飛佐助のファルス小説を書きかけてやめる。
 12月2日、嘉村礒多の葬儀に参列。その場で牧野信一と久しぶりに会い、共に飲む機会がふえる。
 同月初め頃、長島萃から錯乱した内容の手紙が何通か届く。「おまへ、街のガス燈なんだよ、ヌッとつったってて。眼は蒼いんだ。かなしさうで、綺麗で、たよりなくて」といった文面で、長島はまるで投函証明ででもあるかのように葛巻にも文面を書き写して送った。下旬には長島が脳炎で危篤状態になり、死去までの1週間を付き添う。その間のある日、長島は安吾1人を病室に残し、安吾が生きていては死にきれないから、死んだらきっと安吾を呼ぶと言い残す。

◆発表作品等

 1月、「傲慢な眼」(『都新聞』8、9日)
 2月、「小さな部屋」(『文藝春秋』)
 4月、「山麓」(『東洋大学新聞』30日)
 5月、「新らしき性格感情」(『桜』)
    座談会「文学の新精神を語る」(同)
    「麓」(同、7月まで連載、未完)
    「新らしき文学」(『時事新報』4~6日)
 7月、「宿命のCANDIDE」(『桜』)
    「山の貴婦人」(『帝国大学新聞』10日)
 11月、「一人一評」(『新人』)
    「ドストエフスキーとバルザック」(『行動』)

◆書簡

 1/23~12/22 矢田津世子宛(31通)
 10/08 井上友一郎より来信

◆世相・文化

 1月9日、伊豆大島の三原山で実践女子専門学校の生徒が友人立ち会いのもとに火口へ投身自殺。翌月にも同校生徒が投身自殺し、立ち会ったのが2件とも同じ同級生と判明、新聞で大きく採り上げられる。以後、三原山は自殺の名所となり、この年だけで129人が火口へ身を投げた。安吾は2年後の1935年と51年に大島を訪ねており、「安吾巷談」の1篇「湯の町エレジー」では「光栄ある先鞭をつけた何人だかの女学生は、三原山自殺の始祖として、ほとんど神様に祭りあげられていた」と、皮肉な笑い話としてこの事件に触れている。
 1月30日、ドイツでヒットラーが首相就任。11月にはナチス党の一党独裁体制になる。
 2月21日、小林多喜二が築地署の特高課で拷問され獄死。プロレタリア文学の弾圧が激化する。
 2月24日、国際連盟総会で満州国を承認しない決議が採択され、日本代表団は議場を退場、翌月27日に国際連盟を正式に脱退する。
 3月4日、アメリカでフランクリン・ルーズベルトが大統領に就任、世界恐慌克服をめざしてニューディール政策を打ち出す。
 3月18日、尾崎士郎が「人生劇場 青春篇」を7月まで『都新聞』に連載。35年に初版本刊、36年に内田吐夢監督により映画化。
 4月16日、共産党員が大量に検挙される。
 同月28日、海軍に続き陸軍でも少年航空兵制度が始まる。
 5月3日、ドイツの建築家プルーノ・タウトが来日、翌日、桂離宮へ案内される。36年まで日本に滞在して、何冊もの日本文化論を著す。⇒1936年
 同月、京大で滝川事件。法学部の滝川幸辰教授の講演が司法官の「赤化」を促すとして問題になり、鳩山一郎文相が滝川の罷免を要求。法学部側は全教官の辞表をもって文部省に抗議したが、大学当局の支持も得られず、京大総長と滝川ら20数名が辞職する。
 6月5日、関東大震災で倒壊した聖路加国際病院が再建される。安吾が1942年に「日本文化私観」で「堂々たる大建築」だが「たあいもない物」と評した建物である。
 6月7日、共産党指導者で、安吾の長兄献吉が大学時代に教えを受けた佐野学および鍋山貞親が獄中で転向を表明。共産党は両名を除名処分とする。
 6月、谷崎潤一郎「春琴抄」発表。
 9月、宇野千代が「色ざんげ」を翌年2月まで連載。
 9月21日、宮沢賢治が37歳で死去。
 10月、川端康成、横光利一、宇野浩二、小林秀雄、河上徹太郎、林房雄、武田麟太郎らが文化公論社から『文學界』を創刊。
 11月1日、改造社から『文芸』創刊。編集長は上林暁。
 12月、谷崎潤一郎が「陰翳礼讃」を翌年1月まで連載。

1934(昭和9)年
28歳

長島の死から放浪の旅へ

 1月1日、長島萃が昏睡状態のまま死去。旧『青い馬』同人たちに告別式の案内状を書き送る。2日に葬儀があり、少しして長島の蔵書の形見分けの手配も自ら率先して行う。7日、長島家で形見分けが行われ、抽選で1人5冊ぐらいずつもらう。若園清太郎がもらったフロイトの精神分析書の裏表紙余白に、鉛筆書きで「安吾はエニグムではない」「安吾は死を怖れてゐる。然し彼は、知識は結ひ目を解くのでなしに、結ひ目をつくるものだと自覚してゐるから」「苦悩は食慾ではないのだよ。安吾よ」などと落書きされており、若園からこの本を進呈される。後年、これを謎のまま「暗い青春」に書き写している。
 2月3日、『桜』同人の中で最も近しく感じていた河田誠一が肺結核のため実家の香川県仁尾町中津賀にて夭折。6日に遺族から知らせを受け、9日、早稲田大学の同窓でもあった田村泰次郎が同人代表で香川へ赴く。
 3月10日頃、矢田津世子が蒲田を訪れるが安吾不在で会えずに終わる。
 3月から4月にかけて5回ほど南の方へ旅に出る。吉原のバーの快活な女給と意気投合して8日間、2人で沼津から伊豆長岡あたりまで温泉宿を回って旅したことが「二十七歳」に書かれている。
 4月終わり頃、矢田から登山倶楽部へ勧誘の手紙が届くが、鬱病傾向に加えて、仕事をし過ぎると脳貧血で倒れるようなこともあり「どうしやうかと、実はまだ考へ中です」と書いて送る。以後、翌年の夏まで、年賀状以外の矢田との文通が途絶える。この頃から、蒲田の工場街でボヘミアンというバーをやっていたお安と半同棲生活に入る。ボヘミアンから程近い安アパートを借りたが、訪ねた菱山修三の回想によると、その部屋は四畳半1間で机もなく、重ねた原稿用紙と万年筆が畳の上にじかに置いてあったという。
 初夏の頃、小田原に戻っていた牧野信一宅に暫く滞在し、昆虫採集の供をする。同じ頃、蒲田の安アパートでジンマシン状の皮膚病に悩まされ、お安とともに大森区堤方町555(現在の大田区中央)の十二天アパートに移る。ここでは卓袱台が一つ置かれたが、やはり執筆は捗らなかった。
 7月末、皮膚病がまだ治りきらず、友人たちに松之山温泉へ湯治に行くと言って旅に出るが、結局松之山へは赴かず、8月いっぱいは富山県魚津の旧友の「貧乏寺」に滞在する。
 9月には旧友の紹介で「黒部山中の酒造家」のもとへ赴き、さらに奥秩父へ向かう。雲取山から甲武信岳へ、梓川伝いに下って小海線の海の口に出て、八ヶ岳の蓼科山まで縦走する。
 夏から秋にかけての時期、娼家で淋病をうつされる。その頃、江古田の結核療養所で会計の仕事をしていた丸茂正治のもとを訪れ、井伏鱒二から伝授されたという「秘伝の治療法」を実践。まず白檀油を少量飲み、水を1升くらい飲んでから自転車を1時間ほど乗り回す。これを1週間続けると大量の小便が出て治るというもの。丸茂に療養所の自転車を借りて練馬、沼袋から新井薬師、哲学堂を巡って帰る、これで本当に治ったらしい。
 12月頃、銀座出雲橋のはせ川で井伏鱒二の紹介により檀一雄と出逢う。井伏伝授の淋菌退治法の効果を檀にも得意げに語ったという。

◆発表作品等

 2月、「長島の死」(『紀元』)
 3月、「谷丹三の静かな小説」(『三田文学』)
    「神童でなかつたラムボオの詩」(『椎の木』)
 4月、「愉しい夢の中にて」(『桜』)
    「文章その他」(『鷭』)
 5月、「姦淫に寄す」(『行動』)
 6月、「訣れも愉し」(『若草』)
    「遠大なる心構」(『文學界』)
 7月、「夏と人形」(『レツェンゾ』)
 9月、「麓〔戯曲〕」(『新潮』)
    「無題」(『紀元』)
 10月、「意慾的創作文章の形式と方法」(『日本現代文章講座 方法篇』)

◆書簡

 1/01 矢田津世子宛
 1月上旬 若園清太郎宛
 2/10未明 矢田津世子宛
 3/10 矢田津世子宛
 3/26 宇野浩二より来信
 4/28 矢田津世子宛
 6月頃 牧野信一宛

◆世相・文化

 1月、河上徹太郎と阿部六郎の共訳によりシェストフ『悲劇の哲学』刊行。河上はこの後もシェストフ作品を翻訳、論評し、知識人の間に流行する。
 3月、満州国皇帝に溥儀が就任。
 6月、萩原朔太郎が詩集『氷島』を刊行。
 6月、2月から休刊していた小林秀雄らの『文學界』が文圃堂書店より復活。
 8月、岡本綺堂「半七捕物帖」連載開始(翌年12月まで)。
 9月、亀井勝一郎『転形期の文学』刊行。
 10月25日、文圃堂書店から『宮沢賢治全集』全3巻の刊行開始。草野心平の熱意に成るもので、装幀は高村光太郎が無償で引き受ける。
 11月2日、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらを擁する米大リーグ選抜チームが来日、各地で日本チームと対戦して16戦全勝する。20日、静岡では日本のエース沢村栄治がルースを三振にとるなど好投。この16戦のうちのどれかを安吾も観戦しており、のちに「日本文化私観」にベーブ・ルースらの威容を記している。
 12月1日、南満州鉄道株式会社が大連-新京(現在の長春)間で特急の運転を開始。
 12月、中原中也が詩集『山羊の歌』を刊行。『宮沢賢治全集』ような本を、と文圃堂書店に頼み込み、同じく高村光太郎が装幀した。牧野信一「鬼涙村」発表。
 12月26日、沢村栄治、スタルヒン、水原茂らをメンバーとして、日本初のプロ野球チーム大日本東京野球倶楽部(翌年、東京巨人軍と改称)結成。ライバルの大阪タイガースは翌年12月に結成。翌々年には7チームにふえる。

1935(昭和10)年
29歳

尾崎士郎との出逢い

 春頃、新潟中学で同級生だった大江勲が竹村書房の編集者になっていた関係で、竹村から処女作品集の出版が決まる。同時に、企画顧問のような仕事を引き受け、手始めに『スタンダアル選集』を企画、4月25日に東京帝国大学仏文科講師で研究室助手を務めていた中島健蔵のもとへ大江と2人で相談に行く。その夜、中島と深更まで飲み、やっと小説が書けるようになったと話す。
 5月2日、中島の研究室にて大岡昇平、小林正、大江勲と会し、『スタンダアル選集』の打ち合わせをする。ここで大よそ中身が定まり、竹村書房社主の竹村坦も交えて飲む。大岡は京都在住の生島遼一を誘うため出張費を竹村に請求したが、その額が少なかったため不満であったらしい。結局、大岡の担当分のみ翻訳が成らなかった理由もここに端を発したものか。『スタンダアル選集』全7巻の巻立てと発行日は以下のとおり。1巻「ラミエル」中島健蔵訳(1936.1.27)、2巻「エゴティスムの回想」小林正訳(1936.4)、3&4巻「リュシアン・ルウヴェン」上・下 大岡昇平・渡邊明正訳(未刊)、5巻「日記」前川堅市訳&「書簡」河盛好蔵訳(1936.7.5)、6巻「匣と亡霊」「媚薬」「一伊太利貴族の思ひ出」桑原武夫訳&「パリアノ公爵夫人」「フランス人の恋」「ヴァニナ・ヴァニニ」生島遼一訳(1936.7)、7巻「ナポレオン」佐藤正彰訳(1937.3.25)。
 同月、『作品』に発表した文芸時評「枯淡の風格を排す」で徳田秋声の文章などを小学生並みと批判、これに激昂する秋声門下の尾崎士郎が竹村書房を介して「決闘」を申し込んでくる。東京帝国大学の御殿山で待ち合わせ、上野から浅草、吉原の馬肉屋へと夜明かしで飲みあるき、翌日はさらに大森山王の尾崎家で飲んで、大森の十二天アパートに帰ってから血を吐いたという。士郎とは以後、終生の友となる。
 6月25日、初めての単行本『黒谷村』が竹村書房から刊行され、疎遠になっていた矢田津世子からも祝いの手紙が届く。
 7月10日、若園清太郎の胸膜炎療養を目的として群馬県吾妻郡の新鹿沢温泉へ一足先に赴く。若園の到着を待つ間、山一つ越えた長野県小県郡(現在の東御市(とうみし))の高原にある奈良原鉱泉へも探索に行く。数日後、若園と入れ代わりに一旦東京へ戻る。15日、新宿・白十字で『黒谷村』出版記念会が催される。20人余り出席。司会は中島健蔵で、宇野浩二が乾杯の音頭、尾崎士郎、井伏鱒二、河上徹太郎、武田麟太郎らがスピーチを行う。数日後、新鹿沢温泉に戻り、26日に若園と2人で奈良原鉱泉へ移る。若園は8月下旬に帰京するが、安吾はここに9月上旬まで滞在し、長篇「狼園」の執筆に集中、第1回分を書き上げて『文學界』へ送る。
 9月に帰京してまもなく、お安とともに埼玉県の浦和駅近くのアパートに移り住む。「いづこへ」によれば、お安の別れた夫が「住所を突きとめ刃物をふりまはして躍りこむから」とお安にせかされたためだが、実はお安の妹(おそらく富子、作中では従妹アキ)と安吾が関係をもったことが裏の理由ではなかったかと作中で推測している。この頃、友人らへの手紙に渋谷区猿楽町五二の山沢種樹方と住所を記しているのは、山沢宅が『紀元』の発行所でもあったため連絡に便利と考えてのことであろう。お安の妹はまもなく自分の夫に追い出されて浦和まで頼って来てしまう。その頃書かれた短篇「をみな」には、そうしたドタバタ騒ぎの「現在」が描かれ、生々しい怒りを発散させた小説になっている。
 11月末、巣鴨保養院に再び入院していた沢部辰雄を訪ねる。上京していた松之山の義兄村山真雄ら8人と伊豆大島から下田、天城、江の浦を旅行する。この旅行前後にお安との同棲をやめ、蒲田の実家に戻る。

◆発表作品等

 1月、「淫者山へ乗りこむ」(『作品』)
 2月、「天才になりそこなつた男の話」(『東洋大学新聞』12日)
 3月、「悲願に就て」(『作品』)
    「清太は百年語るべし」(『紀元』)
 4月、「蒼茫夢」(『作品』)
 5月、「枯淡の風格を排す」(『作品』)
    「想片」(同)
 6月、短篇集『黒谷村』竹村書房刊
 7月、「金談にからまる詩的要素の神秘性に就て」(『作品』)
    「日本人に就て」(同)
 8月、「逃げたい心」(『文藝春秋』)
    「分裂的な感想」(『文芸通信』)
    「作者の言分」(『時事新報』7日)
 9月、「文章の一形式」(『作品』)
    「嬉しかつたこと 楽しかつたこと 口惜しかつた事 癪に触つたこと」(『文芸通信』)
 10月、「西東」(『若草』)
 11月、「桜枝町その他」(『文芸通信』)
 12月、「をみな」(『作品』)

◆書簡

 1/01 矢田津世子宛
 5月頃 尾崎士郎宛
 7/09 矢田津世子宛
 7/24 矢田津世子宛
 7/26 竹村坦宛
 7/26 隠岐和一
 08/05 矢田津世子宛(若園清太郎と連名で)
 10/04 小林秀雄より来信
 12/23 尾崎士郎宛

◆世相・文化

 1月、夢野久作『ドグラ・マグラ』刊行。小林秀雄が「ドストエフスキイの生活」を37年3月まで連載。
 2月19日、美濃部達吉がかつて発表した天皇機関説が貴族院本会議にて問題化、同院議員の美濃部本人が25日に釈明演説を行うが、軍部や右翼の圧力により政府は美濃部の説を異端と断定、著書は発禁となり、美濃部は議員を辞職する。
 同月、高見順が「故旧忘れ得べき」を翌年3月まで連載。
 3月、亀井勝一郎、保田與重郎らが『日本浪曼派』創刊。第3号からは太宰治、檀一雄、山岸外史、木山捷平、伊東静雄ら多数の同人を迎える。
 同月、坪田譲治が「お化けの世界」を発表。
 4月、横光利一が「純粋小説論」を発表。自分を見る自分としての第四人称を設定することによって、純文学と大衆小説を融合・止揚できると説き、純粋小説論争が起こる。安吾も9月発表の「文章の一形式」において、第四人称を設定しなくても同様の効果が得られる日本語の特異な性質に言及した。
 5月、詩誌『歴程』創刊。同人は草野心平、中原中也、高橋新吉、菱山修三らで、宮沢賢治も物故同人として遺稿詩が掲載された。
 同月、太宰治が「道化の華」を、石川淳が「佳人」を発表。
 8月、吉川英治が「宮本武蔵」を新聞連載(39年7月まで)。安吾は1942年の「青春論」で武蔵の兵法と生き方について論じている。
 8月10日、第1回芥川賞に石川達三「蒼氓」が決定。選考委員は菊池寛、久米正雄、佐藤春夫、川端康成、横光利一らで、太宰の「逆光」「道化の華」は候補どまり。直木賞は川口松太郎「鶴八鶴次郎」他。
 10月、伊東静雄が詩集『わがひとに与ふる哀歌』刊行。太宰治が「ダス・ゲマイネ」発表。
 10月10日、砂子屋(まなごや)書房創業。社主は山崎剛平。のちに文人囲碁会のメンバーとなる(⇒1939年へ)。太宰治『晩年』や尾崎一雄『暢気眼鏡』など、無名の新進作家たちの「第一作品集」を多く刊行した。安吾は長篇『古都』を砂子屋書房から刊行する約束だったが、完成しなかった。⇒1942年

1936(昭和11)年30歳

矢田津世子との訣別

 1月、矢田津世子をモデルとするヒロインが陰惨に描かれた連載小説「狼園」の第1回が『文學界』に発表される。奥付の発行日は1月1日だが、実際の発行は数日さかのぼるものと考えられる。発表後、ずっと会わずにいた矢田津世子から手紙が届く。手紙の現物は残っていないが、『黒谷村』の感想などが書かれてあったようで、8日、「お送りした本、あれは然し無意味なのです。過去に書き棄てた全てのものは、僕は微塵も愛が持てません」と返信する。おそらくその直後、矢田の突然の訪問を受ける。この再会時のようすは、エッセイ「青春論」や長篇「吹雪物語」、自伝的小説「三十歳」などで繰り返し描かれることになる。お互いが初めて恋心をもっていたことを告白、矢田はどうしてあの頃それを言ってくれなかったかと詰問したという。急速にかつての激情を取り戻し、それから1カ月ほど頻繁に会うが、互いに苦しめ合うような会話が続いたようである。「狼園」はこの時点で第3回まで入稿されていたはずだが、以後未完に終わる。
 この年の初め頃、『早稲田文学』の編集に携わっていた尾崎一雄から執筆依頼があり、4月までに「雨宮紅庵」を書き上げる。
 3月1日、本郷区菊坂町82(現在の文京区本郷)の菊富士ホテル屋根裏の塔の部屋に移り住む。ここには翌年1月まで滞在することになる。引っ越してすぐに矢田へ案内の手紙を出す。3月5日頃、菊富士ホテルを訪ねて来た矢田と、まるで反応のない口づけを交わして別れる。近藤富枝『花蔭の人』に転記された矢田の3月5日付のメモには、次のように書かれていたという。
 「私が彼を愛してゐるのは、実際にあるがままの彼を愛してゐるのではなくして、私が勝手に想像し、つくりあげてゐる彼を愛してゐるのです。だが、私は実物の彼に会ふと、何らの感興もわかず、何等の愛情もそそられぬ。/そして、私は実体の彼からのがれたい余り彼のあらばかりをさがし出した。しかしそのあらを、私の心は創造してゐたのである」
 その後、矢田から「映像が実体を拒否する」という言葉の書かれた絶縁の手紙を受け取り、3月16日、もう一度会って話したいと返信を送る。以後はおそらく会っていない。
 3月24日夕、牧野信一が小田原で縊死。25日の通夜に赴き、谷丹三と深酒。26日の葬儀では谷丹三らと受付をつとめる。葬式のあと、『紀元』同人たちと娼家に赴く。これがもとで再び淋病を患い、治療のため原稿料が早く欲しい旨、尾崎一雄に書き送っている。
 4月1日、「をみな」が『純文学』に再掲される。
 6月16日、矢田へ宛てて「僕の存在を、今僕の書いてゐる仕事の中にだけ見て下さい。僕の肉体は貴方の前ではもう殺さうと思つてゐます。昔の仕事も全て抹殺」と、実質上最後の手紙を書き送る。以降、「吹雪物語」の原形となる長篇に集中、その一部として「母を殺した少年」を書き上げる。
 夏頃、お安が菊富士ホテルに近い神保町に店を移し、くされ縁が復活する。自伝的小説「死の影」によると、「女の店の酒を平然と飲み倒した。あまたの友人をつれこんで、乱酔した」というような手ひどい扱いで、菊富士ホテルにはお安を一歩も近づけず、ときどき安吾のほうが店へ泊まったと書いている。
 同じ頃、竹村書房の企画顧問としては、『スタンダアル選集』に続いて『フランス知性文学全集』もしくは『フランス心理小説叢書』の企画を立てたが、これは実現せずに終わる。やはり同じ夏頃から尾崎士郎と同人誌『大浪曼』を作ろうと計画、9月頃には坪田譲治、榊山潤らより安吾のもとへ原稿が送られてくるほど具体化していたが、他の原稿がなかなか集まらず、この計画も実現せずに終わる。この年は他に、北原武夫が当時文芸記者をつとめていた『都新聞』に匿名批評をしばしば書いたらしい。
 11月28日、書きかけの長篇を一から書き直しはじめる。菊富士ホテルにはたくさんの酒友が訪れたので、そこを逃れて鵜殿新一の家で書いたりしたこともあり、ハイスピードで快調に書き進む。

◆発表作品等

 1月、「狼園」(『文學界』3月まで連載、未完)
 3月、「禅僧」(『作品』)
    「不可解な失恋に就て」(『若草』)
   「流浪の追憶」(『都新聞』17~19日)
 5月、「雨宮紅庵」(『早稲田文学』)
    「牧野さんの祭典によせて」(同)
   「牧野さんの死」(『作品』)
    「現実主義者」(『文芸通信』)
   座談会「新しいモラルを・文学者の生活を・文芸ジャーナリズムを・いかにすべきか?」(『都新聞』17日~6月1日)
 7月、短篇集『黒谷村』〔普及版〕竹村書房刊
 9月、「母を殺した少年」(『作品』)
    「文芸時評」(『都新聞』27日~10月2日)
 10月、「老嫗面」(『文芸通信』)
 11月、「スタンダアルの文体」(『文芸汎論』)
    「一家言を排す」(『新潟新聞』20日)
    「フロオベエル雑感」(『早稲田大学新聞』25日)
    「幽霊と文学」(『新潟新聞』27日)
 12月、「日本精神」(『新潟新聞』4日)
    「新潟の酒」(『新潟新聞』11日)
    「お喋り競争」(『時事新報』16~18日)
    「手紙雑談」(『中外商業新報』24~26日)

◆書簡

 1/01 矢田津世子宛
 1/08 矢田津世子宛
 3/01 矢田津世子宛
 3/16 矢田津世子宛
 4/13 尾崎一雄宛
 6/16夜 矢田津世子宛
 7/20 竹村坦宛
 9月頃 尾崎士郎宛
 9/30 隠岐和一

◆世相・文化

 2月、北条民雄が「いのちの初夜」を発表。
 2月26日、青年将校たちのクーデター、二・二六事件勃発。高橋是清蔵相らが殺害される。翌27日から東京市に戒厳令がしかれる。
 3月9日、広田弘毅内閣が発足。
 3月、牧野信一自殺。矢田津世子が「神楽坂」を発表、好評を得て芥川賞候補となる。
 3月17日、メーデーが禁止となる(終戦まで)。
 5月18日、阿部定事件。定が愛人男性を絞殺して局部を持ち去った事件で、センセーショナルに報道される。被虐性愛の末の行為として情状酌量され、判決は懲役6年。安吾は事件を同情的に見ており、戦後、定と対談したり、身のふり方について助言したりした。
 6月、砂子屋書房から太宰治が第1作品集『晩年』を刊行。
 8月、ベルリンオリンピック。平泳ぎの前畑秀子ら日本は金6個、計18個のメダルをとり、「前畑ガンバレ!」の絶叫ラジオ中継が語りぐさになる。アメリカのオーエンスは、100メートル、200メートル、走り幅跳び、400メートルリレーで4個の金メダルを獲得。⇒1940年
 9月から11月まで、坪田譲治が「風の中の子供」を新聞連載。
 10月、保田與重郎が「日本の橋」を発表。
 10月15日、ブルーノ・タウト『日本文化私観』の翻訳本刊行。桂離宮や玉堂、竹田、大雅、鉄斎らの日本画を高く評価し、日光東照宮や秀吉の茶室などを俗悪とした。西欧文化の模倣についても手厳しい批評を下している。偶然にも同日、タウトは日本を離れ、38年にトルコで死去。安吾の「日本文化私観」は本書への全面的な反論であるが、その本文中「玉泉」とあるのは「玉堂」の間違いであろう。タウトは浦上玉堂のことをゴッホに比肩する天才画家と讃えている。⇒1942年
 11月25日、日独防共協定調印。

1937(昭和12)年
31歳 

京都での両極端な生活

 1月、隠岐和一が胃病の療養で京都の実家におり、長篇に没頭したいなら嵯峨の別宅に泊めてくれると言うので、京都へ行くことに決める。30日、尾崎士郎と飲み、士郎宅に泊まる。31日、『早稲田文学』編集の尾崎一雄に宛てて、今は長篇以外の原稿は書けないとお詫びのハガキを出す。夕刻、尾崎士郎夫妻と竹村書房の大江勲に両国の猪料理の店「ももんじ屋」で送別会を催され、そのあと大江とお安とに駅で見送られて夜行列車に乗り込む。
 2月1日、隠岐の世話で嵯峨の別宅2階に仮寓する。隠岐の実家は京都市中京区両替町の老舗帯地問屋で、嵯峨の家は隠岐の妹幸子の病気療養のために借りたもの。1日の夜、隠岐から最大限の歓待を受ける。祇園花見小路の茶屋から舞妓を伴って東山ダンスホールまで行ったようすが「日本文化私観」に書かれている。3日、車折(くるまざき)神社で節分の神火(とんど)の祭りを見、火明かりで願掛け石に書かれた文字を一つ一つ読む。
嵯峨では、昼はもっぱら小説を書き、夜には車折神社裏の嵐山劇場へ旅芸人の芝居を見に行ったり、隠岐と飲みに行ったりする。隠岐に誘われて、丹波亀岡にあった大本教本部の爆破された跡を見物に出かけたこともある。隠岐の末妹で女学校通いの弘子が世話役で金庫番もつとめてくれたが、田村泰次郎が京都まで遊びに来た夜には、初任給50円の時代に1晩で100円飲んでしまったこともあったという。
 2月末頃、伏見区稲荷鳥居前町22の中尾という計理士の事務所2階を間借り。隠岐の叔父が見つけてくれたもので、窓から火薬庫が見える2階の部屋だった。この転居を機に隠岐は東京へ戻る。
 3月3日、「吹雪物語」第4章まで書き上がる。第5章は矢田津世子をモデルとする古川澄江が登場するクライマックスだが、執筆途中の22日に原稿用紙が切れて「身を切られるごとくつらし」と、隠岐に手配を頼むハガキを出す。
 4月、尾崎一雄、小田嶽夫、伊藤整、上林暁らを同人として前年6月に創刊された『文学生活』の同人に加わるが、同誌は6月号をもって廃刊となる。
 4月7日、「吹雪物語」第5章を書き終わる。9日、金策に困って隠岐に無心のハガキを出す。その頃から、立命館大学の山本という先生、東大仏文科を卒業したばかりでJO撮影所の脚本部員になっていた三宅勇蔵らと飲みに行ったりするようになる。27日には山本と、偶然出会った旧『青い馬』同人の多間寺龍夫と3人で泥酔、多間寺を隠岐の実家へ無心に行かせる。月末には尾崎士郎も遊びに訪れたもよう。
 5月25日、「吹雪物語」第6章まで、600枚以上が書き上がる。総枚数の7分の6にあたる。ハイペースの執筆はここまでで、以降停頓する。5月末頃から背中に腫れ物ができて高熱にうなされ、同時に計理士の都合で部屋を引き払わねばならなくなる。隠岐や葛巻義敏に送金の無心をし、多間寺に引っ越し先を探してもらう。
 6月9日頃、伏見区深草町一之坪36の上田食堂2階に転居。京阪稲荷駅前の露路にあり、家賃も食費も安くて生活が楽になる。この食堂に集まる人々と連日碁を打ったり酒を飲んだりする。「吹雪物語」には手をつける気が起こらず、古典文学に関心が湧いて各種の説話のほか、のちに「閑山」のタネとなる「甲子夜話」や北条団水「一夜舟」、「燕石雑志」「諸国里人談」「利根川図志」「北越雪譜」など各地の伝説や奇談、怪談などを録した江戸時代の随筆まで読みあさる。また、三宅勇蔵に誘われて数多くの映画を見、新京極の京都ムーランというレビューや、森川信一座がアトラクションをやっていた活動小屋、ニュース映画館などへ通いつめる。
 秋には食堂2階の広間に碁会所を開かせ、碁の「先生」と呼ばれるようになる。同じ頃、女学校4年生で「不良少女」だったとされる食堂の娘が家出を繰り返し、頼まれて三宅とともに市中の喫茶店を探しまわる。
 10月いっぱいは病臥。
 11月10日に「吹雪物語」第7章がようやく書き上がり、後日譚にあたる第8章の約10枚を除いて第1稿が完成、推敲に入る。
 12月下旬、食堂の娘が本格的に家出、娘の母親と三宅と3人で、娘の友人宅を訪ねてまわる。結局、別のルートから発見され連れ戻された娘は、恋人と一緒にいたことを安吾にだけ白状したという。

◆発表作品等

 1月、「北と南」(『新潟新聞』14日)
 2月、「気候と郷愁」(『女性の光』)

◆書簡

 1/10 矢田津世子宛 103
 1/31 尾崎一雄宛 173
 2/26 尾崎士郎宛 112
 3/04~12/25 隠岐和一宛(13通)

◆世相・文化

 1月、山本有三が「路傍の石」を6月まで新聞連載。
 2月2日、林銑十郎内閣発足。
 2月9日、石川淳「普賢」が芥川賞に決定。
 3月、志賀直哉『暗夜行路』前・後篇刊行。
 4月、横光利一が「旅愁」の新聞連載をはじめる。戦争で中断するが戦後も書き続け、未完に終わる。
 同月、永井荷風が「墨東綺譚」を6月まで新聞連載。
 6月、川端康成『雪国』刊行。
 6月4日、第1次近衞文麿内閣が成立。
 7月7日、蘆溝橋事件により日中戦争が始まる。
 7月31日、東京日日新聞社と大阪毎日新聞社が共同で軍歌「進軍の歌」の歌詞を懸賞募集する。北原白秋、菊池寛らが選考委員。わずか1週間で22,000通を越える応募があり、8月12日、『青い馬』同人で大蔵省会計課に勤務していた本多信が1等当選。9月に陸軍戸山学校軍楽隊の作曲・演奏でコロムビアからレコード発売され、60万枚を超えるヒットになった。もっとも、人気が高かったのは「勝ってくるぞと勇ましく」で始まるB面「露営の歌」のほうで、2等当選した藪内喜一郎の作詞、古関裕而の作曲であった。安吾は晩年「世に出るまで」の中で、本多信のことを「愛馬行進曲」を作った詩人、と書いているが、「愛馬行進曲」を作詞したのは別人で、この「進軍の歌」と混同したものであろう。10月21日には、これを主題歌とした映画「進軍の歌」も公開された。
 8月、国民精神総動員運動の開始が決まる。
 8月12日、尾崎一雄『暢気眼鏡』が芥川賞に決定。
 10月1日、政府が小冊子『我々は何をなすべきか』1300万部を全国各戸に配布、朝鮮人には『皇国臣民の誓詞』を配布し、戦意高揚を促す。
 10月22日、中原中也が結核性脳膜炎により30歳で死去。
 10月、島木健作が長篇『生活の探求』を書き下ろし刊行、ベストセラーとなる。
 11月6日、日独伊防供協定調印。
 12月13日、日本軍が南京を占領、日本中が歓喜に湧いたが、南京では2カ月にわたって虐殺行為が繰り返されたといわれる。

1938(昭和13)年
32歳

『吹雪物語』に賭けた自信と失意

 1月、三宅勇蔵が入営したことにより、京都で一番の飲み友達がいなくなる。
 2月末、菱山修三がフラリと訪ねて来て、前年10月刊行の第2詩集『荒地』を贈られる。
 6月半ば頃、「吹雪物語」の推敲を終えて帰京、竹村書房に原稿を渡し、菊富士ホテルに戻る。
 6月29日、松之山の姪で可愛がっていた村山喜久が、弱冠20歳で自宅庭の沼に入水自殺を遂げる。
 7月20日、『吹雪物語』を竹村書房から刊行。「知性の混乱を通過した最初の正統芸術小説書下し長篇」と銘打った帯の宣伝文は自ら書いたものである。今までにない新しい小説との自負があり、「賞のひとつぐらゐも、必ず貰へるべき筈のものだと信じてゐるのです」と竹村書房の竹村坦に書き送っている。しかし批評はほとんどなく、検閲で伏字だらけにされたせいもあって売れ行きも悪く、失意の日々が始まる。
 8月頃には新宿の高野フルーツパーラーで、菱山修三の司会のもとに出版記念会が行われる。葛巻義敏、上林暁、尾崎一雄、宇野千代、中村地平、真杉静枝、丸茂正治らが出席。
 この頃、若園清太郎から岡田東魚を紹介される。岡田は講談社で『講談倶楽部』の編集をしていた十幾つ年上の文学愛好家で、安吾とは段違いに碁が強かった。岡田に連れられて、本格的な囲碁仲間のつどう本郷3丁目の碁会所「富岡」に出入りするようになる。そこで別格に強い東大囲碁部主将の頼尊清隆らと知り合い、岡田と共によく連れだって飲みに行く。岡田の住まいは板橋にあったが、安吾を敬愛して菊富士ホテルに仕事部屋を借りて住み、安吾の生活の補助までしていたらしい。この頃、隠岐和一が1度めの応召、京都市深草歩兵第九連隊へ配属されることになり、「武運長久」を祈って日章旗に寄せ書きをする。集まったのは安吾、菱山、若園、江口、山沢ら『青い馬』以来のメンバーのほか、尾崎一雄、草野心平、田村泰次郎らの名前もある。
 8月10日、再びどこかの田舎にこもって「生命を賭けた仕事」に没頭したいので金を貸してほしいと竹村書房に頼む。また、この頃から、『文体』の編集に携わっていた北原武夫の奨めで、古典に取材した短篇を構想しはじめる。『文体』はこの年11月に宇野千代のスタイル社から創刊される文芸誌で、編集主幹は三好達治。北原も宇野も三好も安吾作品を高く評価しており、全7冊発行された『文体』の5冊に作品が載る。
 9月、20日頃に満州へ行く計画を立てるが、1カ月後の10月半ばに中止と決める。
 秋頃から、赤坂溜池にあった日本棋院で催される文人囲碁会に顔を出すようになる。ここでは、旧知の小林秀雄、三好達治、尾崎一雄のほかに、主宰の野上彰、豊島与志雄、川端康成、村松梢風、倉田百三、三木清、徳川夢声らと相知る。
 11月末頃、京都を舞台にした長篇を書きはじめた旨、京都の深草第9連隊に入営中の隠岐和一に書き送る。3年後に発表される「古都」とその続篇「孤独閑談」は、長篇を意図して書かれた連作で京都言葉がふんだんに使われている。両作の原形となる「囲碁修業」「探偵の巻」がこの年に発表されているので、早くから長篇「古都」の計画が頭にあったと考えられる。
 この頃、竹村書房で版を重ねていた尾崎士郎の『人生劇場』第何版かが、検印もなく印税未払いで販売されたことが士郎にわかり、訴訟になりかける。この事件の仲介役を引き受け、竹村から謝礼として高級なスネーク・ウッドのステッキをもらう。もっとも、その場で公式な文書を交わさなかったため、翌日士郎から速達が来て話は逆戻りしてしまったらしい。この一件以降、終戦まで士郎とは疎遠になる。

◆発表作品等

 1月、「女占師の前にて」(『文學界』)
 3月、「南風譜」(『若草』)
 6月、「本郷の並木道」(『帝国大学新聞』20日)
    「囲碁修業」(『都新聞』21~23日)
 7月、書き下ろし長篇『吹雪物語』竹村書房刊
 11月、「『花』の確立」(『読売新聞』15日)
    「探偵の巻」(『都新聞』24~26日)
 12月、「閑山」(『文体』)
    「序」(真杉静枝『小魚の心』に書き下ろし)

◆書簡

 1/24~6/12 隠岐和一宛(6通)
 8/10 竹村坦宛
 9/12 隠岐和一宛
 10/14 隠岐冨美子宛
 11/29 隠岐和一宛
 12/19 竹村坦宛
 12/19 隠岐冨美子宛

◆世相・文化

 1月、石川淳が「マルスの歌」を発表するが、発禁処分を受ける。中川与一が「天の夕顔」を発表。
 2月7日、火野葦平「糞尿譚」が芥川賞に決定。
 2月、小林秀雄が「志賀直哉論」を発表。
 4月1日、国家総動員法が公布される。4日には灯火管制規則も公布。
 4月、堀辰雄『風立ちぬ』刊行。中原中也が生前にまとめていた詩集『在りし日の歌』が創元社より刊行される。
 6月、三木清が「人生論ノート」を連載(41年11月まで)。
 8月、火野葦平が「麦と兵隊」を発表。
 9月、ペン部隊として多くの作家が戦地へ従軍するようになる。
 11月、岡本かの子が「老妓抄」を発表。
 12月、草野心平が詩集『蛙』刊行。

1939(昭和14)年
33歳

取手でトンパチを飲む日々

 1月、蒲田の家にいた長兄献吉が新潟新聞社取締役に就任し、新潟へ戻る。
 2月5日、文人囲碁会では、野上彰頼尊清隆岡田東魚、大江勲、鵜殿新一若園清太郎、伊田和一(田岡敬一)、豊島与志雄らと本郷チームを結成、尾崎一雄や榊山潤、砂子屋書房社主山崎剛平らを中心とする上野砂子屋チームと対戦して圧勝、大いに自慢とする。
 3月、長篇執筆のため、竹村書房の竹村坦の薦めで茨城県取手町に転居することを決める。菊富士ホテルを退去する時、階下に住んでいた岡田東魚に「吹雪物語」の直筆原稿を預ける。上梓されたら家賃を入れる約束だったので持ち出せないというのだった。結局、岡田は預かった原稿を包んで安吾とともに菊富士ホテルを出てしまうが、安吾没後、郷里の函館図書館に寄贈したため今日に残っている。
 3月28日、千代田区内幸町大阪ビル内のレストラン「レインボウ・グリル」にて開催された井上友一郎『波の上』(砂子屋書房刊)出版記念会に出席。他に徳田秋声、広津和郎、宇野浩二、尾崎一雄、高見順、伊藤整、丹羽文雄、石川達三、田村泰次郎、円地文子、坪田譲治ら数十名が参会した。
 4月頃、戯作「殺人とは何歟」を書きはじめたが、構想の複雑さに書きあぐね頓挫。
 5月16日、竹村坦と茨城県取手町に着き、伊勢甚旅館に1泊後、休業中の取手病院の離れに住むことになる。もとは賄いのじいやが住んだ小屋である。それからまもなく、野上彰、頼尊清隆、岡田東魚が訪れ、若園清太郎、関義らを加えて『野麦』もしくは『青麦』という同人誌を作る計画に誘う。安吾は道鏡をモデルにした作品を執筆すると言い、そのプロットなどを話すが、資金もなく同人誌が実現する当てはなかった。
 初夏の一日、若園が妻と幼い長女をつれて遊びに訪れ、その1月ほど後には中村地平と真杉静枝の内縁夫婦が訪ねて来る。予定していた長篇はほとんど捗らず、鬱状態が続く。取手に住んだ8カ月間にはファルス短篇を1つ書いたほかは、エッセイや『都新聞』に匿名批評を書いただけで、居酒屋で「トンパチ」と呼ばれるコップ酒を飲む日々が続く。月に2回ほど東京に出て、若園ら友人たちの家を訪ね、映画を見たり碁を打ったりする。
 8月1日昼頃、洪水のあと増水した川で少年が遊んでいて溺れたと人々が騒いでいるのところに出くわし、褌一丁になって3回ばかり川へ飛び込み、少年の水死体を引き上げる。この時、少年の祖父も少年を助けようとして共に溺死していたが、さらに潜って捜す元気はなかった。この一件以来、町では英雄視されるようになる。ただ、川に飛び込む時に、竹村からもらった自慢のスネーク・ウッドのステッキをなくしてしまう。
 10月半ばに取手を訪れた谷丹三は、机の上に危うい心理状態のメモ書きが置かれているのを見たという。
 11月4日と5日、モクゾウガニを食べる蟹祭りで町の人たちと飲む。5日の昼は竹村坦の来訪を受けて職業野球観戦に行く。
 12月下旬、岡田東魚が精神異状を来たしたと若園から連絡を受け、アテネ・フランセで3人で会う。斎藤茂吉の青山脳病院への入院をすすめるが、岡田はそれだけは勘弁してほしいと哀願する。年末、行方不明になった岡田を探しまわる。
 この年から1941年までの間に、戦後の「花妖」の原型となる「(残酷な遊戯)」41枚を執筆するが、未完未発表に終わる(この原稿は2020年に古書店で発見され、浅子逸男氏が購入、2021年に春陽堂書店から刊行されたのが初公開となった)。

◆発表作品等

 1月、「かげろふ談義」(『文体』)
    「想ひ出の町々―京都」(『スタイル』)
 2月、「紫大納言」(『文体』)
 3月、「木々の精、谷の精」(『文芸』)
    「長篇小説時評」(『徳島毎日新聞』25~31日)
 4月、「茶番に寄せて」(『文体』)
 5月、「勉強記」(『文体』)
    「市井閑談」(『都新聞』6~8日)
 8月、「日本の山と文学」(『信濃毎日新聞』16~19日)
 10月、「醍醐の里」(『若草』)
 11月、「総理大臣が貰つた手紙の話」(『文学者』)

◆書簡

 1/30 尾崎一雄宛
 2/23 隠岐和一
 5/17 竹村坦宛
 5/17 尾崎一雄宛
 5月頃  野上彰宛
 10/27 竹村坦宛
 11/06 谷丹三宛
 11/30 谷丹三宛

◆世相・文化

 1月、高見順が「如何なる星の下に」を翌年3月まで連載。折口信夫が「死者の書」を3月まで連載。
 1月15日、横綱双葉山の連勝記録が69でストップする。
 2月、井伏鱒二が「多甚古村」を発表。太宰治が「富嶽百景」を翌月まで連載。
 3月、詩誌『荒地』創刊。
 4月、岡本かの子の遺作「生々流転」が12月まで連載される。
 5月、ノモンハン事件。日本とソ連との国境紛争で、9月の停戦協定まで武力衝突が続く。
 7月、三好達治が詩集『艸千里』刊行。武者小路実篤が「愛と死」を発表。
 9月1日、ドイツがポーランドに侵攻。3日にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まる。

1940(昭和15)年
34歳

小田原でキリシタンにはまる

 1月初め、岡田東魚が板橋の家を売って、神奈川県鎌倉郡(現在の藤沢市)片瀬に移り住んだことがわかり、若園清太郎と片瀬を訪問、1泊して岡田を元気づける。数日後、若園が岡田を懇意の精神病院へ入院させるが、岡田は早々に退院して片瀬に舞い戻り、4月に郷里の函館へ引っ越してしまう。岡田とはそれっきり会うことはなかった。
 1月3日、中村地平・真杉静枝夫妻宅を訪れ、中央公論社に勤める故長島萃の妹に会ったと夫妻から聞き、短篇「篠笹の陰の顔」を構想する。この日、木山捷平、坪田譲治、小田嶽夫も中村宅を訪れ、6人で夜中まで将棋をさす(木山捷平『酔いざめ日記』、本多俊介氏調査)。
 1月中旬、小田原に住む三好達治に誘われるまま着の身着のまま三好家を訪れる。しかし狭い家に同居は難しいため、数日後、早川橋際亀山別荘を借りて転居。ここでは毎朝5時頃に起きて半日ほど熱心に執筆する日課を崩さなかったと三好が回想している。食事は毎日三好家でとり、三好とはよく碁を打つ。まもなく三好からキリシタンに関する本を薦められ、その面白さに憑かれて何冊も読む。これが初めての歴史小説「イノチガケ」へと結実していく。三好の紹介で知り合った歴史に造詣深い伊沢幸平と親しくなり、資料探索の手伝いなど頼むようになる。夜はもっぱら、牧野信一の幼友達でガランドー工芸社という看板屋の主、山内直孝と飲み歩く。
 4月、囲碁仲間の頼尊清隆が都新聞社に入社、この年から翌年にかけての頃、ヒロポンが二日酔いに効くと都新聞社内で評判だと頼尊から教わる。試したのは錠剤だが、戦中はあまり服用する機会もなかったという。
 6月1日の鮎釣り解禁日に合わせて、前夜から小林秀雄と島木健作が三好の家に泊まり、4人で鮎釣りを楽しむ。三好とは全面的に打ち解けた関係にはなれず、しだいに三好家に出入りすることが少なくなる。
 7月4日、妹千鶴が長野県北佐久郡春日村出身の竹花政茂に嫁す。
 秋頃からは蒲田の実家にいることの方が多くなり、11月25日から12月初めまで新潟へ帰省。
 12月31日夕、浅草の雷門で大井広介と会い意気投合、『現代文学』同人に加わる。同人は安吾と大井の他、平野謙、杉山英樹、赤木俊(荒正人)、佐々木基一南川潤、宮内寒弥、井上友一郎檀一雄、野口冨士男、北原武夫、菊岡久利、山室静、高木卓、豊田三郎の16人。同誌には終刊までの3年間、毎号のように作品を発表、座談会にも積極的に参加するなど深くかかわることになる。

◆発表作品等

 1月、「生命拾ひをした話」(『囲碁春秋』)
 4月、「篠笹の陰の顔」(『若草』)
 5月、「文字と速力と文学」(『文芸情報』)
 6月、「盗まれた手紙の話」(『文化評論』)
 7月、「イノチガケ」(『文學界』9月まで連載)
 10月、「新伊勢物語」(『若草』)
 11月、「負け碁の算術」(『囲碁クラブ』)
 12月、「風人録」(『現代文学』)

◆書簡

 1月中旬 若園清太郎宛
 1月中旬 尾崎一雄
 3/01 隠岐和一
 11/25 山内直孝宛

◆世相・文化

 1月、堀口大學がサルトル「壁」の翻訳を発表。
 1月16日、米内光政内閣が発足。
 2月、太宰治が「駈込み訴へ」を発表。岡本かの子の遺作長篇「女体開顕」発表。
 同月11日、皇紀2600年の紀元節大祭が全国の神社で執り行われる。同日、朝鮮人の氏名を日本式に変える創氏改名の法律が施行される。
 4月、織田作之助が「夫婦善哉」を発表。
 5月、會津會津八一が歌集『鹿鳴集』刊行。
 5月、太宰治が「走れメロス」を発表。
 5月、ドイツ軍がフランス侵攻、フランスは6月22日に降伏しドイツ占領下におかれる。
 6月、レニ・リーフェンシュタール監督のベルリンオリンピック記録映画『民族の祭典』が日本公開される。後年、ナチスのプロパガンダ映画として批判の対象にもなったが、斬新な映像表現による高い芸術性が評価された。安吾もこの映画を見たらしく、アメリカの陸上選手オーエンスの完璧な肉体美について「日本文化私観」に書いている。
 7月22日、近衛文麿が第2次内閣を組閣。
 8月、伊藤整が「得能五郎の生活と意見」を翌年4月まで連載。
 8月1日、国民精神総動員本部が「ぜいたくは敵だ!」の立て看板を東京市内各所に設置。
 9月、田中英光が「オリンポスの果実」を発表。
 9月23日、日本軍が北部仏印へ進駐開始。フランスが親ドイツ政権となったため可能となったもの。
 同月25日、阿部豊監督による国策映画「燃ゆる大空」が日本劇場にて公開される。円谷英二が特撮に加わり、実戦機を使用した空中戦の迫力が人気を呼んだ。安吾もこれを見て、2年後の夏、その芸術性の低さを嘆く文章を書いている。
 同月27日、日独伊三国同盟調印。
 10月12日、近衛文麿を総裁として大政翼賛会結成、事実上、一国一党体制となる。岸田国士が翼賛会文化部長となり日本文芸中央会が発足。
 12月、内閣に情報局が設置され、言論統制が強化される。

1941(昭和16)年
35歳

『現代文学』の悪童たち

 この年から3年ほど、月に10日は大井広介の家で過ごし、書庫にあった探偵小説や三国志演義など読みあさる。大井家に集まる『現代文学』同人の平野謙、杉山英樹、荒正人佐々木基一南川潤井上友一郎郡山千冬、長畑一正らと探偵小説の犯人当て、野球盤、イエス・ノー、ウスノロなどをして遊ぶ。ポーの未完長篇の解決篇を平野と合作しようと幾晩も意見を戦わせたこともあり、のちの推理長篇「不連続殺人事件」の構想もこの当時に芽ばえたようである。また、よく大井と連れだって浅草のお好み焼き屋、染太郎へ出かけるようになり、春頃から浅草の東京演芸の脚本家になった淀橋太郎や、かつて京都新京極の小さな活動小屋(映画館)のレビューで感銘を受けた芸人森川信らと出会う。
 この年、『現代文学』発行元でもある大観堂から書き下ろし長篇『島原の乱』刊行の約束を得て、5月3日頃から中旬まで、九州へ取材旅行に出る。長崎では図書館で「高来郡一揆之記」を書写、妖術使いといわれた金鍔次兵衛の潜んだ横穴などを見学する。7日に島原へ、9日には天草を探訪してまわる。
 7月22日、小田原が豪雨に見舞われ、早川の堤防が決壊、三好達治の家は鴨居まで浸水し、安吾の借家は流れ去る。
 8月、新聞社統合による新潟日日新聞社設立とともに長兄献吉が取締役副社長に就任。
 同月初め頃、三好達治と伊沢幸平から小田原水害の知らせを受けて、夜具と数十冊の本、特に三好に貸してあった父坂口五峰著『北越詩話』だけでも送り届けてほしい旨、三好に書き送る。夜具と『北越詩話』は高い所にしまってあったため幸い水難を免れていたが、三好は被災して大変な時に身勝手なことをと激怒して、誰か引き取り人をよこすようにと返信する。
 8月21日、小田原の荷物の引き取り役を山内直孝にハガキで頼む。尾崎一雄宛書簡によると、この直後ぐらいに小田原まで出かけているが、三好や山内のもとへは立ち寄っていないようである。短篇「真珠」によれば、10月にも11月にも「ドテラを取りに小田原へ行つた」が、冬前で必要に迫られていなかったため面倒になって「ドテラを忘れて戻つて来た」という。
 9月5日まで「島原の乱雑記」執筆、9日から長篇「島原の乱」第1稿にとりかかる。もっとも、主人公の1人と考えていた金鍔次兵衛が島原の乱直前に死んでいたことや、一揆側の資料が少なすぎることなどが響いて、執筆は捗らず。
秋、若園清太郎の『バルザックの歴史』および『バルザックの方法』2著が共に大観堂から刊行されることになり、隠岐和一、山内義雄、大観堂の北原義太郎と4人で出版記念会の世話役を引き受ける。会場手配から署名帳の準備、案内状の執筆まで率先して行う。
 11月3日、銀座のレストラン、エーワンにて若園の出版記念会を開催。石川淳、高見順、井上友一郎、山沢種樹ら20人ぐらい出席。この会で石川淳を知る。初めは反目する風であったが、2次会で石川が案内した新宿の武林夢想庵のバーで話すうちに石川と気心が通じる。
 12月7日、いよいよ寒くなってドテラを取りに小田原の山内直孝宅へ赴く。8日、開戦の報を小田原で聞く。午後、生魚をもとめて山内と相模湾沿いをバスで国府津、二宮へと向かい、その日のうちに空襲があるかもしれぬと覚悟しながら焼酎に酔う。

◆発表作品等

 4月、短篇集『炉辺夜話集』スタイル社出版部刊
    「後記」(『炉辺夜話集』に書き下ろし)
 5月、「死と鼻歌」(『現代文学』)
    「相撲の放送」(『都新聞』7日)
 6月、「作家論について」(『現代文学』)
    「島原一揆異聞」(『都新聞』5~7日)
 8月、「文学のふるさと」(『現代文学』)
 9月、「波子」(『現代文学』)
    「中村地平著「長耳国漂流記」」(同)
 10月、「島原の乱雑記」(『現代文学』)
 11月、「文学問答〔北原武夫との往復書翰〕」(『現代文学』)
    「ラムネ氏のこと」(『都新聞』20~22日)
 12月、「新作いろは加留多」(『現代文学』)
    座談会「昭和十六年の文学を語る」(同)
    「日本の詩人」(『都新聞』1日)

◆書簡

 4月下旬 坂口下枝宛
 5/09 尾崎一雄宛
 5月頃 若園清太郎宛
 8/21 山内直孝宛
 8/24 尾崎一雄宛
 9/03 山内直孝宛
 9/20頃 山内直孝宛

◆世相・文化

 1月8日、東条英機陸相が「戦陣訓」を全軍に示達。新聞などでも大きく報じられ、「生きて虜囚の辱めを受けず」という特攻精神を鼓舞する文言が有名になる。安吾も「堕落論」でこの言葉を引用、強く否定した。
 3月、堀辰雄が「菜穂子」を発表。
 4月1日、主要6都市で米の配給制実施。同日、小学校が「国民学校」と改称され、初等科6年、高等科2年の義務教育8年制となる。
 4月13日、日ソ中立条約調印。
 6月、徳田秋声が「縮図」を9月まで新聞連載。
 同月22日、ドイツ軍がソ連に侵攻開始。
 7月、織田作之助『青春の逆説』刊行。太宰治『新ハムレット』刊行。
 同月、『新潟新聞』が『新潟毎日新聞』と合併し『新潟日日新聞』と改題される。
 同月28日、日本軍が南部仏印にも進駐する。
 8月、高村光太郎が詩集『智恵子抄』刊行。三木清『人生論ノート』刊行。
 9月から翌年にかけて、ゾルゲ事件発覚。ソ連のスパイとしてゾルゲや尾崎秀美らが検挙される。ゾルゲと尾崎は1944年11月7日に死刑執行された。
 10月18日、東条英機内閣成立。
 11月26日、アメリカが日本にハル・ノートを提示。すべての占領地を満州事変前の状態に戻すことを要求するもので、日本はこれを最後通牒と受け取る。
 12月8日、真珠湾奇襲攻撃により、太平洋戦争開戦。この時、空中攻撃隊350機に加えて特殊潜航艇5隻による特別攻撃隊が海中を出撃。1隻は魚雷攻撃に成功したと打電があったが、結局生還できた艇はなく、10人のうち9人が死亡、1人は米軍の捕虜となった。⇒翌年
 同月10日、日本が米領グアムを占領。以後、翌年夏までに香港、マレーシア、インドネシア、フィリピン、タイ、ビルマ(ミャンマー)、ニューギニア、シンガポールなど、連合国側の植民地を次々と占領。
 同月11日、ドイツとイタリアもアメリカに宣戦布告。
 同月16日、広島県の呉ドックから世界最大の戦艦大和が就役。

1942(昭和17)年
36歳

緊密な作品群と「島原の乱」

 1月頃、エッセイの代表作「日本文化私観」を執筆。
 2月16日、母アサが死去。
 『現代文学』2月号および3月号に、大観堂「長篇歴史文学叢書」の広告が載り、坂口安吾『島原の乱(仮題)』上下2冊も予告される。「スタンダールを彷彿しメリメの香気高く、まさに歴史文学のジャンルを拡充するもの」という宣伝文は安吾自身の筆かと推測される。
 5月、「島原の乱」の一部とみられる「天草四郎」100枚ほどを完成、大井広介に見せたが不評のため発表せず、構想を練り直す。今に残るノート「島原の乱 第一稿」は、この「天草四郎」の原形かと思われる。
 6月、「孤独閑談」を『文芸』に発表予定だったが検閲を通りそうにないと断られ、砂子屋書房から刊行予定だった長篇『古都』は執筆中断を余儀なくされる。
 6月末頃から10月初め頃まで新潟に帰省。新潟へ出立前、麹町番町の若園清太郎宅を訪れ、戦時下で先の見通しがつかないアテネ・フランセの仕事などやめてジャーナリズム関係の会社に転職しないかと奨める。長兄献吉と十数年来の友人である電通の吉田秀雄(当時は常務)が社員を探していたため。新潟では、献吉の家で長篇「島原の乱」を書き継ぐかたわら、短篇やエッセイもいくつか書く。未発表原稿として〔田舎老人のトランク〕〔木暮村にて〕〔「燃ゆる大空」について〕〔平野謙について〕〔「島原の乱」断片〕のほか書簡の下書きもしくは書きさしも数点残っている。また、小説「宮本武蔵」の構想を立て、武蔵についても研究を進める。武蔵も島原の乱に参戦しているため、列伝スタイルで長篇にとりこもうとしていたのかもしれない。
 8月、献吉が新潟市学校裏町の家を同市二葉町1丁目5932番地に移す。移ったばかりの家に若園清太郎が5日ほど滞在、献吉に紹介し、町を案内したり毎日一緒に泳ぎに行ったりして遊ぶ。若園は帰京後、西銀座の電通で吉田秀雄に会うと、どういう関係からか台湾総督府の機関紙である『台湾日日新報』への就職を斡旋され、同時に電通外国部の仕事を手伝うように言われる。
 10月、「青春論」後半が武蔵論になったため小説「宮本武蔵」の構想を中止し、「島原の乱」執筆に立ち戻る。
 11月、1県1紙の新聞社統合による新潟日報社設立とともに献吉が専務取締役に就任。

◆発表作品等

 1月、「古都」(『現代文学』)
    「文章のカラダマ」(『都新聞』8日)
 2月、「たゞの文学」(『現代文学』)
 3月、「日本文化私観」(『現代文学』)
 4月、「外来語是非」(『都新聞』12日)
 5月、「文芸時評」(『都新聞』10~13日)
 6月、座談会「一問一答 丹羽文雄は何を考へてゐるか」(『現代文学』)
    「真珠」(『文芸』)
 7月、「甘口辛口」(『現代文学』)
    座談会「歴史文学を中心に」(同)
 8月、「大井広介といふ男」(『現代文学』)
 9月、「居酒屋の聖人」(『日本学芸新聞』1日)
    「今日の感想」(『都新聞』30日)
 11月、「剣術の極意を語る」(『現代文学』)
    「青春論」(『文學界』12月まで連載)
 12月、「文学と国民生活」(『現代文学』)

◆書簡

 6/23 尾崎一雄
 7/23 尾崎一雄宛
 7/25 尾崎一雄宛
 11/17 伊沢幸平
 12/27 尾崎一雄宛
 12/28 伊沢幸平宛

◆世相・文化

 2月、中島敦が「山月記」「文字禍」を発表。
 3月6日、真珠湾攻撃の折に特殊潜行艇による特別攻撃隊に「志願」して逝った「9人」がいたと初めて大本営発表される。捕虜になった酒巻和男の存在は隠され、集合写真からも削られて「九軍神」と讃える内容。安吾はこれをもとにして「真珠」を執筆する。酒巻和男は戦後帰国して、1949年6月および7月に手記「捕虜第一号」を発表。安吾も即座にこれを読んだが、その内容については不満が多く、同年「スポーツ・文学・政治」において、こう語っている。「ボクらの読みたい『戦争物』は冒険物語なんだ。しかるにあれはやはり俘虜記だ。文学はあんなもんじゃない。基地から死地へ向って行く、その間の緊迫した事件が文学の主題であるべきだ。後からの感想の部分なんて、てんでだめだ」
 4月、小林秀雄が「当麻」を発表、以降『無常といふ事』にまとめられる連作を断続的に発表する。
 同月18日、米軍機B25が東京、名古屋、神戸などで、初の本土空襲。
 5月、中島敦が「光と風と夢」を発表。
 5月26日、情報局の指導を受けて、日本文学報国会が設立される。会長は徳富蘇峰、事務局長は久米正雄が務め、安吾を含めて事実上ほとんどの文学者が会員とされる。
 6月、ミッドウェー海戦で大敗北、日本は主力空母全6隻中4隻と多数の戦闘機、熟練パイロットたちを失う。
 7月、岩田豊雄(獅子文六)が「海軍」を12月まで新聞連載。
 8月、川端康成が「名人」を発表。
 9月14日、『改造』掲載の論文が共産主義的であるとして細川嘉六が検挙される。これが横浜事件に発展、終戦までに改造社、中央公論社、日本評論社、岩波書店、朝日新聞社などの編集者や細川と関わりのあった組織の社員など60人余が検挙され、拷問により4人が死亡した。⇒1944年
 11月、第一次大東亜文学者会議が開催される。
 11月、前年に合併した『新潟日日新聞』がさらに『上越新聞』『新潟県中央新聞』と合併し『新潟日報』と改題される。
 同月27日、大政翼賛会と朝日新聞・東京日日新聞・読売新聞の3紙による「国民決意の標語」公募の結果、「欲しがりません勝つまでは」などの標語が入選し話題になる。後年の安吾作品「負ケラレマセン勝ツマデハ」は勿論これのパロディである。

1943(昭和18)年
37歳

『真珠』『日本文化私観』刊行

 2月中旬、アサの一周忌で新潟に帰省、20日に帰京。新潟中学時代の旧友三堀謙二宅を訪ねてくつろぐ写真はこの時の撮影と思われる。
 6月末頃から10月初め頃まで新潟に帰省、「島原の乱」の執筆を続ける。その間の7月8日、檀一雄が少年航空兵の取材で新潟を訪れ、禁酒の大詔奉戴日であったが酒を酌み交わし、9日、2人で越後川口の姉古田島アキの家に赴く。この夏も毎日海へ泳ぎに行く。
 9月、大井広介が徴用逃れのため、いとこの麻生太賀吉が経営する麻生鉱業の東京支社に勤める。井上友一郎は大井に頼んで11月から福岡県飯塚の麻生鉱業山内坑の労務係として単身赴任する。
 10月、作品集『真珠』を大観堂から刊行。一部の表現が軍国精神に合わないとされ再版を禁じられる。この頃、島原の乱をとりこんだ「猿飛佐助」の小説を構想、「島原の乱 第一稿」ノートの裏から執筆を始めるが冒頭のみで中断。「島原の乱」も中断して、「黒田如水」の執筆にかかる。
 12月20日、献吉が『新聞総覧・昭和十八年版』に論文「戦ふ新聞の再出発」を寄稿。
 12月31日、浅草の染太郎で淀橋太郎らと飲み明かす。

◆エピソード

 『文芸』12月号の本年度推賞作家アンケートに答えた『現代文学』同人のうち、大井広介、平野謙が中島敦と石川淳を挙げ、安吾と佐々木基一もまた中島敦であった。談合と誤解されるのではないかと大井たちが危惧していたところへ安吾が現れ、「弱ることはないやね。われわれが、一斉に推賞する結果になったのは、立派な仕事だったからです。立派な仕事を大いに賞める、これは立派なことではありませんか」と堂々と言ってのけたという。

◆発表作品等

 1月、「五月の詩」(『現代文学』)
 3月、「講談先生」(『現代文学』)
 5月、「伝統の無産者」(『知性』)
 7月、「巻頭随筆」(『現代文学』)
 9月、「二十一」(『現代文学』)
 10月、「諦らめアネゴ」(『現代文学』)
     短篇集『真珠』大観堂刊
 12月、「本年度の新人について、従軍記・報道文について、本年最も感銘を受けた文学作品(葉書回答)」(『文芸』)
    エッセイ集『日本文化私観』文体社刊

◆書簡

 3/10 山内直孝
 3/12 大井広介宛

◆世相・文化

 1月、谷崎潤一郎が「細雪」を3月まで連載するが、検閲により差し止めとなる(戦後、1948年に完成)。
 同月13日、ジャズなどの米英音楽1000曲の演奏やレコード売買が禁止される。
 2月、中島敦が「弟子」を発表。
 同月1日、ガダルカナル島からの撤退開始。雑誌名に英語の使用が禁止される。
 同月23日、「撃ちてし止まむ」の標語ポスター5万枚が配布される。
 4月、武田泰淳『司馬遷』刊行。亀井勝一郎『大和古寺風物誌』刊行。
 同月18日、連合艦隊指令長官山本五十六が戦死。
 5月1日、木炭と薪の配給制が始まる。
 同月29日、アッツ島の日本軍が玉砕。安吾は翌年、日本映画社でアッツ島の幽霊が出る映画の脚本を書いたという。
 7月、草野心平が詩集『富士山』刊行。中島敦が「李陵」を発表。
 7月、日本文学報国会編『辻詩集』刊行、「伝統の無産者」が収録された。
 7月1日、東京府が東京都になる。
 8月、大東亜文学者決戦会議開催。
 9月、太宰治『右大臣実朝』刊行。
 9月8日、イタリアが無条件降伏。
 10月21日、学徒出陣壮行会が神宮外苑で行われる。
 11月1日、兵役服務年限が5年延長、45歳までに。

1944(昭和19)年
38歳

徴用逃れで日本映画社へ

 1月1日、浅草の染太郎から淀橋太郎に国際劇場へ案内され、少女歌劇を見たあと、酔いにまかせて楽屋で演説する。
 1月、戦時下の雑誌の統廃合により『現代文学』も終刊となる。同誌最終号に発表した「黒田如水」に始まる中篇「二流の人」をその後も書き継ぐ(終戦までには完成していたもよう)。また、戦争中は平家物語や玉葉など史書を多く読んだという。
 1月頃、松之山の甥村山政光が早稲田大学工学部への入学準備のため上京、献吉からの言づてにより、甥を市島謙吉(春城)邸へ連れて行く。市島は父仁一郎の親友で、早稲田大学創立者の1人であるが、この年4月の死期を間近にして病臥していたという。
 年初の頃、大井広介南川潤檀一雄、半田義之と共に、大井の紹介で既に井上友一郎が勤務していた福岡の麻生鉱業を慰問、坑内を見学する。その後、平野謙も麻生鉱業に就職して福岡へ行き、荒正人が麻生鉱業系列のセメント会社、檀はやはり大井の紹介で大政翼賛会に勤める。安吾が徴用逃れのため日本映画社の嘱託となったのも、おそらくこの頃である。銀座の日本映画社へは当初1週間に1度ぐらい通い、試写室でニュース映画と文化映画などを見たあと専務と15分ぐらい話をするのが仕事であった。出勤日以外は毎日碁会所へ行く。後には1カ月に1度の通勤となるが、通勤した時にはいつも、北海道新聞東京支社に移っていた若園清太郎を訪れて、不足がちになっていたタバコをせびったという。
 3月14日、矢田津世子病死の報を受ける。
 5月以降、おおやけには国民酒場でしか酒が飲めなくなり、銀座へ出た時は電通裏にできたウイスキーの国民酒場へ行く。ここの世話役の1人が若園に恩がある関係でウイスキー券を2枚もらえたので、長い行列に並ぶ必要はなく、若園や毎日のように来て並んでいた石川淳と歓談する。
 6月下旬、日本映画社で文化映画「大東亜鉄道」の脚本を頼まれ、相前後して芸術映画「アッツ島」の脚本も書いたというが、どちらも映画化はされず。
夏頃、同居していた四兄上枝の家族が、長野県小諸の東京計器会社へ工場疎開し、蒲田の家に1人住まいとなる。毎日、水風呂に入る日課を12月初めまで続ける。
 時期ははっきりしないが、この頃から終戦までの1年間に、2人の女性と恋愛感情の伴わない肉体関係をもったと「二十七歳」や「魔の退屈」などに書いている。1人は貞操観念の全く欠けた戦争未亡人で、もう1人は娼婦あがりの不感症の女だったという。
 9月、献吉が新潟日報社社長に就任。
 12月頃、文化映画「黄河」の脚本を頼まれ、黄河に関する書物を探しまわり研究しはじめる。立教大学内の亜細亜研究所で文献の紹介を受け、創元社の編集部に勤めていた伊沢幸平からは鳥山喜一の『黄河の水』などを奨められて読む。

◆発表作品等

 1月、「黒田如水」(『現代文学』)
    鼎談「文学鼎談」(同)
 2月、「鉄砲」(『文芸』)
    「歴史と現実」(『東京新聞』8日)
 11月、「芸道地に堕つ」(『東京新聞』1日)

◆書簡

 2月上旬 若園清太郎宛
 10/03 尾崎一雄より
 10/05 尾崎一雄宛
 12月末頃 河原義夫宛

◆世相・文化

 1月29日、横浜事件で『改造』『中央公論』などの編集者が検挙される。
 同月、太宰治が「新釈諸国噺」を発表。
 3月、料飲店の閉鎖令が出される。
 5月5日、都内104箇所に国民酒場が設けられる。平日午後6時から1人約1合まで、しかも合計200人分ぐらいしか飲めなかったため、毎日行列ができた。
 6月15日、米軍機B29が九州を空襲。以後、11月まで九州地区が集中して攻撃される。
 7月7日、サイパン島の日本軍が玉砕。
 同月10日、1942年に始まる横浜事件により、改造社と中央公論社に廃業命令。
 同月18日、東条内閣総辞職。
 8月3日、テニアンの日本軍が玉砕。10日にはグアム島も玉砕。
 10月、神風特攻隊、人間爆弾「桜花」、人間魚雷「回天」などが編成され、順次出撃。
 同月24日、レイテ沖海戦で、日本軍は戦艦武蔵など主戦力を失う。
 11月、太宰治『津軽』刊行。
 同月1日、タバコが1日6本ずつの隣組配給制になる。
 同月19日、世界最大の空母信濃が就役するが、直後の29日に米軍の攻撃により沈没。
 同月24日、B29が東京を空襲。以後、東京、名古屋、大阪をはじめ全国各地で無差別爆撃が打ち続く。
 12月、吉川英治が「太閤記」を翌年8月まで新聞連載。

1945(昭和20)年
39歳

空襲下の東京で

 1月初旬、大阪全国書房の『新文学』の依頼に応じて、火薬庫に関するエッセイ(おそらく「青い絨毯」)を送るが、発禁の怖れから掲載を断られる。
 前年末から引き続き、毎日のように神田、本郷、早稲田その他の古書店を回って黄河に関する文献を渉猟。春頃までに、會津八一に早稲田の甘泉園へ招かれ、中国語の黄河文献を紹介されるが、これは語学が必要なので諦める。會津は父仁一郎や長兄献吉と親交があったが、このとき招かれたのは伊沢幸平の仲介によるものかと安吾は推測している。
 3月16日、若園清太郎に召集令状が来たことを知らされ、入隊2日前の20日、銀座の国民酒場で隠岐和一夫人の冨美子が勤務する兵庫県の農事指導所へ家族を疎開させてはどうかと提案する。安吾自身も召集令状を受け取ったがすっぽかしたという伝説があるが、これは近藤日出造との対談での放言で、事実とは考えられない。自伝などでは、点呼礼状もしくは徴用出頭命令というのが来て、仕方なく出かけて行ったと書いている。
 3月22日、献吉が全国の地方新聞社代表とともに東京に招集され、中央紙3社と地方紙との出向協力体制を命じられる。新潟日報社は毎日新聞社と提携することになる。
 4月から蒲田周辺への空襲も激化、自宅庭に防空壕をつくる。初めはコンクリートの池を改造して防空壕としたが、その後、ドラム缶をもらって蛸壺壕を自作する。献吉から新潟疎開を促されるが、「東京が敵の襲撃で亡びるなら、自分は東京と運命をともにして亡びるだろう」と返事を送る。
 4月初旬、長野県小諸の東京計器会社で工場長をつとめていた四兄上枝の工場に、若園清太郎の家族を寮母の名目で疎開させる。
 4月13日、献吉は東京大空襲で被災した會津八一のため毎日新聞社機を手配し、新潟の飛行場で出迎える。その後は新潟市内でも空襲が打ち続くが、この頃から松之山の姪村山みわが高等女学校に通うため献吉宅に同居を始める。
 4月16日と5月23日の焼夷弾攻撃によって蒲田は焼野原になったが、近隣の人々と協力して消火活動に努め、自宅は焼け残る。爆撃のあとを見物して回ったり、友人たちの安否を気遣ってあちこち見舞いに行ったりする。
 6月頃、「黄河」の脚本を20枚ばかりの走り書きで提出、やはり映画化されず。
 8月15日、終戦。戦後の坂口家には、焼け出された親戚筋の裁判官大野璋五が一家4人で同居する。
  9月29日、尾崎士郎が戦犯に挙げられそうな噂を案じて大森へ赴く。
 11月、献吉が新潟日報社で第1回新潟県美術展覧会(県展)を主催。終戦直後の9月に公募を始めたものである。県展は以後、今日まで続く。同月、献吉は戦犯追及の嵐を怖れて新潟日報社社長を辞任、常務となる(2カ月後にはヒラ取締役に)。
 11月、士郎と同人誌『風報』を作ろうと計画し、12月11日に創刊号掲載用原稿(内容は不明)を執筆。
 12月16日付『朝日新聞』の志賀直哉「特攻隊再教育」に憤りを感じ、下旬から翌年1月にかけて『風報』第2号用に「咢堂小論」を執筆。この年、ほかに「焼夷弾のふりしきる頃」を執筆したと推定されるが生前未発表である。
 12月30、31日、翌年1月2日の3日間、尾崎士郎の秘書の名目でGHQ戦犯事務所に同道し弁護する。

◆発表作品等

 8月、「予告殺人事件」(『東京新聞』12日)
 10月、「露の答」(『新時代』)
 この年、「土の中からの話」(初出誌未詳)

◆書簡

 3/22 河原義夫宛
 6月下旬 若園清太郎宛
 9/08 坂口献吉宛
 9/14 大井広介
 9/18 坂口献吉宛
 9/29 尾崎士郎宛
 9/30 坂口献吉宛
 10/03 尾崎士郎より来信
 10/20 尾崎士郎宛
 11/04 尾崎士郎宛
 12/11 尾崎士郎宛
 12/21早暁 尾崎士郎より来信
 12/23頃 尾崎一雄
 12/28 尾崎士郎宛
 12/31 尾崎一雄宛

◆世相・文化

 1月9日、米軍がルソン島に上陸、フィリピンのほぼ全土が制圧される。
 3月10日、東京大空襲。
 同月17日、硫黄島の日本軍が全滅。
 4月13日、再び東京大空襲があり、明治神宮など焼失。
 5月7日、ドイツが無条件降伏。
 5月31日、米軍が首里市を占領、沖縄戦の大勢が決する。
 7月26日、連合国首脳がポツダム宣言。日本はこれを黙殺する。
 8月6日、広島に原爆投下。8日、ソ連が日本に宣戦布告。9日、長崎に原爆投下。
 8月15日、日本が無条件降伏し、終戦。
 8月17日、敗戦後処理のための内閣として、東久邇宮稔彦王を首相に最初で最後の皇族内閣が誕生。
 8月30日、連合国軍最高司令官マッカーサーが日本に到着。以後、1951年4月までGHQを統轄する。
 9月11日、GHQが戦争犯罪人を逮捕するよう命令、順次何千人にも及ぶ逮捕者が出る。東条英機はピストル自殺を図るが未遂に終わる。
 10月、太宰治が「お伽草紙」を発表し、「パンドラの匣」を12月まで新聞連載する。
 同月9日、東久邇宮内閣がわずか54日で総辞職。幣原喜重郎内閣が発足。
 12月16日、戦犯容疑の近衛文麿が服毒自殺。
 同月17日、日本で最初のBC級戦犯裁判が横浜で開廷。
 同月29日、第一次農地改革案が公布される。

1946(昭和21)年
40歳

「堕落論」「白痴」で流行作家に

 1月、長篇「島原の乱」序章にあたる「わが血を追う人々」を発表するが、以後書き継がれず。
 1月24日、戦犯糾弾の声が日増しに高まる風潮を憂い、『風報』を「国内の迎合主義者、ニセ文化人」と戦う決意で出したいと尾崎士郎に宛てて書き送る。
 同月、長兄献吉が安吾の提言を入れて、新潟日報社から『月刊にひがた』創刊(翌年から『月刊にいがた』に表記変更)。
 2月、『中央公論』の海老原光義からの原稿依頼に応じ「外套と青空」を執筆、編集部へ送る。しかし永井荷風の作品と「情痴文学」が2つ並んでは困るという理由で、7月まで発表が延期される。この頃、尾崎士郎が戦犯に挙げられるのを防ぐための一策として、士郎の戦争色のない純文学作品を選んだ短篇集『秋風と母』の編集準備にとりかかり、士郎宛に著作年譜が見たい旨、書き送っている。同じ頃、尾崎士郎の紹介で訪れるようになった高橋旦青年から同人誌『東籬』の会での講演を頼まれ、1時間ほど天皇制反対論を演説。
 3月、尾崎士郎は水野成夫とともにユーモアもののシリーズ企画を発案、安吾の「低俗な世相と戦ふ決意」との間に齟齬が生じはじめる。
 4月発表の「堕落論」、6月の「白痴」によって、一躍流行作家となる。
 4月8日、浮浪者の救護に身を捧げて死んだ医大生の話に感動し、「青年に愬ふ」「特攻隊に捧ぐ」の中でその精神を讃える。「特攻隊に捧ぐ」は7月に『ホープ』へ渡す(⇒翌年2月へ)。
 5月頃、尾崎士郎と意見が合わず『風報』の計画から退く。「桜の森の満開の下」はこの頃書かれたもので、はじめ「白痴」に続く作品として『新潮』に手渡されたが、当時の編集長・斎藤十一は「これは小説ではない」として返却、その後、囲碁仲間だった作家・野上彰らの編集する暁社の『暁鐘』へ回ったものである。同誌11月号に掲載予定で既に組み置きとなっていたが(黄益九氏調査)、この号は発刊されず、同じ暁社発行の改題誌『肉体』創刊号に掲載されるまで7カ月かかる。「桜の森の満開の下」を収めた単行本『いづこへ』のほうが、雑誌初出よりも2週間余り先に刊行されたのはこうした事情による。
 同月、會津八一が献吉からの懇請を受けて、新創刊の『夕刊にいがた』社長を務める。この話が早くに知れたものか、『光』2月号のゴシップ欄に、會津が社長で安吾が編輯長の新聞ができるらしいと噂されていた。安吾は12月の『月刊にいがた』でこの噂を笑い飛ばしている。
 6月8日朝、NHK第一放送で「世相と諷刺」という題で話す。
 7月初め、「女体」に始まる長篇「恋を探して」の執筆を始める。日記体のエッセイ「戯作者文学論」に、この期間の執筆裏話を記す。7日、『雑談』の依頼で「インチキ文学ボクメツ雑談」を執筆するが掲載されず。15日、新日本社の入江元彦青年が銀座出版社『サロン』への原稿依頼に訪れる。その人物を気に入って執筆を承諾。以後、銀座出版社との関係が深くなる。27日には春陽堂『新小説』の編集者高木常雄青年が来訪、これも執筆承諾。高橋旦青年とともに、入江、高木もその後安吾の秘書役を兼ねて坂口家へ出入りするようになり、この秋までには高木も『サロン』編集部に移る。
 この頃、各社から短篇集やエッセイ集刊行の申し出があり、若園清太郎葛巻義敏らを煩わせて旧著を収集する。中央公論社から長篇に没頭するならその間の生活費を出すという約束を得るが、とりあえず書けるだけの短篇を書く決意を固める。夏頃から、殺到する注文をこなすためヒロポンを常用するようになり、眠るためにはアルコールを多量に摂る。
 10月、「戦争と一人の女」がGHQの検閲により大幅に削られた形で発表される。
 11月22日、太宰治、織田作之助、平野謙との座談会「現代小説を語る」が銀座の実業之日本社で行われる。この日付については従来、11月25日の鼎談と同日の開催とされてきたが、『評伝坂口安吾』では様々な傍証より11月21日頃と推定した。近年新たに見つかった安吾の1946年のメモ帳には、その11月の欄に「二十二日 座談会 実業日本」と記されており、より正確な日付がこれで確認できたことになる。これが無頼派3人の初顔合わせであった。座談会終了後、企画担当の倉崎嘉一を交えて5人でバー「ルパン」へ繰り出す。ルパンには青山光二、高木常雄、入江元彦も先に来ており、太宰が帰ったあと、『改造』の編集者で旧『青い馬』仲間の西田義郎が入って来る。安吾はルパンの支払いは全部自分がもつと言って、高木青年を神田の出版社へ集金に行かせる。その間に織田は西田と銀座裏の佐々木旅館に帰り、安吾は金の到着を待って最後にルパンを出、高木とともに泥酔して佐々木旅館へ押しかける。
 25日には太宰治、織田作之助との鼎談「歓楽極まりて哀情多し」が『改造』主催で行われるが、翌月4日に織田が喀血、絶対安静状態となったため校正できず、掲載見合わせとなる。1949年1月『読物春秋』に掲載された際、末尾にこの日の日付が明記された。この日も散会後はルパンへなだれこみ、この時、林忠彦が3人の有名な写真を撮影。その後は太宰と連れだって織田の宿泊する佐々木旅館へ立ち寄って飲みつづける。「太宰さんはたて続けにタバコを喫われ、織田はしきりとヒロポンを注射した」と織田昭子の回想にある。
 12月、江戸川乱歩主催の土曜会に出席、自身の探偵小説観を披瀝。以後、『宝石』掲載の予定で、戦争中から構想していた推理長篇「不連続殺人事件」の執筆を始める。

◆発表作品等

 1月、「わが血を追ふ人々」(『近代文学』)
 3月、「地方文化の確立について」(『月刊にひがた』)
    「朴水の婚礼」(『新女苑』)
    「処女作前後の思ひ出」(『早稲田文学』)
 4月、「堕落論」(『新潮』)
 6月、「白痴」(『新潮』)
    「天皇小論」(『文学時標』)
    「青年に愬ふ」(『東籬』)
 7月、「外套と青空」(『中央公論』)
    「文芸時評」(『東京新聞』3~5日)
 8月、「尾崎士郎氏へ(私信に代へて)」(尾崎士郎『秋風と母』に書き下ろし)
    「通俗作家 荷風」(『日本読書新聞』28日)
 9月、「女体」(『文藝春秋』)
    「欲望について」(『人間』)
    「蟹の泡」(『雑談』)
    「我鬼〔『二流の人』思索社版第2話の3〕」(『社会』)
 10月、「いづこへ」(『新小説』)
    「魔の退屈」(『太平』)
    「戦争と一人の女」(『新生』)
    「デカダン文学論」(『新潮』)
    「足のない男と首のない男」(『早稲田文学』)
    対談「淪落その他」(『婦人公論』)
    対談「文学対談」(『談論』)
    「風俗時評」(『時事新報』13日~12月15日)
    「ヒンセザレバドンス」(『プロメテ』)
 11月、「続戦争と一人の女〔戦争と一人の女〕」(『サロン』)
    「石の思ひ」(『光』)
    「復員」(『朝日新聞』大阪版&名古屋版、4日)
    「肉体自体が思考する」(『読売新聞』18日)
 12月、「堕落論〔続堕落論〕」(『文学季刊』)
    「エゴイズム小論」(『民主文化』)
    「読書民論(葉書回答)」(『東京新聞』15日)

◆書簡

 01/08夜 尾崎士郎宛
 01/18 尾崎士郎より来簡
 01/24夜 尾崎士郎宛
 01/29 尾崎士郎より来簡
 01月頃 尾崎一雄
 02/07早暁 尾崎士郎より来簡
 02/16 坂口献吉宛
 02月頃 尾崎士郎宛
 02/27 尾崎士郎より来簡
 03/06 尾崎士郎宛
 03/07 尾崎士郎より来簡
 03/12 尾崎士郎宛
 03/22 河盛好蔵宛
 04/05 尾崎士郎宛
 04/05 尾崎一雄宛
 04/22 海老原光義宛
 05月頃 尾崎士郎宛
 05/22 尾崎士郎宛
 05/29 尾崎士郎より来簡
 05月末頃 尾崎士郎宛
 06/08 尾崎士郎より来簡
 06/17 尾崎一雄宛
 07/06 尾崎士郎より来簡
 07/08頃 尾崎士郎宛
 07月上旬 若園清太郎宛
 07/12 尾崎一雄より来簡
 07/14 尾崎一雄宛
 07月中旬 若園清太郎宛
 07/20 尾崎士郎より来簡
 07/23 尾崎士郎宛
 07月頃 山内直孝より来簡
 08/24 尾崎士郎より来簡
 08/28 尾崎士郎宛
 08/29 尾崎士郎より来簡
 10/20 竹村坦宛
 10/21 尾崎士郎宛
 11/30 尾崎士郎宛

◆世相・文化

 1月1日、天皇が人間宣言を行う。これを利用したのが戦前から宗教活動を行っていた長岡良子(ながこ)で、天皇の身体を去った天照大神が自分に宿ったと宣言、「天璽照妙光良姫皇尊(璽光尊)」と名のって活動を先鋭化させる。双葉山や呉清源らが熱心な信者となり、安吾は新興宗教の1典型としてしばしば言及したほか、数多くの小説の題材にもなっている。
 1月4日、ポツダム宣言に基づき、GHQが軍国主義指導者の公職追放を司令。
 同月、『現代文学』同人だった荒正人佐々木基一、平野謙、本多秋五、山室静と、小田切秀雄、埴谷雄高の7人が『近代文学』を創刊。創刊号から埴谷雄高「死霊」の連載や平野謙「島崎藤村」などの評論が文壇の話題となる。小田切、荒、佐々木らは『文学時標』も創刊、両誌において文学者の戦争責任を厳しく追及した。このほか、『人間』『展望』など新雑誌の創刊が相次ぎ、『中央公論』『改造』などが復刊された。志賀直哉が「灰色の月」を、永井荷風が「勲章」「踊子」を発表。
 2月、小林秀雄『無常といふ事』刊行。
 同月1日、第1次農地改革。19日から天皇の全国巡幸が始まる。
 同月25日、新円発行。新たな百円札と十円札が発行され、旧円は3月2日までが交換期限で以後失効となる。
 3月1日、労働組合法施行。同月、石川淳が「黄金伝説」を発表。
 4月10日、戦後初の衆議院議員総選挙。初めて女性の参政権が認められ、女性議員が39人誕生する。同月、織田作之助が「世相」「競馬」を発表。野間宏が「暗い絵」を発表。
 5月3日、A級戦犯28人を裁く東京裁判が開廷(~1948年に結審)。
 同月22日、第1次吉田茂内閣発足。
 同月30日、禁制品取締のため東京上野の闇市に武装警官が出動する。
 6月、谷崎潤一郎『細雪』刊行。
 8月1日、闇市の全国一斉取締が行われる。闇市ではヒロポンなども多く出回った。
 同月20日、小平事件。女性連続絞殺犯の小平義雄が逮捕される。安吾は多数のエッセイで小平に言及しており、「精神病覚え書」では最も動物的な犯罪者と定義し、「現代の詐術」では「小平も樋口も我々の心に棲んでいる」と述べた。樋口は翌9月の事件の犯人。
 9月、梅崎春生が「桜島」を、田村泰次郎が「肉体の悪魔」を発表。
 同月17日、住友財閥の12歳の娘邦子が帰宅途中誘拐され、26日に犯人の樋口芳男が逮捕される。何人もの少女を誘拐しては献身的な愛情を注いだ樋口のことを、安吾は「風俗時評」「エゴイズム小論」などで好意的に批評した。
 10月、石川淳が「焼跡のイエス」を発表。花田清輝『復興期の精神』刊行。
 同月、宮沢賢治の遺稿「眼にて言ふ」が『群像』創刊号に掲載される。この遺稿は安吾の心に響き「教祖の文学」に全文引用されることになるが、ちょうどこの月頃に記された安吾のメモに「(無常といふこと)に就て/宮沢賢治遺稿より出発のこと/小林の態度は文学よりも宗教であること/格言に近づくことは文学に非ざるのこと」とある。
 11月3日、日本国憲法公布。同月16日、現代仮名遣いおよび当用漢字が決定。
 同月、桑原武夫が俳句を「第二芸術」と呼び、第二芸術論争が始まる。安吾もこれに応じて1948年に「第二芸術論について」を発表した。
 12月3日、NHKラジオでクイズ番組「話の泉」が始まる。初めの2回は徳川夢声が司会を務める。安吾はこの番組が好きだったようで、「戦後新人論」の中で「二十の扉」とともに「アプレゲールの新産物」と呼んでいる。特に解答者としての夢声について「彼の天分は堂を圧してしまう。アア夢声は天才ナリ、と思う」と絶讃した。
 12月21日、南海道大地震。被害は九州から東海地方まで及び、死者は1300人を超えた。

1947(昭和22)年
41歳

「花妖」の挫折と「不連続殺人事件」連載

 1月10日、織田作之助病死。通夜、葬儀には出席せず、1人で飲みながらその死を悼む。
 2月、『ホープ』掲載予定の「特攻隊に捧ぐ」がGHQの検閲により「Militaristic(軍国主義的)」との理由で全文削除される。
 同月18日より5月8日まで『東京新聞』連載の「花妖」執筆に集中。挿絵は岡本太郎。書き上がったら新潮社から刊行する旨、編集者野原一夫と約束を交わす。この頃から外来者との面会日を水曜日のみとする。
 同月25日、福田恆存から、安吾論を書くため旧著を読ませてほしいとの依頼が来る。これを機に福田との交遊が始まり、12月から月次刊行される銀座出版社版『坂口安吾選集』全9巻の編・解説を福田が1人で引き受けることとなる。
 3月初め、梶三千代と新宿の酒場チトセで出逢い惹かれ合う。チトセは古い文学仲間の谷丹三が開いた店。谷は戦前、向島にあった料亭「千歳」の娘房子と結婚し、入り婿となっていた。房子と三千代はその当時からの知り合いで、安吾と引き合わせることになったもの。三千代は秘書の名目で毎週水曜日の出勤を約束するが、秘書としての仕事はほとんどなく、まもなく半同棲状態となる。
 4月頃、「抗議三つ」を執筆するが発表されず。同月末頃、「わが施政演説」の執筆を始めるが未完に終わる。その頃、三千代が盲腸炎から腹膜炎となって倒れ、武蔵新田の南雲医院で緊急手術することになる。当時、中央公論社から『堕落論』を刊行する約束だったが、同社では刊行までに相当の時日を要するため、手術・入院費用を即時に捻出することはできない。そのため、『逃げたい心』を刊行したばかりの銀座出版社へ版元を乗り換える旨、両社に了承を得る。以後1カ月余り、南雲医院でつきっきりで看病しながら、三千代をモデルにして「青鬼の褌を洗う女」を執筆する。
 5月8日、東京新聞文化部の都合で「花妖」の連載が打ち切りになる。小説の内容も岡本太郎のシュールな挿絵も大衆受けしないものだったためといわれる。友人の記者頼尊清隆らが間に立って苦慮するのを見かねて、事を荒立てずに切り上げる。その後、野原一夫には「俺はかならず『花妖』を完成する。そして『花妖』を俺の最高の傑作にしてみせる」と宣言していたが、続きに着手する意欲はほとんどなくなる。代わりに、各社の原稿依頼を拒まず受けるようになる。
 5月24日、『風報』創刊号用の対談のため国府津まで出向き、尾崎士郎を司会として尾崎一雄と対談、その後の酒宴もそこそこに三千代のもとへ戻る。
 6月、文學界社から同人形式で復刊された『文學界』に同人加入。他の同人は三好達治、林房雄、井伏鱒二、河上徹太郎、亀井勝一郎、横光利一、堀辰雄、火野葦平、舟橋聖一、太宰治、石川達三、丹羽文雄ら。
 同月6日、木村義雄対塚田正夫の将棋名人戦に出かけ「散る日本」を執筆。三千代は6月中に退院、坂口家で養生を続け、そのまま結婚生活に入る。
 同月中旬、母校東洋大学の学生に請われて1時間ほど講演、政治と文学の関係についての質問に「文学は制度への反逆であり、逆説です」と答える。
 7月30日、『日本読書新聞』の「執筆者通信」欄に「花妖、長篇小説、七月末脱稿、新潮社より出版」と発表したが、やはり書き進められたようすはなかった。
 8月、和田芳恵らが創刊した『日本小説』に「不連続殺人事件」を連載開始。『宝石』掲載の予定で2月頃まで書き進めていたもので、連載に当たり犯人当ての懸賞を付けたことが話題になる。担当編集者は渡辺彰。同月10日、日本文芸家協会編『年刊創作傑作集』第1輯(桃蹊書房刊)に「続戦争と1人の女」が収録される。
 盛夏の頃、太宰治、石川淳らと『ろまねすく』同人となり、打ち合わせを兼ねた懇親会に出席。懇親会には辰野隆、林房雄、田村泰次郎、清水崑らと東京新聞社の頼尊清隆や書店主らが参加し、席上「新戯作派」という誌名が提案されたが安吾が強く反対した。同誌に「淪落の青春」を連載する予定だったが、翌年1月の創刊号のみで廃刊となったようで、未完に終わっている。
 この年、翌年1月創刊の『文芸時代』にも同人加入。同誌は豊田三郎、福田恆存が編集の中心となり、同人には他に、太宰治、伊藤整、花田清輝、舟橋聖一、梅崎春生、椎名麟三、武田泰淳、青山光二、林芙美子ら31人の名がある。安吾は寄稿していないが、同人会には律儀に出席していたと田辺茂一の回想にある。
 10月頃、檀一雄が郷里の九州から上京、坂口宅で歓待する。同じ頃疎開先の静岡から上京した田中英光の紹介で武笠シズ子が住み込みの家政婦となる。英光は上京後、浅草の染太郎や銀座のルパンなどでよく飲んだので、それらの店で安吾と出逢い、家政婦を探している話など聞いたものであろう。当時シズ子は新宿花園町の洋裁店におり、窓向かいに英光の愛人山崎敬子宅があった関係で英光と知り合ったという。「安吾巷談」第1回「麻薬・自殺・宗教」に、この頃、安吾が三千代を伴って熱海で執筆していたところへ、英光が愛人山崎敬子とともに遊びに来て、ウイスキー12本、日本酒2升、ビール24本を英光1人で空けてしまったと書かれている。従来の年譜では、太宰自殺時の出来事とされてきたが、安吾と英光との交遊が知られていなかったための誤伝と考えられる。三千代や敬子と一緒にトランプで遊んだりした記述もあり、英光には憂いの陰が全くない。何より安吾の記す時期設定は「麻薬・自殺・宗教」執筆時から「二年前」のこの頃である。
 10月3日、前年11月に決定した現代仮名遣いおよび当用漢字について、文部省から意見を求められ、「新カナヅカヒの問題」を執筆して回答とする。
 同月21日、有楽町の毎日ホール劇場で「物故探偵作家追悼・講演と探偵劇の会」が開かれる。城昌幸脚本の探偵劇「月光殺人事件」に安吾も出演予定として名前が毎日新聞の予告に載っていたが、不参加。
 秋頃、「〔同人雑誌の意義について〕」を執筆するが未発表に終わる。
 11月、長兄献吉が公職追放に遭い、新潟日報社取締役を辞任。献吉は以後、北日本産業振興協会を創立し理事長として活動を始める。農作物などの成長促進剤の発売、石鹸の製造、印刷業など多岐にわたる事業を手がける。また、新潟総合大学創立に協力する。
 12月8日、木村義雄と名古屋へ出発し、9日、木村升田三番勝負第1局を観戦、「観戦記」を執筆。この頃から覚醒剤はヒロポンよりもゼドリンを愛用する。
 この年、「〔私小説是非〕」「横暴な新聞販売店」も執筆したと推定されるが生前未発表。

◆発表作品等

 1月、「当世らくがき帖」(『月刊にいがた』)
    「恋をしに行く」(『新潮』)
    「風と光と二十の私と」(『文芸』)
    「私は海をだきしめてゐたい」(『婦人画報』)
    「道鏡」(『改造』)
    「家康」(『新世代』)
    「母の上京」(『人間』)
    「戯作者文学論」(『近代文学』)
    「通俗と変貌と」(『書評』)
    「花田清輝論」(『新小説』)
    「模範少年に疑義あり」(『青年文化』)
    「ぐうたら戦記〔わがだらしなき戦記〕」(『文化展望』)
    「文人囲碁会」(『ユーモア』)
    座談会「新文学樹立のために」(『新小説』)
    「織田の死」(『時事新報』12日)
    「未来のために」(『読売新聞』20日)
    書き下ろし中篇『二流の人』九州書房刊
 2月、「わが待望する宗教(葉書回答)」(『二陣』)
    「二合五勺に関する愛国的考察」(『女性改造』)
    座談会「文学・モラル・人間」(『中央公論』)
    「反スタイルの記」(『東京新聞』6~7日)
    「日映の思い出」(『キネマ旬報』)
    「『花妖』作者の言葉」(『東京新聞』16日)
    「花妖」(『東京新聞』18日~5月8日まで連載、未完)
 3月、「二十七歳」(『新潮』)
    「私は誰?」(『新生』)
    「余はベンメイす」(『朝日評論』)
    「女性に薦める図書」(『婦人文庫』)
    「世評と自分」(『朝日新聞』3日)
    「一、わが愛読の書 二、青年に読ませたい本(葉書回答)」(『青年文化』)
 4月、「アンケート〔『文芸冊子』アンケート回答〕」(『文芸冊子』3月号)
    「恋愛論」(『婦人公論』)
    「酒のあとさき」(『光』)
    「大阪の反逆」(『改造』)
    「貞操について」(『月刊労働文化』)
    座談会「新しき文学」(『新潮』)
    「わが戦争に対処せる工夫の数々」(『文学季刊』)
    「序」(『逃げたい心』に書き下ろし)
    座談会「現代小説を語る」(『文学季刊』)
    短篇集『逃げたい心』銀座出版社刊
 5月、「花火」(『サンデー毎日』臨増)
    「てのひら自伝」(『文芸往来』)
    「貞操の幅と限界」(『時事新報』1~2日)
    「後記」(『白痴』に書き下ろし)
    「あとがき」(『いづこへ』に書き下ろし)
    「私の小説」(『夕刊新大阪』26~28日)
    「高見君の一文に関連して〔俗物性と作家〕」(『東京新聞』27、28日)
    短篇集『白痴』中央公論社刊
    短篇集『いづこへ』真光社刊
 6月、「暗い青春」(『潮流』)
    「破門」(『オール讀物』)
    「教祖の文学」(『新潮』)
    「ちかごろの酒の話」(『旅』)
    「金銭無情」(『別冊文藝春秋』)
    対談「ロマン創造のために」(『芸苑』)
    「桜の森の満開の下」(『肉体』)
    座談会「小説に就て」(『文學界』)
    「私の探偵小説」(『宝石』)
    「後記」(『堕落論』に書き下ろし)
    「咢堂小論」(同)
    エッセイ集『堕落論』銀座出版社刊
 7月、「オモチャ箱」(『光』)
    「悪妻論」(『婦人文庫』)
    「名人戦を観て」(『将棋世界』)
    「再版に際して」(『吹雪物語』に書き下ろし)
    「大望をいだく河童」(『アサヒグラフ』)
    「邪教問答」(『夕刊北海タイムス』20日)
    長篇『吹雪物語』〔再版〕新体社刊
    短篇集『いのちがけ』春陽堂刊
 8月、「観念的その他」(『文學界』)
    「失恋難〔金銭無情2〕」(『月刊読売』)
    「散る日本」(『群像』)
    「不連続殺人事件」(『日本小説』翌年8月まで連載)
    対談「或る会話」(『週刊朝日』24日)
    「推理小説について」(『東京新聞』25、26日)
 9月、「夜の王様〔金銭無情3〕」(『サロン』)
    「理想の女」(『民主文化』)
    対談「文学と人生」(『風報』)
 10月、「パンパンガール」(『オール讀物』)
    「私の恋愛」(『女性展望』)
    「青鬼の褌を洗う女」(『愛と美』)
    「思想なき眼」(『世界文学』)
    「後記」(『道鏡』に書き下ろし)
    短篇集『道鏡』八雲書店刊
 11月、「王様失脚〔金銭無情4〕」(『サロン』)
    「決闘」(『社会』)
    「新カナヅカヒの問題」(『風刺文学』)
    「娯楽奉仕の心構へ」(『文學界』)
    「『文芸冊子』について」(『文芸冊子』)
    「男女の交際は自然に〔男女の交際について〕」(『婦人雑誌』)
    エッセイ集『欲望について』白桃書房刊
 12月、「阿部定さんの印象」(『座談』)
    対談「阿部定・坂口安吾対談」(同)
    座談会「小説と批評について」(『新文化』)
    座談会「東京千一夜」(『Gメン』)
    「長さの問題ではない〔思想と文学〕」(『読売新聞』8日)
    「現代の詐術〔詐欺の性格〕」(『個性』)
    「坂口流の将棋観」(『夕刊新東海』10日(本多俊介氏調査)、『神港夕刊新聞』他にも掲載)
    短篇集『青鬼の褌を洗ふ女』山根書店刊
    短篇集『外套と青空』地平社刊〈手帖文庫〉
    『坂口安吾選集』全9巻 銀座出版社刊(翌年8月まで毎月刊行)

◆書簡

 初め頃 隠岐冨美子宛
 02/25 福田恆存より来簡
 02~03月頃 大井広介
 02~03月頃 高木常雄
 03/17 大井広介宛
 03/30 笹本寅
 03/31 伊沢幸平
 04/05 福田恆存より来簡
 05月初め頃 文学界社宛
 06月頃 海老原光義宛
 07/29 椎名麟三より来簡

◆世相・文化

 1月21日、璽光尊事件で双葉山が警官に抵抗、璽光尊(長岡良子)と共に石川県警に逮捕される。璽光尊は誇大妄想性痴呆症と診断されて11月に釈放。呉清源はその後も翌年まで璽光尊に付き従って各地を転々とした。
 同月、中野重治が「五勺の酒」を発表。
 3月、太宰治が「ヴィヨンの妻」を、田村泰次郎が「肉体の門」を、竹山道雄が「ビルマの竪琴」を発表。
 同月15日、東京35区が整理統合され22区となる。8月には現在の23区に。
 4月、新憲法制定に伴い、20日に第1回参議院議員総選挙、25日に衆議院議員総選挙が行われる。その結果、社会党が第1党に躍進、自由党、民主党がこれに次ぐ。
 5月3日、日本国憲法施行。同月24日、社会党の片山哲が首相となる。
 6月、原民喜が「夏の花」を、石坂洋次郎が「青い山脈」を発表。
 8月9日、全日本選手権大会で、日大の古橋広之進が400m自由形競泳で4分38秒4の世界記録を出して優勝。ただし日本は国際水泳連盟から除名されていたため公式記録とされず。翌年にはさらに4分33秒0の記録を作ったほか、1500m自由形、800m自由形でも世界記録を更新した。世界で「フジヤマのトビウオ」と話題になるのは1949年のこと。「安吾巷談」の1篇「世界新記録病」では、公式記録というもののバカらしさに触れ、「古橋が四分三十三秒の記録をだした時には名実とも大記録であり、この世界新記録には生きた血がながれていた」と古橋のレース魂をのみ讃えている。
 9月、石川淳が「処女懐胎」を発表。詩誌『荒地』第2次創刊。
 11月1日、NHKラジオでクイズ番組「二十の扉」が始まる。前年に始まった「話の泉」と並んで人気を博し、安吾も「戦後新人論」や「日月様」などで話題にしている。
 11月2日、結婚雑誌『希望』主催の「花嫁花婿の見合い大会」が東京多摩川の河原で開かれ、男女386人が参加。安吾も見物に出かけ、エッセイ「集団見合」を執筆。
 12月、太宰治『斜陽』が刊行され、ベストセラーになる。

>1948(昭和23)年
42歳

アドルム中毒による鬱病の再発

 1月5日、尾崎士郎尾崎一雄の第2次『風報』が3号で廃刊となり、士郎は版元を引き受けてくれた山本礼三郎(「人生劇場」吉良常役の俳優)の窮地を救うため、再び安吾を同人に誘って新雑誌の創刊を企画する。編集は士郎に師事して戦前から尾崎家に出入りしていた青年吉井三郎と高橋旦ら。しかし、士郎の知人で暴力団組長の実弟・榎本が多額の出資をし、名目上の編集長・樋口と共に暴力で社をとりしきろうとしたため、義憤を感じた安吾が1月26日、榎本と樋口と直談判におよぶ。榎本は社長をやめると約束して一件落着となる。
 1月10日、出版社数社の主催により織田作之助一周忌追悼会が銀座の料亭、鼓で行われ、太宰治、林芙美子らと列席する。
 3月20日、GHQの指令により著述家の公職追放第1次仮指定270名、29日に第2次仮指定61名が発表され、第2次の中に尾崎士郎の名前が見つかる。
 4月12日、尾崎士郎の公職追放仮指定に対する異議申立書を執筆、総理大臣芦田均宛の書状とする。尾崎一雄にも同様の申立書を書くよう、士郎と2人で言い送り、2日後に一雄からも書状を受け取る。
 5月10日、『王将に迫る―木村、升田決戦譜―』(神港夕刊新聞社刊)に、前年12月8日の「観戦記」が収録される。
 同月15日、著述家の公職追放仮指定に対して87人が異議申立をした結果、石川達三、丹羽文雄、岩田豊雄らは異議が認められたが、火野葦平、尾崎士郎らは不認可と決定する。
 同月、『月刊読売』誌上で呉清源と五子で対局、完敗する。
 6月15日、太宰情死の報を受け、マスコミ各社の襲来を逃れるため熱海の旅館「桃李境」に赴く。16日から19日の遺体発見までの間に、安吾が太宰を匿っているのでは、というデマも生まれ、田中英光が桃李境を訪れる。2人で太宰宛の手紙をしたためたが、未投函に終わる。この頃から歯痛に悩まされる。「不連続殺人事件」を連載中の『日本小説』の編集者渡辺彰が坂口家でカストリを飲んで肺病を再発、責任を感じた安吾は長野県諏訪郡の富士見高原療養所への入院を手配し、連載の原稿料は渡辺に全部渡るように取り決める。渡辺は6月28日から10月20日まで入院、以後恩義を感じて、晩年まで安吾の秘書役として坂口家に出入りするようになる。
 7月、『座談』に坂口三千代「安吾先生の一日」が掲載される。その中に「先生は私に遺言を書いて下さって、自分が死んだら、葬式はだすな、あなた一人で屍体の始末から埋葬もしてどこかの片隅か海中へでも骨をすててくれればいい。遺産はみんなやる、遠りょなく恋をして幸福にくらせ、と仰有るのです」とある。⇒1951年6月
 7月7日から9日にかけて行われた本因坊・呉清源十番碁を観戦しメモをとる。
 夏頃、竹内書房から10月創刊の『歴史小説』同人となり、共立講堂で行われた同誌・歴史文学会主催の講演会で「ヨーロッパ的性格 ニッポン的性格」を講演。同様の「歴史文学講演映画舞踊会」が10月26日に上野の都民文化館でも行われ、舟橋聖一、辰野隆らとともに安吾も講演者として告示されていたが、おそらくこれには参加していない。
 8月頃からは洟汁と吐き気がひどくなり、鬱病の症状が再発し意識が分裂しはじめる。思考力の集中持続のため多量のゼドリン、不眠からアドルムを常用しながら、長篇(のちの「火」でタイトルは翌年夏まで未定)を構想。以前は1日10錠だったアドルムが、この頃には20錠になる。
 9月、長兄献吉が新潟宝塚劇場の社長に就任。
 10月、幻視幻聴が現れるが、他の一切の仕事を断り、『新潮』に約3000枚、単行本5冊予定の長篇連載を約束する。同月上旬、富士見高原の渡辺彰を見舞い、10日から上諏訪で「火」第1稿の執筆を始める。上諏訪から熱海に移って執筆を続け、年末までに第1章および第2章冒頭あわせて800枚近く書き上げる。下書きは何冊ものノートブックに小さな字でびっしり書かれ、これを新潮社の菅原国隆や三千代らが手分けして原稿用紙に清書、それに安吾が手を加えたり削ったりして、もう一度清書させ、安吾が最終添削、という仕上げ方だった。
 10月1日、寺田俊雄編『戦後文芸代表作品集』創作篇(黄蜂社刊)に「道鏡」が収録される。
 11月、「不連続殺人事件」が劇団新風俗(中田竜男脚色、有吉光也演出)により浅草常盤座で上演される。原作は8月に完結したばかりで、12月の初版より早い脚色&上演となった。
 11月30日、福田恆存編『太宰治研究』(津人書房刊)に「不良少年とキリスト」が収録される(本作はその後も多数の太宰研究本に収録される)。
 12月、4兄上枝の勤める東京計器製作所が長野計器製作所と東京計器製造所に分離独立、上枝は長野計器製作所の常務取締役になる。同月初め頃、秘書役を兼ねて坂口家に出入りしていた銀座出版社の高木常雄が出入り禁止となる(のちに許されるが、これ以後、高橋旦と渡辺彰が主な秘書役となる)。
 12月25日、日本文芸家協会編『現代小説代表作選集』3(大元刊)に「出家物語」が収録される。
 大晦日の朝、「火」の取材のため三千代と2人で京都へ向かったが、発熱して河原町の旅館で病臥。
 この年から翌年にかけての時期より、作品社の八木岡英治夫妻が坂口家1階の応接間を借りて同居。

◆発表作品等

 1月、「第二芸術論について」(『詩学』)
    「淪落の青春」(『ろまねすく』)
    「出家物語」(『オール讀物』)
    「現代とは?」(『新小説』)
    「新人へ」(『文芸首都』)
    「阿部定という女」(『Gメン』)
    「感想家の生れでるために」(『文學界』)
    「天皇陛下にさゝぐる言葉」(『風報』)
    「モンアサクサ」(『ナイト』)
    「私の探偵小説」(『宝石』)
    「観戦記」(『夕刊新東海』3~22日(本多俊介氏調査)、『神港夕刊新聞』他にも掲載)
    「後記」(『風博士』に書き下ろし)
    中篇『二流の人』〔改訂版〕思索社刊
    短篇集『風博士』山河書院刊
 2月、「机と布団と女」(『マダム』)
    対談「エロチシズムと文学」(『女性改造』)
    「探偵小説とは」(『明暗』)
    「ヤミ論語」(『世界日報』23日~7月12日まで断続連載)
    長篇『吹雪物語』〔再版〕山根書店刊
    連作短篇集『金銭無情』文藝春秋新社刊
 3月、「わが思想の息吹〔作品の仮構について〕」(『文芸時代』)
    「帝銀事件を論ず」(『中央公論』)
    「D・D・Tと万年床」(『マダム』)
    インタヴュー「三十分会見記 坂口安吾氏の巻」(『仮面』)
    「白井明先生に捧ぐる言葉」(『読売新聞』22日)
 4月、「ジロリの女」(『文藝春秋』『別冊文藝春秋』分載)
    「将棋の鬼」(『オール讀物』)
    「後記にかへて」(『教祖の文学』に書き下ろし)
    エッセイ集『教祖の文学』草野書房刊
 5月、「遺恨」(『娯楽世界』)
    「無毛談」(『オール讀物』)
    「三十歳」(『文學界』7月まで連載)
    「不思議な機構」(『毎日新聞』3日)
    「アンゴウ」(『サロン別冊』)
 6月、「私の葬式」(『風雪』)
 7月、「ニューフェイス」(『小説と読物』)
    「不良少年とキリスト」(『新潮』)
    「敬語論」(『文藝春秋』)
    「探偵小説を截る」(『黒猫』)
    「集団見合」(『サロン』)
    「本因坊・呉清源十番碁観戦記」(『読売新聞』8、9日)
 8月、「お魚女史」(『八雲』)
    「太宰治情死考」(『オール讀物』)
    「日本野球はプロに非ず」(『べースボール・マガジン』)
    「織田信長」(『季刊作品』)
    対談「伝統と反逆」(同)
    対談「終戦三年」(『夕刊名古屋タイムズ』他 14~16日)
 9月、「死と影」(『文學界』)
    「カストリ社事件」(『別冊オール讀物』)
    「志賀直哉に文学の問題はない」(『読売新聞』27日)
 10月、「切捨御免」(『オール讀物』)
    「戦争論」(『人間喜劇』)
    「呉清源〔呉清源論〕」(『文學界』)
    座談会「情死論」(同)
    「ヨーロッパ的性格 ニッポン的性格」(『歴史小説』11月まで連載)
    短篇集『風と光と二十の私と』日本書林刊
 11月、「真相かくの如し」(『読売新聞』1日)
    短篇集『竹藪の家』文藝春秋新社刊
 12月、「哀れなトンマ先生」(『漫画』)
    「私の碁」(『囲碁春秋』)
    鼎談「今年を顧みる」(『月刊読売』)
    短篇集『ジロリの女』秋田書店刊
    長篇『不連続殺人事件』イヴニングスター社刊
    短篇集『白痴』〔中公版とは別編集〕新潮社刊〈新潮文庫〉

◆書簡

 02/16 尾崎士郎宛
 05/09 尾崎一雄宛
 05/09 長畑一正宛
 05月中旬 尾崎士郎宛
 05月頃 尾崎一雄宛
 06/18 尾崎士郎宛
 06/18頃 太宰治宛
 12/08 大井広介宛

◆世相・文化

 1月26日、帝銀事件発生。周到な手口で銀行員らをだまし12人を毒殺。8月21日に画家の平沢貞通が逮捕されたが、起訴後は1987年に獄中死するまで一貫して無実を主張。真犯人については様々な説があり、安吾も「帝銀事件を論ず」「切捨御免」などのエッセイや座談会などで何度も自らの推理を披露している。
 同月30日、インドでガンジーが暗殺される。「安吾巷談」の1篇「野坂中尉と中西伍長」の中で、安吾は「ガンジーの無抵抗主義も私は好きだ」と書いている。
 同月、尾崎一雄が「虫のいろいろ」を、舟橋聖一が「雪夫人絵図」を発表。
 2月10日、社会党内の対立により片山内閣が総辞職。翌月から10月まで、民主党の芦田均が社会党などとの連立内閣を維持して組閣。
 同月、大岡昇平が「俘虜記」を発表。
 5月2日~9月10日、サマータイム実施。欧米諸国にならって夏期に時刻を1時間すすめる制度で4年間実施されたが、1952年に廃止される。
 5月14日、第1次中東戦争勃発。
 6月、太宰治が「人間失格」の連載を始めるが、同月13日、玉川上水で愛人の山崎富栄と心中自殺を遂げる。遺体は奇しくも誕生日の19日に発見された。
 7月29日~8月14日、ロンドン・オリンピックが開催されるが、敗戦国日本は参加できず。国内の競泳では古橋広之進が各距離で世界新記録を連発した。⇒前年参照
 10月15日、芦田内閣退陣を受けて、第2次吉田茂内閣が発足。以後、1954年12月まで吉田内閣が長く続くことになる。
 同月、野上弥生子『迷路』刊行。
 11月4日、東京裁判結審。東条英機ら7人が死刑、16人が終身禁固刑となり、12月23日、A級戦犯の絞首刑が執行された。
 同月、大田洋子が「屍の街」を、林芙美子が「晩菊」を発表。
 12月7日、昭和電工疑獄で芦田均前首相ら大勢の国会議員らが逮捕される。
 同月、大岡昇平が「野火」を発表。川端康成『雪国』刊行。

1949(昭和24)年
43歳

入院治療、伊東への転居

 1月上旬、京都ではほとんど執筆できずに帰京。その後は完全に蓄膿症の症状を呈し、全身に発疹が出たため、1日50錠ものアドルムをのんでひたすら眠ることに努める。25日頃から夢うつつの中で何度も狂気の発作を起こす。一糸纏わぬ全裸で往来へ飛び出したり、ストップウォッチを持って3分で酒を買って来いと命じたり、階段の上から家財道具を投げ落としたりするようになる。
 2月4日には2階の窓から飛び降りる。家政婦のシズ子と三千代が面倒をみていたが、どうにもならない時には高橋旦郡山千冬檀一雄、新潮社の菅原国隆、講談社の原田裕らに来てもらう。三千代を殺すと喚いて樫の杖をふるって追い回した時には、止めに入った同居人の裁判官大野璋五をも打ちすえようとした。ある日は、心中をするのだと言って三千代を引き連れて人力車で出かけたこともあった。
 2月13日、『不連続殺人事件』が探偵作家クラブ賞に決定。15日、『小林秀雄対話録』(創芸刊)に対談「伝統と反逆」が収録される。20日、日本ペンクラブ編『現代日本文学選集』4(細川書店刊)に「白痴」が収録される。25日、小林秀雄ほか監修『文芸評論年鑑』昭和23年度(全国書房刊)に「堕落論」が収録される。
 2月半ば頃から、渡辺彰や前記の看護役の友人らが集まって相談、アドルムを飲むのを忘れさせようと交替で安吾と酒を飲みながら語りつづける作戦を決める。しかし、1日ぐらいアドルムを飲まないでいると禁断症状が出はじめ、母アサの命日である16日には「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」と、布団の衿をかみしめるようにして泣いていたと『クラクラ日記』に書かれている。
 同月23日、東大病院神経科へ入院。担当は千谷七郎外来長。病院までの介添えには石川淳と菅原国隆が来る。この時、書き終えるまで載せない約束だった「火」第1章その1が、『新潮』3月号から「にっぽん物語」のタイトルで無断掲載されることがわかるが、安吾には知らせず。翌24日に、新潮社の菅原らと中央公論社の嶋中鵬二らが三千代と会い、「長編小説のひきわたしの件」について善後策を話し合ったが難しそうだと三千代の日記にある。すでに新潮社との絶縁が予想されていたものだろう。
 同月26日、探偵作家クラブ賞の授賞式が行われたが、入院中で出席できず。同日、「火」の一件を初めて聞き激怒、すぐに伝えなかった三千代を叱る。翌日、見舞いに訪れた銀座出版社の出版局長升金種史に「火」の件につき万事をまかせる。
 3月、戦争により4年半中断していた芥川賞の復活が決まり、選考委員に推される。
 同月2日から16日まで持続睡眠療法を受ける。病状は次第に回復し、28日、新潮社宛に糾問の手紙を書いて銀座出版社の升金種史、高橋旦に持参させ、返事をもらうため31日未明に一旦病院を脱け出す。
 4月5日、税金滞納のため蒲田税務署が坂口家に差押えに出向くが、入院中で差押えは保留扱いとなる。この5日頃から退院までの2週間ほど、連日のように見舞い客と共に後楽園へ野球見物に行く。大井広介、獅子文六、文藝春秋新社の池島信平、同社中戸川宗一、読売新聞社の平山信義らがそのようすを回想に記している。
 同月6日、新潮社に絶縁状を届ける。同日、『世界経済新聞』に「坂口安吾氏自殺未遂」という誤報が載る。5日の夜に服毒の上、病院の3階の窓から飛び降りようとした、と書き立てられ、各紙の記者や警察の麻薬係などが大挙して病院に押し寄せる。実際は、2カ月前にアドルム中毒で自宅の2階から飛び降りた話を、この月のことと記者が勘違いしたための記事であった。安吾はデマを一掃するため、7日に「僕はもう治っている」を書き『読売新聞』に渡す。
 同月18日、蒲田税務署の差押えを受けた件につき、同税務署に異議申立書を提出する。その内容は1947年度から48年度までの実収入がゼロであったと主張するもの。47年度は知人の生活難や病気入院手術等の費用を自分が一手に引き受けねばならなかったため。48年度以降は自身の病気で執筆もできなかったことなどの理由を列挙した。⇒1951年5月
 翌19日、外出先から電話をかけて希望退院する。
 5月1日、日本文芸家協会編『文芸評論代表選集』(丹頂書房刊)に「堕落論」が収録される。
 5月24日から25日朝にかけて、皇居内の済寧館にて木村義雄対塚田正夫の名人戦五番勝負の第5局を観戦、「勝負師」執筆の材料となる。観戦時、3カ月ぶりにゼドリンを服用。同月29日、NHK第二放送で「将棋名人戦第5局『観戦記』」と題して大山康晴との対談が放送される。
 6月6日、NHK第一放送の番組「朝の訪問」でインタヴューに答える。同月23日、河上徹太郎井上友一郎、獅子文六、今日出海、永井龍男、石川達三らと文壇野球チームを結成、東鉄グラウンドで文藝春秋チームと対戦し、12対12の引き分けに終わる。この時、安吾はピッチャーで四番バッターだったといわれるが、順に守備位置を変更したのか、くわえ煙草で外野を守っている写真も文藝春秋に残っており、半藤一利氏の記憶ではサードも守っていたらしい。同月25日、第21回芥川賞選考会に出席。
 6、7月頃、『LOCK』の懸賞探偵小説選者として候補作の選考に当たる。
 7月15日、北条誠ほか編『日本小説傑作全集』1・昭和23年前期分(宝文館刊)に「アンゴウ」が収録される。
 8月20日、日本文芸家協会編『現代小説代表選集』4(光文社刊)に「遺恨」が収録される。
 同月初め頃からアドルム中毒の発作が再発し、7日夕方から池上警察署に留置される。この事件がもとで同居人の大野璋五との関係が悪くなり、引っ越しを考えはじめる。その頃、檀一雄が石神井の自宅そばに安吾家を建てる計画を語らい、一緒に下見に行く。同月16日、予定されていた観戦記集の「後記」を執筆するが、翌年1月刊の『勝負師』は観戦記集ではなくなったため生前未発表に終わる。
 8月20日頃、南雲医師のすすめで伊東へ転地療養に赴く。初め古屋旅館に滞在し、近所の尾崎士郎や来訪した檀一雄らと交遊。「火」第1章その2の推敲を進める。この頃から心機一転して新仮名遣いに切り換える。尾崎士郎の紹介で天城診療所の「肝臓先生」こと佐藤清一が毎日のように診療に訪れるようになる。また、何日か青山二郎がポンポン蒸気船を走らせて船遊びに連れ出してくれる。
 9月4、5日頃、伊東市玖須美149秦秀雄方の2階に間借り。秦秀雄は元星ケ岡茶寮の支配人で小林秀雄や青山二郎と骨董仲間だったので、この間借りも青山の斡旋によったかと推測される。
 10月初め頃、同市久治町石原別荘に転居。同月29日、講談社主催の講演会で「私は職人です」と題して講演するが、わずか数分で終える。
 11月10日からNHK第一放送で始まった連続ラジオ小説「天明太郎」の第1部第8回の脚本を担当、12月29日に放送される(『坂口安吾全集』第9巻収録原稿はその下書きの一部にすぎず、放送されたものではない)。
 11月25日、平野謙荒正人ほか編『新日本代表作選集』1・小説篇1(実業之日本社刊)に「白痴」が収録される。
 12月1日、同市岡区広野1ノ601に落ち着く。この頃から秋田犬の雑種ローランを飼う。毎朝散歩する習慣がつき、徐々に健康を快復する。蒲田の家には引き続き大野璋五一家と八木岡英治が住んでいたが、長兄献吉の手配により竹花政茂・千鶴(妹)夫妻が住むことになる。

◆発表作品等

 1月、「『刺青殺人事件』を評す」(『宝石』)
    鼎談「歓楽極まりて哀情多し」(『読物春秋』)
    エッセイ集『不良少年とキリスト』新潮社刊
 2月、対談「エロ裁き」(『VAN』)
 3月、「インテリの感傷」(『文藝春秋』)
    「西荻随筆」(『文學界』)
    「にっぽん物語〔火〕」第1章その1(『新潮』7月まで連載)
 4月、「僕はもう治っている」(『読売新聞』11日)
 5月、「書についての話題〔アンケート回答〕」(『書道文化』)
    「碁にも名人戦つくれ」(『毎日新聞』大阪版 29日)
 6月、「精神病覚え書」(『文藝春秋』)
    「神経衰弱的野球美学論」(『文學界』)
    「女優」(『佐世保文化』)
 7月、「日月様」(『オール讀物』)
    「深夜は睡るに限ること」(『文學界』)
    座談会「囲碁・人生・神様」(『文藝春秋』)
    「単独犯行に非ず」(『東京日日新聞』8日)
    鼎談「下山事件推理漫歩」(『新大阪』16、17日)
    「退歩主義者」(『月刊読売』臨増)
 8月、「釣り師の心境」(『文學界』)
    「選評〔懸賞探偵小説〕」(『LOCK別冊』)
    鼎談「人間・社会・文学」(『群像』)
    「復員殺人事件」(『座談』翌年3月まで断続連載、未完)
    「現代忍術伝」(『講談倶楽部』翌年3月まで断続連載)
    「勝負師」(『別冊文藝春秋』)
 9月、「雑誌型でない作品を〔第21回芥川賞選後評〕」(『文藝春秋』)
    「行雲流水」(『オール讀物』)
    鼎談「貧乏・青春・処世物語」(『座談』)
    長篇『不連続殺人事件』〔再版〕岩谷書店
 10月、「わが精神の周囲」(『群像』)
    鼎談「文学・ロマン・人生」(『中央公論・文芸特集』)
    「小さな山羊の記録」(『作品』)
 11月、「作者附記〔「火」『群像』連載第1回〕」(『群像』)
    「戦後新人論」(『文藝春秋』)
    「スポーツ・文学・政治」(『近代文学』)
    「火」第1章その2(『群像』翌年2月まで連載)
 12月、「『復員殺人事件』について」(『座談』)
    エッセイ集『堕落論』〔47年版とは別編集〕銀座出版社刊

◆書簡

 01月頃 檀一雄宛
 03/31 千谷七郎宛
 04/06頃 大井広介宛
 08/18夜 由起しげ子より来簡
 08月末頃 尾崎士郎より来簡
 09/12夜 尾崎士郎より来簡
 09/21 尾崎一雄
 09/22 福田恆存より来簡
 09/23 尾崎一雄より来簡
 09/26 大井広介より来簡
 10月初め頃 平山信義宛
 10/04 尾崎一雄宛
 10/04 中河与一より来簡
 10/05 福田恆存より来簡
 10/18 福田恆存より来簡
 10/25 福田恆存より来簡
 11/04 原田裕より来簡
 11/14 渡辺彰より来簡
 11/24 檀一雄より来簡
 11月頃 大井広介より来簡
 11月頃 中河与一より来簡
 12/21 福田恆存より来簡
 49年10月下旬or50年07月下旬 尾崎士郎より来簡
 49~51年頃 尾崎士郎より来簡
 49~51年頃 尾崎士郎より来簡

◆世相・文化

 1月、木下順二が戯曲「夕鶴」を発表。
 同月23日、衆議院議員選挙で社会党が惨敗し、民主自由党が圧勝。保守安定政権となる。翌月、吉田茂が第3次内閣を組閣。
 2月、伊藤整が「火の鳥」を発表。
 3月28日、文筆家や学生の間に覚醒剤が濫用され弊害が多いという理由で、ヒロポン、ゼドリンなど六種の錠剤が劇薬に指定され簡単には入手できなくなる。ちょうど安吾がアドルム中毒の治療で入院している時のこと。
 5月、平野謙が「芸術と実生活」を、田中英光が「野狐」を発表。
 6月25日、戦争で途絶えていた芥川賞が復活し、由起しげ子「本の話」と小谷剛「確証」が受賞。選考委員をつとめた安吾は、由起について「若干ながら「天才」が感じられたのは、この作家一人で」今後精進すれば「一葉につぐ天才的な女流となる人のように思った」と選評している。
 7月5日、下山事件。国鉄総裁の下山定則が常磐線で轢死し、他殺・自殺の両説がとびかったが未解決に終わる。進駐軍の関与も指摘されている。
 同月15日、三鷹事件。国鉄中央線三鷹駅で無人の電車が暴走、通行人6人が死亡、20人が負傷した。共産党員9名と非共産党員の運転士竹内景助が起訴されたが、共産党員9名は無罪となる。竹内のみ死刑が確定したが陰謀説を訴えながら獄死。2010年現在も再審請求が行われている。
 同月、三島由紀夫『仮面の告白』刊行。
 8月17日、松川事件。福島県の国鉄東北本線で旅客列車が脱線転覆し、機関士1人、助手2人が死亡した。国鉄労組や共産党員ら20人が逮捕されたが、1963年に全員無罪が確定。真犯人はいまだ不明である。下山事件、三鷹事件とあわせて国鉄三大ミステリー事件といわれる。
 同月、井伏鱒二が「本日休診」を翌年5月まで連載。
 9月、川端康成が「山の音」の断続連載を始める。
 10月、田宮虎彦が「足摺岬」を発表。戦没学生の遺文集『きけ わだつみのこえ』刊行。
 同月1日、中華人民共和国成立。毛沢東が主席。
 同月12日、大リーグのサンフランシスコ・シールズが来日。全日本、巨人など日本チームに対しては7戦全勝で、11月6日に帰国。「安吾巷談」の第1回「麻薬・自殺・宗教」に、文藝春秋新社の池島信平と試合観戦した話が書かれている。
 11月、谷崎潤一郎が「少将滋幹の母」を、林芙美子が「浮雲」を発表。
 同月3日、田中英光が太宰治の墓前で自殺。
 同月24日、東大生で金融業「光クラブ」社長の山崎晃嗣が服毒自殺。アプレゲール犯罪の走りとして注目され、数多くの小説やドラマに脚色されている。
 12月10日、労働者農民党の松谷天光光と、妻子ある民主党の園田直との恋愛が発覚。白亜の恋と騒がれ、松谷がすでに妊娠していることを「厳粛なる事実」と言ったのが流行語になる。松谷は「一家心中」を公然と口にする父のもとから家出し、妻子を捨てた園田と駆け落ち同然に結婚した。「安吾巷談」の第2回「天光光女史の場合」で、安吾はこの騒動を「因果モノ」「バカらしい茶番」と呼び、「日本中の新聞が発狂しているのではないか」とマスコミの報道姿勢を批判した。

1950(昭和25)年
44歳

「安吾巷談」で野次馬精神を発揮

 1月、文藝春秋新社の編集者池島信平の企画で「安吾巷談」の連載が始まる。各回の見出しも池島が付けたものである。同月31日、第22回芥川賞選考会に出席。
 2月頃、新潮社の菅原国隆が来訪したのを機に、新潮社との絶縁を解く。
 2月19日から21日まで小田原競輪で遊び、「安吾巷談」執筆のため選手たちに取材。
 3月頃、妻三千代の妊娠が判明するが、自分の子とは信じられず、この頃から再びアドルムを飲みはじめ暴れるようになる。尾崎士郎や三千代の妹嘉寿子らの仲介で気持ちを鎮めるが、三千代は出産する気がなくなり堕胎。この頃から家政婦は武笠シズ子が辞めたため、地元の中学出たての娘を雇う。
 4月13日、熱海の大火を見に出かけ、15日には新宿および上野の交番に一日詰めて「安吾巷談」の取材。同月下旬から、熱海水口園にこもって新聞連載長篇「街はふるさと」を執筆。
 5月、「安吾巷談」と併行して『新潮』に「我が人生観」の連載開始。各回見出しはおもに担当編集者の菅原国隆が付けたもの。
 同月1日、川端康成・井伏鱒二ほか編『日本小説代表作全集』21(小山書店刊)に「釣り師の心境」が収録される。15日、日本近代文学研究会編『現代日本小説大系』別冊1「坂口安吾・太宰治・織田作之助・石川淳集」が河出書房から刊行され、「白痴」「道鏡」「暗い青春」「風と光と二十の私と」が収録される。
 6月22日に上京、「安吾巷談」の取材で初めてストリップを見学。体調を崩し、26日から7月5日まで南雲医院に入院。退院後も水口園で執筆を続ける。7月24日にも上京して東京パレスの取材。
 6月25日、「安吾巷談」のパロディとして、34年後を空想して書かれた「下山事件最終報告書~安吾巷談の四百十三~」が『文藝春秋』増刊に掲載される。署名は坂田安吾で、わざと1字違えてある。
 8月31日、第23回芥川賞選考会に出席。
 9月頃、ローランに加えてコリーのラモーも飼いはじめるが、まもなくジステンパーと脳膜炎を起こしたので、2カ月ほどブドウ糖とペニシリンを打ち続けたが死亡。
 9月10日、『文藝春秋』10月号の広告頁で、9月25日発売予定の増刊『秋燈読本』に「スポーツと私」の題で執筆する10名の中に記されていたが掲載されず。
 10月1日、伊東市から伊東特別市法審議会委員を委嘱されるが、多忙のゆえをもって辞退する。
 11月、長兄献吉の公職追放が解け、新潟日報社取締役に再任、会長となる。
 同月27日、読売新聞小説賞の選考会に出席。
 12月、『街はふるさと』の帯に「映画化決定」の情報が載るが、映画にはならずに終わる。

◆発表作品等

 1月、「肝臓先生」(『文學界』)
    「安吾巷談」(『文藝春秋』12月まで連載)
    鼎談「新春初笑い伊東放談」(『新大阪』1日)
    対談「こんにゃく問答」(『オール讀物』)
    短篇&エッセイ集『勝負師』作品社刊
 2月、「便乗型の暴力」(『読売新聞』20日)
    「百万人の文学」(『朝日新聞』26日)
 3月、「由起しげ子よエゴイストになれ」(『文學界』)
    「水鳥亭由来〔水鳥亭〕」(『別冊文藝春秋』)
    「福田恆存の芸術」(文学座3月公演「キティ颱風」プログラム)
    対談「男と女の面白さ」(『文藝春秋』増刊)
 4月、「温浴」(『群像』)
    「推理小説論」(『新潮』)
    「『闘牛』の方向〔第22回芥川賞選後評〕」(『文藝春秋』)
    「投手殺人事件」(『講談倶楽部』)
 5月、「我が人生観」(『新潮』翌年1月まで連載)
    鼎談「オールサロン」(『オール讀物』)
    「『街はふるさと』作者の言葉」(『読売新聞』8日)
    「街はふるさと」(『読売新聞』19日~10月18日まで連載)
    「作者の言葉」(『火 第1部』に書き下ろし)
    長篇『火 第1部』大日本雄弁会講談社刊
 7月、「投手殺人事件『解決篇』」(『講談倶楽部』)
 8月、「“歌笑”文化」(『中央公論』)
    「巷談師」(『別冊文藝春秋』)
    「『異邦人』に就て」(『毎日新聞』20日)
 9月、短篇集『現代忍術伝』大日本雄弁会講談社刊
 10月、「新人に〔第23回芥川賞選後評〕」(『文藝春秋』)
    合作長篇『天明太郎』(第1部第8回を担当、書き下ろし)宝文館刊
    「明治開化 安吾捕物」(『小説新潮』52年8月まで連載)
    「神伝魚心流開祖〔落語・教祖列伝1〕」(『別冊文藝春秋』)
 11月、「兆青流開祖〔落語・教祖列伝2〕」(『オール読物』)
 12月、「読物としての確かさ〔読売新聞小説賞選評〕」(『読売新聞』1日)
    「花天狗流開祖〔落語・教祖列伝3〕」(『別冊文藝春秋』)
    エッセイ集『安吾巷談』文藝春秋新社刊
    長篇『街はふるさと』新潮社刊

◆書簡

 01/01 大井広介より来簡
 01/23 山内文三より来簡
 01月頃 尾崎士郎宛
 01月頃 大井広介より来簡
 02/05 八木岡英治より来簡
 02/21 尾崎士郎より来簡
 02/21 尾崎士郎宛
 02月頃 池島信平より来簡
 03/23 菅原国隆より来簡
 04/07 中戸川宗一より来簡
 04/11 田川博一より来簡
 04/15 赤沢正二より来簡
 04/18 菅原国隆より来簡
 04/27 福田恆存より来簡
 04月頃 池島信平より来簡
 05/06 伊藤克己より来簡
 05/19 福田恆存より来簡
 05/22 子母沢寛より来簡
 05/26 原田裕より来簡
 05/27 大井広介より来簡
 06/14 赤沢正二より来簡
 06/14 三好達治より来簡
 06/15 黒田秀俊より来簡
 06/20 大井広介より来簡
 06/28 大井広介より来簡
 07/09 伊藤克己より来簡
 07/24 渡辺彰より来簡
 07/25 原田裕より来簡
 07月頃 池島信平より来簡
 08/03 大井広介より来簡
 08/03 大井広介より来簡
 08/05 大井広介より来簡
 08/07 黒田秀俊より来簡
 08/24 古沢岩美より来簡
 08/24 小林博より来簡
 08/31 菅原国隆より来簡
 09月初め頃 古沢岩美宛
 09/04 原田裕より来簡
 09/10夜 古沢岩美より来簡
 09/12 三枝佐枝子より来簡
 10/03 菅原国隆より来簡
 10/07 大井広介より来簡
 10月中旬 小林博より来簡
 10/18 倉島竹二郎より来簡
 10月頃 福田恆存より来簡
 11/08 尾崎一雄より来簡
 11/11 八木岡英治より来簡
 11/15 尾崎一雄宛
 11/17夜 渡辺彰より来簡
 11/19 尾崎一雄より来簡
 11/23 大井広介より来簡
 11/24 福田恆存より来簡
 11~12月頃 福田恆存より来簡
 12/11 菅原国隆より来簡
 12/20 菅原国隆より来簡
 12/27 金川太郎より来簡
 12/28 坂西志保より来簡
 50年頃  池島信平宛

◆世相・文化

 1月、大岡昇平が「武蔵野夫人」を、福田恆存が戯曲「キティ颱風」を発表。同月31日、井上靖「闘牛」が芥川賞受賞。
 2月、中村光夫が「風俗小説論」を発表。3月、伊藤整『鳴海仙吉』刊行。
 4月、檀一雄『リツ子・その愛』『リツ子・その死』刊行。
 5月30日、落語家の三遊亭歌笑が交通事故で死亡。安吾は「“歌笑”文化」でその死を悼み、「醜男の悲哀」を生々しい笑いに転化しえた歌笑の独自性を指摘している。
 6月、レッドパージが始まる。徳田球一ら日本共産党中央委員24人らが公職追放となり、「アカハタ」は無期限発刊停止処分を受ける。その後もマスコミ各社から産業界に至るまで、共産党シンパの解雇者が続出した。
 同月5日、元陸軍参謀の辻政信の自伝『潜行三千里』が刊行され、ベストセラーとなる。「安吾史譚」の1篇「直江山城守」では、辻のことを「ハラン万丈の戦争狂、冒険狂」と呼び、「潜行」「三千里」の書名も作中でもじっている。
 同月25日、朝鮮戦争勃発。28日には北朝鮮軍が韓国の首都ソウルを占領。翌月、米軍を中心とする国連軍が韓国側を支援して参戦。1953年7月の休戦協定まで続く。
 同月26日、伊藤整訳『チャタレイ夫人の恋人』が猥褻文書として摘発される。9月に訳者と出版社が起訴された。安吾は翌年5月の第1回公判と翌々年1月の判決公判を傍聴し、裁判の不当を再三告発している。
 7月2日、金閣寺が同寺徒弟僧の放火により焼失。
 同月8日、自衛隊の前身である警察予備隊が発足。
 8月31日、辻亮一「異邦人」が芥川賞受賞。
 9月22日、日大ギャング事件。日本大学職員の青年山際浩之による強盗事件で、24日後に逮捕された山際が「オー、ミステイク」と叫んだのが流行語になる。安吾は『夕刊読売』に載った山際の獄中手記を読んで、「我が人生観」第6回に感想を記している。
 10月23日、公職追放指定者のうち1万余人が追放解除となる。

1951(昭和26)年
45歳

国税局・伊東競輪との闘い

 1月1日、読売新聞社の企画で旅客機の戦後初飛行に搭乗。同月20日から22日まで「安吾の新日本地理」の取材で伊勢神宮に赴く。同月、税金滞納のため『現代忍術伝』および『安吾巷談』の初版印税が差押えられる。この頃、身の回りの世話をしてくれていた高橋旦が銀座出版社に就職したため、家政婦をもう1人雇うが、まもなく盗癖が発覚して解雇。
 2月、「安吾巷談」が文藝春秋読者賞を受賞。同月13日、第24回芥川賞選考会に出席。翌14日から大阪へ取材旅行。追って檀一雄が来阪、織田作之助ゆかりのバーなどを回る。
 3月、伊東に競輪場ができ、三千代とともに通うようになる。同月15日から18日まで仙台へ取材旅行。この頃から古代史関係の調査研究を進め、綿密にメモをとっていく。
 4月8日、第2回伊東競輪最終日で9420円の大穴に当たる。同月20日から21日頃まで吉野、熊野へ取材旅行。同月27日、松竹製作の映画「天明太郎」(池田忠雄監督、佐野周二、月丘夢路主演)が公開される。
 5月8日、東京地方裁判所で開かれたチャタレイ裁判第1回公判を傍聴。同月中旬、噴火のあった大島を取材。26日、留守の間に、税金滞納のため家財と蔵書一切が差押えられる。商売道具の蔵書を差押えられたことと、自分の留守に慌ただしく実行されたことに対する怒りから対策を講じはじめる。28日、川端康成の紹介でコリーの仔犬を買い、ラモー二世と命名。売り手が約束外の代金を請求してきたため、翌日、内容証明郵便を出す。熱海税務署員との対応を考え「税務署対策ノート」を作成するが、6月1日、訪れた税務署員とは穏やかなやりとりに終わって拍子抜けする。
 6月5日、東京国税局へ赴き、徴収部長の廉隅伝次(かどすみ・でんじ)と面会、蔵書の差押え処分取消だけはあっさり認められる。
 6月7日、瓶山事件が起こり、翌日、尾崎士郎とともに現場を取材に出向き、「安吾捕物推理」「孤立殺人事件」などで事件を検証する。12日、死後の三千代の権利を守るため「遺言状」をしたため、尾崎士郎に証人になってもらう。18日、蔵書の差押え処分取消はすでに認められていたが、公式手続きとして「滞納処分に対する再調査願」を提出。20日に長崎へ旅立つ。25日の「負ケラレマセン勝ツマデハ」発表に伴い、印税と原稿料の差押え攻勢が強化される。廉隅伝次が『ファイナンス・ダイジェスト』8月号に「坂口安吾氏に与う」と題して反論を掲載する。26日、星啓二なる被告人の某猥褻文書裁判への出頭を求める「証人召喚状」が届く。チャタレイ裁判の不当告発の文章などから関連づけて名指しされたものと思われるが、赤の他人の証人として出頭命令を受け、断れば勾引するとの脅しが入っていたことに怒り、翌日、出頭拒否の書状を送る。
 7月中旬、飛騨へ取材旅行。同月30日、第25回芥川賞選考会があったが欠席。
 8月29日、熱海税務署へ税額見直しを求める「陳情書」を郵送、この文書はその後、東京国税局へ転送される。なお「陳情書」冒頭に、昭和22年度の所得税56万円、23年度70万円、24年113万円、と記載されているが、坂口家に遺されていた資料によると、これらの金額は「税額」ではなく「所得額」の写し間違いのようである。資料は「陳情書」の書き方見本として安吾がもらったメモと思われ、上部に「日本政府」、右下欄外に「名古屋国税局」と印字された縦書き用便箋3枚。そこには次のように書かれていた。
 「二二年度所得税 所得額 五六〇、〇〇〇円 税額 二八二、〇〇〇円」
 「二三年度所得税  〃  七〇〇、〇〇〇円 〃  三六六、〇〇〇円」
 「二四年度所得税  〃 一、一三〇、〇〇〇円 〃  五九四、〇〇〇円」
 9月10日頃から中頃まで秋田へ取材旅行。この間、大井広介が東京国税局へ赴き、安吾になりかわって仲裁をすべく廉隅らと会うが、特に進展はなし。
 同月16日、福田蘭童と三千代と3人で伊東競輪へ遊びに行った折、第12レースの写真判定に不正があったと3人とも気づく。写真を加工して1着と2着とがすり替えられたと確信し、20日、静岡地方検察庁沼津支部に告発状を提出、各紙で大々的に報道される。しかし、判定写真はどれも不鮮明で汚れやキズも多いため、証拠にはならない。マスコミは錯覚説をとる論調が多くなり、しだいに被害妄想をいだきはじめる。
 10月半ば頃、競輪のボスに命を狙われていると言って怯えたようすを見せるようになり、三千代とコリー犬のラモー、檀一雄、新潮社の小林博、文藝春秋新社の中野修を連れて、2台の車で大井広介宅へ向かう。その夜来訪した石川淳と大井には諭されるばかりで、望むとおりの協力を得られず、翌日から約1カ月、檀一雄宅に身を潜めることになる。檀宅へ移って間もない19日に大井広介から事を茶化したようなハガキが届く。差出人名は「金田一探偵事務所」で、宛名は「明智小五郎」。これがもとで大井とはついに絶交することになる。
 10月18日、檀と文春の中野修と3人で埼玉の高麗神社を取材。祭りの前日だったため、翌日再び、カメラマン同道で取材に赴く。競輪事件の顛末を記し、証拠写真のグラビア付きで出版する計画を立てる。
 11月4日、多量のアドルムを服用したため半狂乱に陥り、檀宅へライスカレーを百人前注文させる。同月16日、極秘裡に向島の三千代の実家へ移る。以後3カ月半を三千代の娘の正子、母の松、妹の嘉寿子、弟の達介たちと過ごすことになる。
 12月5日、競輪事件について弁護士2人を代理人に立てる旨の審議委任状を静岡地検沼津支部に提出。翌6日、地検支部長の田上上席検事が「伊東競輪に不正はない」と発表、不起訴処分が決定する。それでもなお、秘書役の渡辺彰を各写真専門機関に派して鑑定以来を頼み、同月下旬には南川潤を頼って群馬県桐生市まで渡辺と弁護士2人を赴かせる。南川は、在野の考古学者で群馬大学に勤めている周東隆一に相談、群大工学部で写真を精密に調査してもらうが証拠はつかめず、渡辺らを帰す。やるべきことはすべてやったと安吾の気持ちにも整理がつき、競輪事件に自らけりをつける。
 12月25日、日本近代文学研究会編『現代日本小説大系』54「昭和10年代9」(河出書房刊)に「風博士」「黒谷村」が収録される。
 この年ごろ、「〔鑑定〕」「〔呉清源について〕」を執筆するが生前未発表。

◆発表作品等

 1月、「月日の話」(『読売新聞』1日)
    対談「青春対談」(『キング』)
    鼎談「戦前・戦後派を語る」(『新潟日報』他 1~3日)
    「新春・日本の空を飛ぶ」(『読売新聞』3日)
 2月、「わが工夫せるオジヤ」(『美しい暮しの手帖』)
    「戦後合格者」(『新潮』)
    「武者ぶるい論」(『月刊読売』号外版)
    「日本の危機に備えて〔アンケート〕」(同)
 3月、「人生三つの愉しみ」(『新潮』)
    「“能筆ジム”」(『財政』)
    「受賞のことば〔文藝春秋読者賞〕」(『文藝春秋』)
    座談会「世相放談」(『モダンロマンス』)
    「安吾の新日本地理」(『文藝春秋』12月まで連載)
    「九段」(『別冊文藝春秋』)
    「悲しい新風」(『読売新聞』5日)
    「日本の水を濁らすな」(『読売新聞』12日)
    「小林さんと私のツキアイ」(『小林秀雄全集』第8巻月報)
    「飛燕流開祖〔落語・教祖列伝4〕」(『オール読物』)
    インタヴュー「美人のいない街」(『河北新報』19日)
    インタヴュー「月の浦を書きたい」(『夕刊とうほく』21日)
 4月、「安吾人生案内」(『オール讀物』12月まで連載)
    「『最後の人』だけ〔第24回芥川賞選後評〕」(『文藝春秋』)
    「フシギな女」(『新潮』5月まで連載)
    「誠実な実験者・マ元帥」(『読売新聞』16日)
 5月、「熊沢天皇を争うべからず」(『読売新聞』7日)
    「裁かれるチャタレイ夫人」(『読売新聞』9日)
    「新魔法使い」(『別冊文藝春秋』)
    「被告席の感情」(『読売新聞』21日)
    「真説 石川五右衛門『後編』に期待す」(『新大阪』31日)
 6月、「或る選挙風景」(『新潮』)
    翻訳 ロイ・ヴィカース「組立殺人事件」(『小説朝日』)
    「安吾捕物推理」(『夕刊読売』静岡版 9日)
    「負ケラレマセン勝ツマデハ」(『中央公論・文芸特集』)
 7月、「チッポケな斧」(『新潮』)
    鼎談「日本の生活を叱る」(『オール讀物』)
    「膝が走る」(『別冊文藝春秋』)
    鼎談「呉・藤澤十番碁を語る」(『読売新聞』4日)
    「『大国主命』」(『読売新聞』9日)
 8月、「女忍術使い」(『文學界』)
    「孤立殺人事件」(『新潮』)
 9月、「飛騨の顔」(『別冊文藝春秋』)
    「戦後文章論」(『新潮』)
    「これぞ天下の一大事」(『読売新聞』1日)
    インタヴュー「秋田犬を見に」(『秋田魁新報』12日)
 10月、「『ガラスの靴』〔第25回芥川賞選後評〕」(『文藝春秋』)
    「歴史探偵方法論」(『新潮』未完)
    「大好物(10)」(『新大阪』27日)
 11月、「光を覆うものなし」(『新潮』)
    座談会「サムライ日本!!」(『オール讀物』)
    「私は地下へもぐらない」(『東京新聞』25日)
 12月、「風流」(『新潮』)

◆書簡

 01/01 倉島竹二郎より来簡
 01月初め頃 尾崎一雄
 01/07 金川太郎より来簡
 01/07 南川潤より来簡
 01/08 岩田豊雄より来簡
 01/25 岩田豊雄より来簡
 01/31 岩田豊雄より来簡
 01月頃 尾崎士郎より来簡
 02/03 倉島竹二郎より来簡
 02/06 尾崎一雄より来簡
 02/06 火野葦平より来簡
 02/15 南川潤より来簡
 02月頃 野上彰より来簡
 03/06 三好達治より来簡
 03/07 八木岡英治より来簡
 04/06 井上良より来簡
 04/07 小林博より来簡
 05/03 大井広介より来簡
 05/07 赤沢正二より来簡
 06/04 井上良より来簡
 06/12 尾崎士郎宛
 06/12 池島信平より来簡
 06/27 岩田豊雄より来簡
 06/28 大井広介より来簡
 06/28 谷丹三より来簡
 06月下旬 大井広介より来簡
 07/06 笹原金次郎より来簡
 07/07 大井広介より来簡
 07/23 吉井三郎より来簡
 07/25 黒田秀俊より来簡
 08/03 大井広介より来簡
 08/03 伊藤克己より来簡
 08/12 金沢慎二郎より来簡
 08/25 荒正人より来簡
 08/27 大井広介より来簡
 08/31 大井広介より来簡
 09/02 大井広介より来簡
 09/17 大井広介より来簡
 09月頃 尾崎士郎より来簡
 10/07 伊藤克己より来簡
 10/19 大井広介より来簡
 10/20 井上一彦より来簡
 10月下旬 サトウ・ハチロー宛 225
 10~11月頃 眞鍋呉夫宛
 10~11月頃 大井広介より来簡
 11/06 滝川政次郎より来簡
 12/02 檀よそ子より来簡
 12/14 滝川政次郎より来簡

◆世相・文化

 1月、大岡昇平が「野火」を、三島由紀夫が「禁色」を発表。
 2月、本多秋五が「『白樺』派の文学」を発表。
 4月11日、マッカーサーが突然解任され、16日にアメリカへ帰国。
 同月21日、民放16社にラジオ放送の予備免許が与えられる。
 7月6日、マリアナ諸島の孤島アナタハン島で、敗戦も知らずに7年間暮らしていた男性19人が帰国。当初32人の男性がいたが、たった1人の女性比嘉和子(前年に救助されていた)をめぐって殺し合いが起こったと徐々にわかり、「アナタハンの女王事件」と呼ばれた。安吾は1953年発表の「都会の中の孤島」冒頭で、この事件を象徴的に語っている。
 7月30日、安部公房「壁――S・カルマ氏の犯罪」と石川利光「春の草」その他が芥川賞受賞。安吾は候補作の安岡章太郎「ガラスの靴」を強く推した。
 9月1日、中部日本放送と新日本放送(現在の毎日放送)が日本初の民間ラジオ放送を開始。安吾の長兄献吉は同月、上京して共同通信社や各代理店を歴訪。電通の友人吉田秀雄社長に会い、ラジオ東京ほか各機関をまわって調査した結果、確信を得て帰社早々に新潟日報社役員会にラジオ新潟開局を提案、反対意見を圧して決議する。
 同月8日、サンフランシスコ講和条約調印。同日、場所を移して日米安保条約を結ぶ。
 12月、吉行淳之介が「原色の街」を発表。

>1952(昭和27)年
46歳

桐生へ転居、「信長」連載開始

 1月18日、チャタレイ裁判の判決公判を傍聴。21日、第26回芥川賞選考会があったが欠席する。同月末頃、競輪写真の鑑定で力を尽くしてくれた桐生のv宅へお礼に出向く。この時、周東隆一や織物組合理事長の境野武夫らと知り合い、洋食屋「芭蕉」で宴会のあと、南川宅に1泊。境野や周東が地元の古墳など考古学に詳しいのに興味をひかれたことなどもあって、桐生へ引っ越したいので家を探してほしいと南川に頼む。
 2月29日、南川潤らの尽力で群馬県桐生市本町2丁目266番地の織物買継王とよばれた書上文左衛門邸の母屋に転居。南川潤の紹介で戸泉祐治を秘書に雇う。また、家政婦として18歳ぐらいの娘を雇う。やがて周東隆一や境野武夫らと周辺の古墳めぐりを始め、毎週水曜日には彼らや南川を招んで酒宴を開く。
 3月6日、「〔升田幸三の陣屋事件について〕」を執筆し『週刊朝日』に送るが、新聞社批判の内容を含むため敬遠され掲載不可となる。編集長扇谷正造の謝罪文を持参した記者宇野智子を歓待し1泊させる。
 4月26日から5月15日まで「朝鮮会談に関する日記」を原稿用紙に執筆するが生前未発表。
 4月、長兄献吉がラジオ新潟発起人総会を開くが出資者は集まらず、新潟県知事、県下の各市役所、各党の県議宅、議員控室、議会まで赴いて公共的事業であるからと説得して回り、8月には血圧が上がって一歩も歩けなくなってしまう。
 7月25日、第27回芥川賞選考会に出席。
 8月頃、「信長」の新聞連載を引き受け、以後これに集中する。
 9月頃、『新日本文学』で中野重治との対談が企画され、中野と花田清輝が桐生来訪。対談後は南川潤も交えて4人で歓談、花田のみ1泊する。
 9月30日、日本文芸家協会編『創作代表選集』10・昭和27年前期(大日本雄弁会講談社刊)に「夜長姫と耳男」が収録される。
 10月、献吉がラジオ新潟(のちの新潟放送)創立、取締役社長に就任。新潟市古町七番町954番地の大和百貨店7階を演奏所(番組編成・制作・送出を行う事実上の本部)とし、12月25日から本放送開始。24日の前夜祭放送を病床のラジオで聞く。
 11月、三千代と書上文左衛門と3人でゴルフを始め、毎週木曜にコーチを招き、ときどき群馬県太田市のゴルフ場へ赴く。同月下旬、東洋大学新聞学会から大学時代の思い出を書いてほしいと依頼があり、編集部員の学生山本尊子が来訪、ゴルフ練習などで歓待し、夜はえびす講の祭りを皆で見物して1泊させる。
 この年以降、小説「〔織姫の誘惑〕」を書きかけたが中断。また、桐生時代にはコリー種の雑種犬マユをラモー二世の嫁にあてがって、この2匹を座敷で放し飼いにし、やはりコリー種のポニーとシェパードのアシルとを外で飼う。三千代の妊娠がわかって以降は、男子高校生をアルバイトに雇って、朝晩ラモーらの散歩をさせる。

◆発表作品等

 1月、「安吾行状日記」(『新潮』4月まで連載)
    「安吾史譚」(『オール讀物』7月まで連載)
    「茶の間はガラあき」(『読売新聞』17日)
    「チャタレイ傍聴記」(『読売新聞』19日)
 2月、「見事な整理」(『週刊朝日』3日)
    「松江市邦楽界に寄す」(『島根新聞』20日)
 3月、「選後感〔第26回芥川賞選後評〕」(『文藝春秋』)
    「親が捨てられる世相」(『週刊朝日』25日)
 6月、「夜長姫と耳男」(『新潮』)
    「タコをあげる六月の空」(『読売新聞』9日)
    「時評的書評」(『読売新聞』夕刊 23日~10月11日まで断続連載)
 7月、座談会「文学者の見た十年間」(『新潮』)
 8月、「世紀の死闘」(『オール讀物』)
    「幽霊」(『別冊文藝春秋』)
 9月、「漂流記」(『オール讀物』)
    「輸血」(『新潮』)
    「選後感〔第27回芥川賞選後評〕」(『文藝春秋』)
 10月、「もう軍備はいらない」(『文學界』)
    「『信長』作者のことば」(『新大阪』1日)
    「信長」(『新大阪』7日~翌年3月8日まで連載)
 11月、対談「幸福について」(『新日本文学』)
 12月、「腕相撲と原子爆弾」(『朝日新聞』13日)

◆書簡

 01/01 井上一彦より来簡
 02/16 眞鍋呉夫より来簡
 03月上旬 扇谷正造より来簡
 03/10 菅原国隆より来簡
 03/14 桔梗利一より来簡
 03/15 岩田豊雄より来簡
 03/15 宇野智子より来簡
 03/17 扇谷正造より来簡
 03/24 菅原国隆より来簡
 04/21 中河与一より来簡
 05/22 平山信義より来簡
 06/15 坂口献吉より来簡
 06/19 三好達治より来簡
 06月頃 平山信義より来簡
 08月頃 平山信義より来簡
 09/12 平山信義より来簡
 10/07 安西啓明より来簡
 10/09 花田清輝より来簡
 10/27 平山信義より来簡
 11/18 伊奈良信より来簡
 11/25 山本尊子より来簡
 12/22 坂口献吉より来簡
 52~53年04月18日 南川潤より来簡
 52~54年04月27日 滝川政次郎より来簡

◆世相・文化

 1月、武田泰淳が「風媒花」を発表。伊藤整が「日本文壇史」の長期連載を開始。同月21日、堀田善衛「広場の孤独」「漢奸」その他が芥川賞受賞。
 2月、野間宏『真空地帯』、川端康成『千羽鶴』刊行。壺井栄が「二十四の瞳」を発表。
 4月28日、サンフランシスコ講和条約発効に伴い、アメリカの占領が終わる。
 5月1日、血のメーデー事件。デモ隊に警官隊が発砲し、2人死亡、負傷者2000人を超える大惨事となった。
 6月、奥野健男が「太宰治論」を発表。谷川俊太郎が処女詩集『二十億光年の孤独』を刊行。7月、阿川弘之『春の城』刊行。8月、吉田満『戦艦大和ノ最期』刊行。
 11月1日、アメリカがエニウェトク環礁で人類初の水爆実験に成功。
 12月、小島信夫が「小銃」を発表。

1953(昭和28)年
47歳

留置場で聞く長男誕生

 1月17日、地元の作家浅田晃彦の案内で馬庭念流道場の鏡開きを見学。同月22日、第28回芥川賞選考会に出席。
 3月5日、『西日本新聞』に連載中の「明日は天気になれ」を『新大阪』が無断で転載する予定だという話を聞き、新大阪新聞社社長宛に「いかなる形式の転載も許可しません」と明記して内容証明郵便で送りつける。『新大阪』に連載中だった「信長」は3月8日に桶狭間の戦いの勝利を一区切りとして中断したが、続きが書き継がれなかった理由の一端には同新聞社への不信もあったかもしれない。
 4月10日、伊藤整・臼井吉見ほか編『年刊日本文学』昭和27年度(筑摩書房刊)に「夜長姫と耳男」が収録される。20日、日本文芸家協会編『戯曲代表選集』1(白水社刊)に「輸血」が収録される。
 5月、『明治開化 安吾捕物帖』第2集の印税すべてが当初の約束に違反して東京国税局へ納められてしまったため、第3集の検印を拒否、年末に田辺茂一が仲介役となって訪れるまでもつれる。
 同月20日、亀井勝1郎編『平和の探求』(河出書房刊)に「もう軍備はいらない」が収録される。
 同月、檀一雄の友人で作品社社長の山内文三と、その友人の歌人松葉直助とともに栃木県足利市の古墳めぐりをし、足利に自邸建築の計画を立てる。6月中旬、山内から好適地の連絡を受け、来訪した檀一雄と三千代とともに見に行く。建築寸前になるまで現実的に計画されたが、当時失費続きで見合わせる。
 6月、献吉が老朽化した蒲田の家を取り壊すことを決める。妹の竹花夫妻のために小さめの家を新築するか、別の所に買い求めるかを安吾に相談する。(この土地はその後、新潟日報東京支社の社員寮として利用された。1979年4月2日に家屋が取り壊され、駐車場に変わった。そこに唯一残されたゆかりの門柱は、安吾が1年間代用教員をつとめた代沢小学校に2007年に移築された。)
 6月末か7月初め頃、東京でアドルムを服用、帰宅後暴れだす。三千代が南川潤宅へ避難したことに怒り、ゴルフクラブを持って南川宅へ殴り込みに行く。この事件を機に2人は絶交。後に境野武夫の仲介で南川との絶交状態だけは表面上解けるが、めったに会うことはなくなる。
 7月20日、第29回芥川賞選考会に出席。同月下旬に中部日本新聞社の招待により尾崎士郎、檀一雄とともに名古屋・岐阜を旅行する予定だったが、大雨で長良川増水のため延期となる。代わりに25日から8月5日頃まで、「決戦川中島」の企画で檀一雄と新潟から松本へ取材旅行。松本の平島温泉ホテルに逗留中、檀の留守中に荒れだし、ついには留置場に入れられる。
 8月6日、長男綱男誕生。そのしらせを留置場から出てすぐに聞かされる。同月10日すぎに帰宅。20日、カフェ・パリスで乱暴行為に及び桐生署の留置場へ入れられる。この事件は地元紙だけでなく全国紙各紙でも報じられた。24日、桐生市長宛の詫び状、三千代との婚姻届、長男出生届を市役所に提出。
 12月25日、日本文芸家協会編『創作代表選集』12・昭和28年前期(大日本雄弁会講談社刊)に「牛」が収録される。

◆発表作品等

 1月、「犯人」(『群像』)
    「明日は天気になれ」(『西日本新聞』2日~4月13日まで連載)
    「屋根裏の犯人」(『キング』)
 3月、「都会の中の孤島」(『小説新潮』)
    「感想〔第28回芥川賞選後評〕」(『文藝春秋』)
    「上野図書館に寄せる回顧と希望」(『上野図書館八十年略史・別冊』)
 4月、「南京虫殺人事件」(『キング』)
    「牛」(『文藝春秋』)
    「馬庭念流のこと」(『上毛警友』)
    「文芸時評」(『新潮』8月まで連載)
    連作短篇集『明治開化 安吾捕物帖』第1集 日本出版協同刊
 5月、長篇『信長』筑摩書房刊
    連作短篇集『明治開化 安吾捕物帖』第2集 日本出版協同刊
 6月、「梟雄」(『文藝春秋』)
    「選挙殺人事件」(『小説新潮』)
    「中庸」(『群像』)
 7月、「作家の言葉」(『小説新潮』)
    「〔石川淳「鷹」推薦文〕」(石川淳『鷹』オビ)
 8月、「山の神殺人」(『講談倶楽部』)
    「正午の殺人」(『小説新潮』)
    「決戦川中島 上杉謙信の巻」(『別冊文藝春秋』)
 9月、「人生オペラ 第2回 吝嗇神の宿」(『小説新潮』)
    「神サマを生んだ人々」(『キング』)
    「淋しい可憐な〔第29回芥川賞選後評〕」(『文藝春秋』)
    「影のない犯人」(『別冊小説新潮』)
 11月、「幽霊それから〔乞食幽霊〕」(『群像』)
    「砂丘の幻」(『小説新潮』)
    「発掘した美女」(『講談倶楽部』)
 12月、「町内の二天才」(『キング』)
    短篇集『夜長姫と耳男』大日本雄弁会講談社刊

◆書簡

 53/01/20 永井利彦より来簡
 02/07 早川徳治宛
 02/11 森川信より来簡
 02/14 菅原国隆より来簡
 02/23 菅原国隆より来簡
 02月頃 松本清張より来簡
 03/03 永井利彦より来簡
 03/08 永井利彦より来簡
 03/10 安西啓明より来簡
 03/24 田川博一より来簡
 05/10 眞鍋呉夫より来簡
 05/20 尾崎一雄より来簡
 05/21 滝川政次郎より来簡
 05/22 尾崎士郎宛
 05/23 小林博より来簡
 05/27 荒正人より来簡
 05/28 花田清輝より来簡
 05/29 尾崎士郎より来簡
 06/04 石井立より来簡
 06/07 山内文三より来簡
 06/11 石井立より来簡
 06/13 山内文三より来簡
 06/19 竹之内静雄より来簡
 06/29 土井一正より来簡
 07/11 尾崎士郎より来簡
 07/23 尾崎士郎より来簡
 08/18夜 渡辺彰より来簡
 08/19 原田裕より来簡
 08/21 野上彰より来簡
 08/24 桐生市長宛
 08/24 田川博一より来簡
 08/27 原田裕より来簡
 09/29 尾崎士郎より来簡
 10/05 境野武夫より来簡
 11/08 松本清張より来簡
 12/18 小林博より来簡

◆世相・文化

 1月22日、五味康祐「喪神」と松本清張「或る『小倉日記』伝」が芥川賞受賞。両作品を強く推したのは安吾で、五味については「日本古来の伝承的話術」にのっとりながら「極めて独創的な造型力によって構成された作品」と賞讃、松本については「殺人犯人をも追跡しうる自在な力」があると評した。
 2月1日、日本初のテレビ本放送がNHK東京より放映される。受像機は非常に高価で、街頭テレビに人が集まった。
 7月、石川淳『鷹』刊行。安吾は本のオビに推薦文を寄稿している。
 同月20日、安岡章太郎「悪い仲間」「陰気な愉しみ」が芥川賞受賞。安吾は前回までの安岡の候補作ほどは評価しなかったが、「実に淋しい小説だ。せつない小説である。しかし、可憐な、愛すべき小説である」と讃辞を惜しまなかった。安岡は遠藤周作や小島信夫、庄野潤三、阿川弘之、吉行淳之介らとともに第三の新人と呼ばれる。
 同月27日、北朝鮮と韓国との間で休戦協定が調印される。
 8月12日、前年のアメリカに続き、ソ連が水爆実験に成功。

>1954(昭和29)年
48歳

10月から3回新潟を訪れる

 1月17日、『講談倶楽部』の河角剛とカメラマンを連れて馬庭念流道場の鏡開きを再取材。同月22日、第30回芥川賞選考会に出席。
 3月31日、家政婦として中学卒業したばかりの近藤絹子を雇う。翌日にはもう1人来て家政婦が3人になるが、その娘は秋頃に辞め、以前からいた娘も夏に辞めて絹子1人になる。絹子は安吾没後も含めて12年間、坂口家の世話をすることになる。
 4月5日、井伏鱒二編『若き日の旅』(河出書房刊)に「長崎チャンポン」が収録される。
 5月、『読売新聞』掲載予定だった「工員ゴルフ」が未発表に終わる。
 同月、献吉が日本民間放送連盟監事、早稲田大学評議員を兼任。
 7月21日、第31回芥川賞選考会があったが欠席し、8月初め、選考のあり方に疑義を感じて選考委員を辞任。
 8月3日から6日頃まで伊香保温泉金太夫旅館に滞在。気に入ってその後伊香保で執筆することが多くなる。
 9月5日、『現代日本文学全集』49「石川淳・坂口安吾・太宰治集」が筑摩書房から刊行され、「風博士」「白痴」「桜の森の満開の下」「青鬼の褌を洗ふ女」「夜長姫と耳男」「日本文化私観」「堕落論」を収録、扉ウラに「花の下には風吹くばかり」と揮毫した色紙を収載。
 10月1日、亡父母の法要のため三千代、綱男を連れて新潟に帰省。2日、法要の日の朝、献吉が社長を務める新潟放送のインタビュー番組「朝の応接室」に出演。
 同月15日、日本文芸家協会編『創作代表選集』14・昭和29年前期(大日本雄弁会講談社刊)に「保久呂天皇」が収録される。
 11月上旬、伊豆川奈で行われた読売新聞社主催の文壇ゴルフ会に参加。同月30日、『小説新潮』のグラビア企画「作家故郷へ行く」のため、編集者小林博、カメラマン濱谷浩とともに新潟市内を回り、その夜、新潟日報社新社屋落成記念の講演会で尾崎士郎とともに講演。
 12月、「輸血」(1952年9月発表の戯曲)が炎の会により渋谷公会堂にて上演される。
 12月頃、新潮社主催のゴルフ会に参加。同月中旬、宮崎へ取材旅行。

◆発表作品等

 1月、「餅のタタリ」(『講談倶楽部』)
    「ヒノエウマの話」(『新潟日報』3日)
    連作短篇集『明治開化 安吾捕物帖』第3集 日本出版協同刊
 2月、「目立たない人」(『小説新潮』)
    『不連続殺人事件』〔再版〕春陽堂書店刊〈春陽文庫〉
 3月、「感想〔第30回芥川賞選後評〕」(『文藝春秋』)
    「桐生通信」(『読売新聞』11日~12月6日)
 4月、「人の子の親となりて」(『キング』)
    「安吾武者修業馬庭念流訪問記」(『講談倶楽部』)
    「握った手」(『小説新潮』)
 5月、「曾我の暴れん坊」(『キング』)
    「女剣士」(『小説新潮』)
    「安吾下田外史」(「歌劇・黒船」パンフレット)
 6月、「文化祭」(『小説新潮』)
    「保久呂天皇」(『群像』)
 7月、「左近の怒り」(『講談倶楽部』9月まで連載)
    「近況報告」(『別冊小説新潮』)
    「お奈良さま」(『別冊小説新潮』)
 8月、「ゴルフと「悪い仲間」」(『文學界』)
    「真書太閤記」(『知性』翌年4月まで断続連載)
    「花咲ける石」(『週刊朝日別冊』10日)
    インタヴュー「伊香保で聞く安吾の自負」(『上毛新聞』16日)
 9月、「裏切り」(『新潮』)
    「人生案内」(『キング』)
 10月、「往復書簡〔石川淳との往復書簡〕」(『新潮』)
    「心霊殺人事件」(『別冊小説新潮』)
 12月、「桂馬の幻想」(『小説新潮』)

◆書簡

 01/13 河角剛より来簡
 01/20 頼尊清隆より来簡
 01/26 境野武夫より来簡
 02/13夜 渡辺彰より来簡
 02/16 頼尊清隆より来簡
 03/01 頼尊清隆より来簡
 03月頃 小林博宛
 04/14 頼尊清隆より来簡
 04/22 野原一夫より来簡
 04/24 坂口献吉宛
 04/30 坂口献吉より来簡
 05/04 池島信平より来簡
 05/07 赤沢正二より来簡
 05/09 渡辺彰より来簡
 07/21 野原一夫より来簡
 夏頃 細川忠雄より来簡
 09/10 伊藤克己より来簡
 09/11 坂口献吉より来簡
 09/15 山内直孝より来簡
 09/25 坂口献吉より来簡
 10/02 岩田豊雄より来簡
 10/05朝 坂口献吉より来簡
 10/08 坂口献吉宛
 10/08 坂口献吉より来簡
 10/09 坂口献吉宛
 10/21 渡辺彰より来簡
 11/07 堀内悦夫より来簡
 11/13 細川忠雄より来簡
 11/16 淀橋太郎
 11/16 笹原金次郎より来簡
 11/16 坂口献吉より来簡
 11/20 坂口献吉宛
 11/22 伊藤克己より来簡
 11/27 谷丹三より来簡
 12/04 尾崎一雄宛
 12/23 笹原金次郎より来簡
 12月末頃 尾崎士郎より来簡

◆世相・文化

 3月1日、アメリカがビキニ環礁で水爆実験を行い、日本のマグロ漁船第五福竜丸が被曝。同月、武田泰淳が「ひかりごけ」を発表。
 4月、福永武彦『草の花』刊行。6月、三島由紀夫『潮騒』刊行。
 7月1日、自衛隊発足。同月21日、吉行淳之介「驟雨」その他が芥川賞受賞。
 12月9日、吉田茂第5次内閣が総辞職し、鳩山一郎が組閣。

1955(昭和30)年

愛妻へ最後の贈り物

 1月中旬、新潟、富山を取材旅行。
 2月、「心霊殺人事件」が第8回日本探偵作家クラブ賞候補作26篇のうちの1篇に選定される(16日の詮衡委員会で永瀬三吾「売国奴」が受賞作と決定)。
 2月3日、境野武夫が参議院議員選挙に社会党左派から立候補。その選挙事務所開きの日にお祝いに行き、祝辞を述べる。
 2月11日から高知へ取材旅行。15日に飛行機で東京に着く。桐生行きの電車が出るまで浅草の染太郎にいて、三千代とまだ1歳半の綱男と電話で話し、最終電車で帰宅。高知産のサンゴのネックレスとペンダントを三千代の誕生祝いにプレゼントする。その箱の裏に「土佐ニ日本産サンゴあり 土佐の地に行きてもとめ 三千代の誕生日におくる 一九五五 安吾」と揮毫したのが事実上の絶筆となる。発表作品としての絶筆には没後発表となったものが当てはまり、「安吾新日本風土記」「砂をかむ」「豊島さんのこと」「育児」「世に出るまで」「真書太閤記」がそれぞれ「絶筆」と称される。
 2月15日、『昭和文学全集』53「昭和短篇集」(角川書店刊)に「白痴」が収録される。
 2月17日早朝7時55分、桐生の自宅で脳出血により急逝。享年48(数え年では50歳)。
 2月18日に桐生で通夜が行われ、21日、尾崎士郎を葬儀委員長として、青山斎場にて無宗教の葬儀が営まれた。
 3月には屋久島へ、4月には飛行機で北海道へ取材旅行をする予定であった。また両地の取材をもとに、札幌から鹿児島までの通信網がカギになる探偵小説『いつもマントを着ていた』を書き下ろし刊行する予定もあったが、手つかずで終わる。
 5月23日、長兄献吉の妻の徳(のり)、安吾の妻三千代と長男綱男、三千代の母の松と妹嘉寿子の5人で大安寺の墓所へ行き納骨式を執り行う。5年後の1960年5月29日にも新潟の縁者のみで納骨式を行っている。
 同月27日、東銀座の東京温泉にて百ケ日法要が執り行われる。世話人は文春の池島信平。文壇関係者ら150人ぐらい集まる。池島と田辺茂一檀一雄が、これを第1回安吾忌とする旨、宣言。これにより三回忌が第3回安吾忌というように、数字が一致することになる。
 安吾文学碑の建立については、献吉が翌1956年から寄付金を募り、1957年6月30日、新潟市寄居浜にある護国神社内に建立された。碑文は発起人の尾崎士郎、檀一雄らと相談の上、「ふるさとは語ることなし 安吾」と揮毫された色紙がもとになった。

◆発表作品等

 1月、「狂人遺書」(『中央公論』)
    「『安吾・新日本風土記』(仮題)について」(『中央公論』)
    対談「やァこんにちわ」(『週刊読売』30日)
 2月、「能面の秘密」(『小説新潮』)
    「安吾新日本風土記」(『中央公論』3月まで連載)
    「諦めている子供たち」(『暮しの手帖』)
 3月、「砂をかむ」(『風報』)
    「豊島さんのこと」(筑摩『現代日本文学全集』40 月報)
    長篇『信長』〔再版〕筑摩書房刊
    短篇&エッセイ集『狂人遺書』中央公論社刊
    短篇集『保久呂天皇』大日本雄弁会講談社刊
 4月、「育児」(『婦人公論』)
    「世に出るまで」(『小説新潮』)
    「青い絨毯」(『中央公論』)
    エッセイ集『明日は天気になれ』池田書店刊
    エッセイ集『堕落論』〔49年版の再版〕現代社刊
    長篇『真書太閤記』河出書房刊

◆書簡

 01/01 坂口三千代宛
 01/01 坂口綱男宛
 01/09 尾崎一雄より来簡
 01/10 尾崎一雄宛
 02/08 尾崎一雄より来簡
 02/08 野原一夫より来簡
 02/09 小柳胖宛
 ?/03/05 火野葦平より来簡

◆世相・文化

1月22日、小島信夫「アメリカン・スクール」と庄野潤三「プールサイド小景」が芥川賞受賞。

  【主要参考文献】
 『坂口安吾選集』全九巻 一九四七~四八年 銀座出版社
 『坂口安吾選集』全八巻 一九五六~五七年 東京創元社
 『定本坂口安吾全集』全十三巻 一九六七~七一年 冬樹社
 『坂口安吾選集』全十二巻 一九八二~八三年 講談社
 『坂口安吾全集』全十八巻 一九八九~九一年 ちくま文庫
 阪口五峰『北越詩話』上下 一九一九年 目黒甚七・目黒十郎
 同著復刻版「解題・索引」一九九〇年 国書刊行会
 朝日新聞社編『運動年鑑大正十四年度』一九二五年 朝日新聞社
 阪口献吉編『五峰余影』一九二九年 新潟新聞社
 同著増補版附録「坂口家の系図について」
 田村泰次郎『肉体の文学』一九四八年 朝明書院
 清水崑『筆をかついで』一九五一年 東京創元社
 織田昭子『マダム』一九五六年 三笠書房
 小山清編『太宰治研究』一九五六年 筑摩書房
 中村地平『卓上の虹』一九五六年 日向日日新聞社
 大井広介『バカの一つおぼえ』一九五七年 近代生活社
 野上彰『囲碁太平記』一九六三年 河出書房新社
 田村泰次郎『わが文壇青春記』一九六三年 新潮社
 坂口守二『治右衛門とその末裔』一九六六年 新潟日報事業社
 『坂口献吉追悼録』一九六六年 BSN新潟放送&新潟日報社
 中山義秀『私の文壇風月』一九六六年 講談社
 岡本功司『人生劇場主人尾崎士郎』一九六六年 永田書房
 『尾崎士郎全集』全十二巻 一九六五~六六年 講談社
 三枝佐枝子『女性編集者』一九六七年 筑摩書房
 大井広介「坂口安吾伝」(現代日本文学館27『梶井基次郎・中島敦・坂口安吾』)一九六八年 文藝春秋
 檀一雄『小説坂口安吾』一九六九年 東洋出版
 浅田晃彦『坂口安吾桐生日記』一九六九年 上毛新聞社
 檀一雄『太宰と安吾』一九六九年 虎見書房
 『尾崎士郎書簡筆滴』一九六九年 インパルス
 「織田作之助・田中英光・坂口安吾三人展」図録 一九六九年 毎日新聞社
 『中原中也全集』全六巻 一九六七~七一年 角川書店
 織田昭子『わたしの織田作之助』一九七一年 サンケイ新聞社
 関井光男「伝記的年譜」(『定本坂口安吾全集』第十三巻)一九七一年 冬樹社
 関井光男編『坂口安吾研究』全二冊 一九七二~七三年 冬樹社
 若園清太郎『わが坂口安吾』一九七六年 昭和出版
 新潟県郷土作家叢書『坂口安吾』一九七六年 野島出版
 『定本織田作之助全集』第八巻 一九七六年 文泉堂書店
 井上友一郎『泥絵の自画像』一九七七年 エポナ出版
 中島健蔵『疾風怒濤の巻―回想の文学1 昭和初年―八年』一九七七年 平凡社
 島田昭男『昭和作家論―異端・無頼の系譜』一九七七年 審美社
 池島信平『雑誌記者』一九七七年 中公文庫
 日本近代文学館編『日本近代文学大事典』全六巻 一九七七~七八年 講談社
 近藤富枝『花蔭の人―矢田津世子の生涯』一九七八年 講談社
 青山光二『青春の賭け』一九七八年 中公文庫
 河上徹太郎『厳島閑談』一九八〇年 新潮社
 久保田芳太郎・島田昭男・伴悦・矢島道弘編『無頼文学辞典』一九八〇年 東京堂出版
 坂口三千代『安吾追想』一九八一年 冬樹社
 頼尊清隆『ある文芸記者の回想』一九八一年 冬樹社
 大岡昇平『生と歌―中原中也その後』一九八二年 角川書店
 森敦『わが青春わが放浪』一九八二年 福武書店
 明治文学全集62『明治漢詩文集』一九八三年 筑摩書房
 佐々木基一『昭和文学交友記』一九八三年 新潮社
 淀橋太郎ほか『染太郎の世界』一九八三年 かのう書房
 佐々木基一『同時代の作家たち その風貌』一九八四年 花曜社
 杉森久英『小説坂口安吾』一九八四年 河出文庫
 浅子逸男『坂口安吾私論―虚空に舞う花』一九八五年 有精堂
 『尾崎一雄全集』全十五巻 一九八二~八六年 筑摩書房
 『新潮日本文学アルバム・坂口安吾』一九八六年 新潮社
 村上護『安吾風来記』一九八六年 新書館
 野原一夫『人間檀一雄』一九八六年 新潮社
 小川弘幸編『甦る坂口安吾』一九八六年 神田印刷企画室
 浅田晃彦『安吾・潤・魚心』一九八六年 奈良書店
 「生誕八十年坂口安吾・文学フェスティバル」図録 一九八六年 新潟日報社
 久保田芳太郎・矢島道弘編『坂口安吾研究講座』全三冊 一九八四~八七年 三弥井書店
 若月忠信『資料坂口安吾』一九八八年 武蔵野書房
 林忠彦『文士の時代』一九八八年 朝日文庫
 坂口三千代『クラクラ日記』一九八九年 ちくま文庫
 牛山剛『詩に生き碁に生き―野上彰小伝』一九九〇年 踏青社
 柳沢孝子『牧野信一―イデアの猟人』一九九〇年 小沢書店
 『文藝春秋七十年史』一九九一年 文藝春秋
 相馬正一『若き日の坂口安吾』一九九二年 洋々社
 庄司肇『坂口安吾論集成』一九九二年 沖積舎
 『新津市史 通史編』上下巻 一九九三、九四年 新津市
 若月忠信『坂口安吾の旅』一九九四年 春秋社
 野々上慶一『ある回想―小林秀雄と河上徹太郎』一九九四年 新潮社
 坂口三千代『追憶坂口安吾』一九九五年 筑摩書房
 横手一彦『被占領下の文学に関する基礎的研究』全二冊 一九九五~九六年 武蔵野書房
 奥野健男『坂口安吾』一九九六年 文春文庫
 堀多惠子『堀辰雄の周辺』一九九六年 角川書店
 鈴木徹造『出版人物事典』一九九六年 出版ニュース社
 野原一夫『人間坂口安吾』一九九六年 学陽書房・人物文庫
 「坂口安吾展」図録 一九九六年 世田谷文学館
 『安吾探索ノート 第6号』一九九七年 安吾の会
 「桐生ルネッサンス―坂口安吾・南川潤・浅田晃彦」図録 一九九八年 群馬県立土屋文明記念文学館
 坂口三千代『ひとりという幸福』一九九九年 メタローグ
 安原喜弘『中原中也の手紙』二〇〇〇年 青土社
 大村彦次郎『文壇挽歌物語』二〇〇一年 筑摩書房
 荻久保泰幸・島田昭男・矢島道弘編『坂口安吾事典』全二冊 二〇〇一年 至文堂
 青木正美『近代作家自筆原稿集』二〇〇一年 東京堂出版
 『近代文学研究叢書』第七十六巻 二〇〇一年 昭和女子大学近代文化研究所
 青山光二『純血無頼派の生きた時代―織田作之助・太宰治を中心に』二〇〇一年 双葉社
 七北数人『評伝坂口安吾 魂の事件簿』二〇〇二年 集英社
 丸山一『安吾よふるさとの雪はいかに』二〇〇五年 考古堂書店
 『新潟日報源流130年 時代拓いて』二〇〇七年 新潟日報社
 その他、各紙誌掲載の回想・追悼・論文等、膨大な資料を参照したほか、各種辞書、事典、年表等も事実確認を行いつつ適宜利用した。

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