坂口家の祖先といわれる甚兵衛(あるいは治右衛門とも)が肥前国(現在の佐賀県)唐津から加賀国大聖寺(だいしょうじ)(現在の石川県加賀市)へ移住する。その後、越後国(現在の新潟県)長岡、さらに蒲原郡金屋村(現在の新潟市秋葉区金屋)へと移る。長岡へ来た時には多くの従者を伴っていたと伝えられている。
坂口安吾の父仁一郎(にいちろう)(号は五峰)および長兄献吉は、甚兵衛の辿ったルートとその年代を追った結果、坂口家の祖先は陶工と関係があるのではないかと推測した。
献吉が「坂口家の系図について」で引用した「九谷焼製造元宣伝書」によれば、次のとおりである。
1629年に加賀藩から分封された大聖寺藩では、領内の九谷村において陶器造りを始めていたが、完成度は不十分であった。二代藩主前田利明が唐津焼の製陶法を学ぶべく人を派したところ、明より亡命の陶工数名をひきつれて帰藩。この頃から造られたのが有名な古九谷である。亡命明人の従事が国禁違犯とされ、すぐに陶工を解散させたため古九谷は数十年で終わったといわれる。
ただし今日では、九谷焼は同じ肥前の有田焼にならったというのが定説である。唐津焼は質朴さと侘びの精神を特徴とし、有田焼は青・黄・緑などを基調とした色絵を特徴とする。豊臣秀吉の朝鮮出兵に由来する点は同様だが、技法は対照的である。
先祖=陶工説はあくまでも推測であり、事実と断定はできない。ただ、相当な資産をもちながら唐津→大聖寺→長岡と、短期間に移り住んだ理由は陶工の流れとかかわりがあるのかもしれない。たとえば、陶工を庇護した豪農や豪商であったなど。
また、一説に碁所の坂口仙得の末裔といわれるが、時代がまるで違う論外の説である。仙得は19世紀の江戸に生まれた人で、天保四傑として知られた碁の名人。仙得の先祖が甚兵衛である可能性もなくはないが、いまのところ確認されていない。仙得と同時代を生きた安吾の祖父得七や曾祖父得太郎の名に引かれた臆説か。
安吾も先祖の話は聞いていたらしく、1947年ごろ久しぶりに訪ねて来た檀一雄に先祖は九州にいたと話している。「唐津の先の坂口村だ。そこから逃げだしてね。ああいうケンノンなところは逃げ落ちるに限る。やっぱし、俺の先祖は平衡感覚があったよ」(檀一雄『小説坂口安吾』)
1639年から幕末まで、鎖国令によりオランダ・中国・朝鮮以外との貿易がとだえる。外国人の移住だけでなく海外に住む日本人の帰国も禁じられていた。鎖国のもととなったキリシタン禁教令から1637年の島原の乱に至る歴史に安吾は大きな関心を寄せ、「イノチガケ」などの作品で何度もとりあげたほか、太平洋戦争中、長篇「島原の乱」執筆にとりくむが未完に終わる。
初代甚兵衛(治右衛門)、金屋村で死去。享年不詳。村松町円満寺(浄土真宗東本願寺派)過去帳によれば、分家は19戸あったという。二代甚兵衛が跡を継いだ。
1682年、井原西鶴『好色一代男』出版。以後、西鶴は浮世草子の名作を数多く著す。すぐれたファルスとしてのみならず、人間の欲望を活写した西鶴の「鬼の眼」を安吾は高く評価している(「FARCEに就て」「枯淡の風格を排す」「思想なき眼」など)。
1689年7月、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で越後を訪れる。安吾は芭蕉についてもその純粋な芸術性を高く評価しており、引用回数も多い(『国文学解釈と鑑賞』別冊「坂口安吾事典 事項編」参照)。仁一郎もまた、1893年の「説詩軒俳話」にて芭蕉を絶讃した。
二代甚兵衛死去。享年不詳。この当時、金屋村では「甚兵衛どんの小判を一枚ずつ積めば五頭山(ごずさん)のいただきまでとどく」と言いはやされるほどの資産家であった。息子3人のうち1人は早世。残る磯右衛門(1692‐1762)と津右衛門(1702‐75)の間で本家争いが起こるが、金屋村に残った磯右衛門のほうが甚兵衛を名のり、昭和の代までその名を継いでいる。
津右衛門は分家して同じ蒲原郡の大安寺村(現在の新潟市秋葉区大安寺477番地あたり)に移住する。その時期が相続の前か後かは不明だが、富豪伝説は津右衛門のほうに受け継がれた。いわく「阿賀野川の水が尽きても津右衛門の財産は尽きない」「津川の鉄橋(かねばし)が落ちても、津右衛門の財産は落ちない」「上(かみ)は津川から西は弥彦まで津右衛門(つえんどん)は人の領地を踏まずに行ける」。
安吾の系譜は、この津右衛門から延びてくる。
大安寺村は1629年に開発され、1687年から幕末まで主に幕府直轄領であった。享保の改革により未開地開墾が奨励される。
1708年、イタリアの宣教師シドッチが屋久島に潜入上陸するが、翌年、江戸に護送され、新井白石の審問を受ける。白石はシドッチの話をもとに『采覧異言』『西洋紀聞』を著す。この審問のようすは安吾の「イノチガケ」にも書かれている。
二代津右衛門(1722‐83)死去。長男甚次郎は家督を妹婿に譲り、二ツ柳村(現在の新潟県五泉市二ツ柳)に分家、友伯(1751‐1819)と改名する。分家した時期は不明だが、妹婿が三代津右衛門を襲名するより前、つまり遅くとも1783年以前と推測される。
安吾の系譜は、初代甚兵衛からは分家の分家にあたる友伯から続く。
友伯は学問を好み医科・理科に精通したが、世事にうとく、人に欺かれて多くの田宅を失う。
1782~87年頃まで天明大飢饉により越後各地でも凶作が続く。
1790年5月、財政建て直しと幕府の支配機構強化をねらった寛政の改革の一環として、「寛政異学の禁」により朱子学の振興が命じられる。
この頃、友伯は零落して故郷の大安寺村に帰り、産土神(諏訪大明神 太神宮 稲荷神社)の祠の裏(現在の新潟市秋葉区大安寺445番地あたり)に家を建てて住む。当時は本家津右衛門の家と向かい合わせに建っており、敷地の西側には今も坂口家代々の墓がある。安吾の骨もここに納められている。
この地には1873年頃まで80年ほど居住し、安吾の父仁一郎もここで生まれる。ただし、後に表記される本籍地はここではない。⇒1873年へ
二代友伯こと文仲(1780‐1846)は15歳にして家を再興したいと考え、自ら父に願い出て家政一切をとりしきる。無用の古美術品を売り払って家計を支え、医業にも携わりながら、わずかに残った田地を耕耘させた。以前に増して栄えていた本家の三代津右衛門から資金援助の申出があったのも断って、20余年再興に力を尽くす。
文化文政(1804‐29)の頃、医師坂口友伯が大安寺で寺子屋を開いていたという記録が残っているが、初代か二代目かは不明。
1798年3月、本居宣長『古事記伝』完成。
1802年、十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』初編刊行。
1809年、式亭三馬の滑稽本『浮世風呂』初編刊行。
1811年、式亭三馬の滑稽本『浮世床』初編刊行。安吾はこれらの滑稽本を日本のファルスの古典として愛読したと「FARCEに就て」で述べている。
8月中旬、文仲は令名高い僧良寛の住む国上山(くがみやま)の五合庵に酒を持って訪れる。文仲36歳、良寛58歳の時。良寛は野草を摘んで供し、チガヤを切って箸とした。その折、二人は次のような歌のやりとりをした。
「はぎ箸と世に伝へしを茅萱箸花おしみてか枝をしみてか 文仲」
「くさのいほなにとがむらむちがやばしおしむにはあらずはなおもゑだも 良寛」(原文はすべて濁点なし)
草の庵にはチガヤ箸が似合いで、萩の箸などと風流ぶる必要はないでしょう、何も惜しんでいるわけではありませんよ、というほどの意。
二人は半日酒を酌み交わしながら歓談したが、帰宅した文仲は、あれはニセ道人だと言い捨てたという。禅僧でありながら酒好きであることを皮肉ったのかもしれないが、その場で良寛自筆の歌を書いてもらい、その下に水墨画「五合庵良寛初対面之図」を隣人に描かせたりした記念の幅が今に残っているのをみれば、文仲がいかに良寛に感服したかが量り知られる。
※注 幅には「文化十五子八月中旬」と記されているが、1818年は4月に文政元年に変わっており、また子年は文化13年であるため、文化13年の誤記とみる谷川敏朗氏の説をとった。
安吾はエッセイ「日本文化私観」の中で「大雅堂は画室を持たなかつたし、良寛には寺すらも必要ではなかつた。〔中略〕画室や寺が彼等に無意味なのではなく、その絶対のものが有り得ないといふ立場から、中途半端を排撃し、無きに如(し)かざるの清潔を選んだのだ」と良寛を高く評価している。また、最晩年の「安吾新日本風土記」でも最後に良寛の書「天上大風」を掲げて締めくくりとしている。
1814年、滝沢馬琴『南総里見八犬伝』初輯出版(完結は41年)、武士道と儒教思想に則った波瀾万丈の伝奇ロマンが大好評を博す。安吾は「現代小説を語る」座談会で、馬琴が古典とされることについて「日本の読書界の貧困を物語るものだね」と語り、その説教臭さを批判している。
1818年4月、全国の沿岸測量をおこなった伊能忠敬が死去。その正確な実測図は21年に完成。
初代友伯死去。家の再興も成り、田地の収穫は年数百石に及んだという。文仲は16歳の長男得太郎(1803‐39)に家を任せ、わずかに医業に携わるほかは、大酒、囲碁将棋、俳句、詩歌などを友人らと楽しむ毎日を過ごす。風雅に親しみ、加藤北溟の経学と村松藩医佐々長庵の医術に心服、深く仏教に帰依していたが、快活で大声、人を罵ることも多く、いたずら好きな性格だったと伝えられる。
※注 当時の米1石はほぼ金1両に相当。現代の貨幣に正確には換算できないが、4万~12万円ぐらい。1石10万円として年数百石の収穫は数千万円の年収に当たる。富豪とはいえないが、裕福になったといえる。
この年から初めて酒を飲んだと『北越詩話』に記されているが、良寛との対面の時を含め、以前から相当飲んでいたと想像される。治療を請いに来た人には「草医者は往々にして誤診をする。死ぬのが怖くないなら俺の薬を飲め」と言ったりしたので、医業はかなり暇だったらしい。中年以後は貧者に薬を施すのみだったという。
1825年2月、ロシア、イギリス、アメリカなどからの通商の求めが次第に強圧的になったため、異国船打払令が下る。
1827年、頼山陽が『日本外史』全22巻をまとめる。源平から徳川に至る武家の盛衰を漢文で著したもので、仁一郎は『北越詩話』刊行後、これを目標として五言古詩を作ったりしていた。
1828年10月、シーボルトが日本地図などを入手したことが発覚し、厳しい審問の末、国外追放となる。
得太郎も代々の医業に携わったが、36歳で早世。その長男得七(1827‐1906)はまだ12歳で病弱でもあったため、文仲は得太郎の妻ミタ(1812‐1875)に後添えを迎えようとしたが、ミタは髪を切って志を見せ、感じ入った文仲は彼女にその後の家業を任せた。ミタは仁一郎ら孫たちに常々「わが家の今日あるは文仲君の力なり」と語りきかせていたという。
1832~37年まで、天保飢饉により全国的に凶作となる。相次ぐ百姓一揆への対策として、1841年、天保の改革が始まる。
1837年秋、越後魚沼の特色や伝説などをしるした鈴木牧之『北越雪譜』初編刊行(第2編は41年11月刊)。安吾は「日本の山と文学」で香川景樹の歌などとともに引用している。
1839年5月、蛮社の獄が起こり、鎖国政策を批判した渡辺崋山・高野長英らが捕らえられる。
1840~42年、英国と清の間でアヘン戦争が起こり、英国が東洋で優位な立場を築く。
文仲の息子(得太郎の弟)秀三郎が刈羽郡南条村(現柏崎市)の私塾三余堂に入門。三余堂は藍沢南城(1792‐1860)が1820年に創設、近郊はもとより遠方からも豪農・豪商の子弟が参集したが、新津地域からは秀三郎を含む5人の名が門人記録に残っている。藍沢南城は古今東西の文献を考証研究する折衷学の儒学者で、新発田藩の大野耻堂(ちどう)、丹羽思亭と並び称された。
安吾の父仁一郎は縁戚でもあった大野耻堂の方に入門、安吾は耻堂の曾孫にあたる大野璋五一家と太平洋戦争後に同居する因縁をもつ。
1849年7月、佐渡に異国船あらわる。
1853、54年の二度、ペリーが艦隊を率いて浦賀および神奈川沖に来航。幕府は圧力に屈して鎖国を解き、日米和親条約を結ぶ。以後、英仏露とも和親条約締結。
この頃、海岸警備の軍資金として「友伯」が35両を献金した記録が残っている。二代友伯こと文仲(1846年死去)とその子得太郎はすでに亡いので、得太郎の妻ミタかその子得七が友伯名義で献金に応じたものか。得七は中年になるまで病身であったと伝えられるが、31歳になるこの年以前に渡辺ユウ(1834‐1897)と結婚している。
この時の大安寺村からの献金は他に津右衛門の千両と九右衛門の五両がある。九右衛門は三代津右衛門の分家筋。破格の大金を数年にわたって献金した本家の八代津右衛門(1825‐1881)は入り婿で、神道無念流坂口派と称して邸内に道場を開き、諸国の武芸者や文人らを寄宿させた。また、その豪遊ぶりでも名を馳せ、冬にも尺玉の花火を打ち上げさせていたと伝えられる。幕末には会津藩からの依頼を受け大量の刀を造るなど巨額の軍資金を献納している。
1856年8月、米国総領事としてハリスが着任。58年6月、大老となってまもない井伊直弼は、ハリスの指摘する英仏の侵略を恐れ、アヘン禁輸条項を盛り込んだ日米修好通商条約に調印。これにより新潟が開港場と決定(1868年開港)。安吾はハリスの日記を読み、「安吾下田外史」の中で、ハリスのことを「独自の見識と抱負をもった稀な人物であったために、日本は恵まれた」と好意的にみている。
1月2日、得七とユウの間に長男仁一郎(1859‐1923)誕生。住居は初代友伯から続く稲荷神社裏の家(現在の新潟市秋葉区大安寺445あたり)。仁一郎の兄弟には長女幸(こう)(1860‐92。難波岩三郎に嫁す)、次男義二郎(1864生。南家へ婿入り)、次女貞(1869‐1946。松之山の村山家へ嫁す)、三男信吾(1877生。村山家へ婿入り)、三女留の5人が生まれる。
4月、ロシア船とオランダ船が新潟に来る。
9月、安政の大獄で、井伊直弼が攘夷派に弾圧を加える。翌年3月、井伊は桜田門外の変において水戸藩浪士らに暗殺された。
1月21日、安吾の母アサ(1869‐1942)が蒲原郡五泉町(現在の五泉市五泉)の大地主吉田久平(9代目。1834‐1901)の二女として誕生。
この年、坂口家の向かいにあった本家の八代津右衛門は、新政府軍の非情な監察官を斬殺して逃げて来た会津藩士伴百悦(ばん・ひゃくえつ)を匿う。紙幣印刷機が津右衛門邸に持ち込まれ密かに紙幣を製造、伴は翌年大安寺村の郊外で村松藩兵に包囲されて自害する。戊辰戦争前後にはこうした贋金づくりが横行し、その罪による斬首も多かった。津右衛門も厳しく追及されて入牢、さらに財産も処分されたといわれる。
この印刷機に関しては、軍票(軍用手形)印刷機であったともいわれ、津右衛門は当時会津軍だけでなく新政府軍からも軍資金をせびられていたという(桐生「カフェ・パリス」マダム中村千代子氏談)。
安吾は母の実家である吉田家のことを「この一族は私にもつながるユダヤ的な鷲鼻をもち、母の兄は眼が青かつた」と書いている。「この鷲鼻の目の青い老人は十歳ぐらゐの私をギラギラした目でなめるやうに擦り寄つてきて、お前はな、とんでもなく偉くなるかも知れないがな、とんでもなく悪党になるかも知れんぞ、とんでもない悪党に、な、と言つた」(「石の思ひ」)。
1868年3月、幕府全権を担った勝海舟と新政府軍の西郷隆盛が会見、江戸城無血開城に導き、明治維新が始まる。
同年5~7月、長岡軍と新政府軍とが会戦、長岡城陥落。8月に会津藩・米沢藩同盟軍と新政府軍とが会戦、同盟軍は新津、五泉方面へ退却。9月22日に会津藩が降伏し、戊辰戦争終結。
同年11月、佐渡と柏崎県を新潟府に合併。新潟港が開港。
仁一郎、蒲原郡聖籠(せいろう)村諏訪山の絆己楼(はんきろう)に入門。絆己楼は大野耻堂が1853年に開いた私塾で、建物はいまも往時のまま保存され有形文化財に指定されている。仁一郎は従兄の野村俊次郎と共に下宿生活をして漢学詩文を学び、とくに五言絶句は耻堂に激賞された。漢詩人としての一面はこの時に決定づけられる。なお、庶民の帯刀は禁じられていたが、大小2本の刀を差して堂々と塾に通ったという。
7月14日、廃藩置県により越後10藩が13の県に変わる。
11月20日、府県整理により、新潟・柏崎・相川の3県となる。1874年までに3県合併。
年末、仁一郎は絆己楼から帰省。年明け正月に数え年15歳で元服祝いをする予定だったが、前髪を剃って月代(さかやき)にするはずのところ、俊次郎と共にちょんまげを落としたイガ栗頭になって帰ってきて、祖母ミタを非常に立腹させる。前年に断髪令は布告されていたが、ちょんまげへの執着がまだ根強かった時期のことである。
2月、福沢諭吉が『学問のすゝめ』初編を刊行。
太陽暦が採用され、12月3日が1873年1月1日となる。
豊作と政府の倉庫米払い下げに伴い、1870年に10kgあたり61銭だった米価が72年には26銭まで下落。
春、仁一郎が絆己楼を退学して帰郷。
この頃、一家で同じ蒲原郡大安寺村のはずれに転居(後年、仁一郎および安吾の本籍として表記される場所で、地番は新潟県中蒲原郡阿賀浦村大字大安寺11番地→新津市大安寺509番地と変遷。現在の新潟市秋葉区大安寺509)。900坪ほどの広い宅地で、建物は旧村松藩主の隠宅を移したものといわれる。この土地は坂口家が手放した後、大安寺尋常小学校(のちの阿賀小学校)となったが、現在は空き地。当時の坂口家の所有地は約200町歩(地価にして5万)あり、米・麦・大豆などあわせて2000俵の収入があった。坂口家墓所横の旧宅は、坂口家の使用人だった昆氏が譲り受ける。
しかし同じ頃、得七が米穀相場会社(米社)の投機に失敗、3000円余りの損失補填のため田畑の過半を失う。得七は米社のほかにも矢沢鉱山開発でも多額の投資をしており、これについても後に、仁一郎ができるかぎり損失の少ない形で処分するべく奔走した。
11月18日、仁一郎は蒲原郡早通村の地主玉井唯次郎の二女ハマ(1860.3.12‐1889)と結婚。仁一郎14歳、ハマ13歳であった。
得七の投機失敗に怒ったミタは家督を仁一郎に譲るよう迫るが、仁一郎は東京へ出奔、工部権大丞(ごんのたいじょう)の官に就いていた大野誠(号は楳華。耻堂の子)の許に身を寄せた。この折、漢詩界の第一人者であった森春濤(しゅんとう)門下の詩人山中耕雲と知り合う。大野邸は麹町下二番町にあり、仁一郎は病気治療のため下谷の順天堂に通っていたが、その途次にあった大隈重信の大邸宅が強く印象に残ったと後年語っている。坂口家では使用人の昆倉蔵を何度も捜索に向かわせ、胃腸の病気で神田の佐藤病院に入院していたところを連れ戻される。入院時、仁一郎は「野阪やすし」の変名を使っていた。
※注 工部省は殖産興業を支えた当時の中央官庁。大丞(たいじょう)は卿(大臣)、大輔、少輔に続く省内のナンバー4で、権官はその代理といった役職。
1月、板垣退助らが民撰議院設立建白書を政府に提出。
新潟県、地租改正事業に着手。
仁一郎、蒲原郡下新村の豪農本間新作とともに、村松町から七日町村に及ぶ広大な地域の地租改正問題に取り組み、3年余にわたって奔走する。本間は当時、第四国立銀行の取締役であり、翌年には新潟町上大川前通十番町の新潟米商会所(得七が失敗した米社の後継会社で、のちの新潟証券取引所の前身)を設立して頭取となる。また、翌年4月に創刊される『新潟新聞』の発起人にも名を連ねていた。本間とのつながりからみて仁一郎早い時期から米社や新潟新聞社にかかわっていたと推測でき、米社は79年に、新聞社は10年後の87年には仁一郎が指揮権を握ることになる。
9月3日、仁一郎とハマの間に長女シウ(1876‐1946)誕生。
3月、廃刀令公布。
10月、明治政府に反感をもつ士族たちが各地で神風連の乱、秋月の乱、萩の乱を起こす。
この頃、仁一郎は新潟町にいた山際操(柳堤)の詩才を認めて突然訪問。その後、2人はしばしば往来して漢詩を詠み合う仲となる。
2月、西郷隆盛をリーダーとして士族らが西南戦争を起こすが、9月に西郷らが自刃して終結。
4月7日、『新潟新聞』創刊。全国で最も古い地方新聞である。上大川前通七番町の印刷所隆文社が発行元で、社主は鈴木長蔵、編輯長は慶應義塾卒の『日新真事誌』記者斎木貴彦、印刷人は大江萬里。斎木はまもなく局長となり、11月から同じく慶應卒の藤田九二が編輯長をつとめた。創刊時より福沢諭吉肝煎りの新聞であったことがわかる。5月以降は同住所内に新潟新聞社を置き、日祝休刊だったのを月祝休刊とした。価格は1枚1銭5厘、1カ月払い35銭、3カ月払い1円であったが、7月以降それぞれ1銭3厘、30銭、80銭に値下げした。翌78年10月、本町通七番町501番地(翌年28番地に地番変更)に移転。
仁一郎は能代(のうだい)川に堰を築くための県費補助金要求でも活躍し、郡会議員に選出される。
9月、大隈重信らを供奉として明治天皇が北陸御巡行。新発田から新津へ赴く日、本間新作父子と仁一郎が分田(ぶんだ)(現在の阿賀野市分田)の渡し口に御休憩所を設け、氷水と麦湯を饗応する。この時を契機に仁一郎の大隈に対する尊敬の念が強まっていく。
5月、大久保利通が暗殺される。前年5月に木戸孝允も病死、維新の三傑と讃えられた西郷・大久保・木戸が相次いで没した。
7月22日、郡区町村編制法施行に伴い、蒲原郡が分割され大安寺は新潟県中蒲原郡になる。現在の新潟市中心部は新潟区となる。
本間新作のあっせんにより、仁一郎が弱冠20歳にして新潟米商会所(米社。1893年から新潟米穀取引所、1902年から新潟米穀株式取引所、戦後は新潟証券取引所と変遷)の頭取代理となる。新潟区内では古町通五番町の池上旅館などに滞在する。以後、新潟米穀株式取引所理事長として死ぬまでこの米社を手放さなかったが、一度も相場には手を出さなかったという。
10月頃、森春濤門下の山中耕雲が来越、仁一郎は山際操と共に歓待する。この時、耕雲の推薦により2人の漢詩が春濤の許へ送られる。
12月から春濤の月刊誌『新文詩』(1875年創刊)に、仁一郎(五峰)と操(柳堤)の漢詩が載りはじめる。「五峰」の号は、大安寺村から遠望される五頭山の5つの峰に因む。名字は「阪口」の字を好んで用いた。五峰の詩は「剛健の気を帯び」「理窟に長じてゐるから古詩大作にふさはしい」と師の春濤は評した。
11月に『新潟新聞』主筆に着任した尾崎行雄(咢堂)が、新潟に居住した2年の間、仁一郎を漢詩の師と仰いで一酔一吟社を結成、毎月詩会を開く。
地方在住の漢詩人として五峰とともに春濤門下の双璧とうたわれた岡山県倉敷の田辺碧堂は、五峰の詩について「君の詩は実に堂々の趣きを具へてこれを建築に例ふれば大伽藍のごとき根強いがつしりしたものである。たゞ荒作りで彫琢の点に欠くるところがないでもないが地震にも暴風にもびくともせずして聳え立つてゐる大建築」だと評した。
安吾の「青春論」の中に「三好達治が僕を評して、坂口は堂々たる建築だけれども、中へ這入つてみると畳が敷かれてゐない感じだ、と言つたさうだ」とあるのに似ている。
6月、最初の新潟県会議員選挙があり、本間新作が当選。新潟新聞社社長の鈴木長蔵が県会副議長となる。
同年4月、『新潟新聞』主筆(編輯長)であった藤田九二が辞任。5月に福沢諭吉の推薦により古渡資秀が「主幹」として入社するが、8月にコレラで病死したため、福沢は新たに21歳になる直前の尾崎行雄を推薦、「総理」の肩書きで11月に入社。翌81年7月に尾崎が東京へ去るまでの間、新潟新聞社は80年8月に火災被災、しばらく新潟区大畑通一番町に移り、81年5月に新潟区医学町通一番町3番地に新築移転した。
10月20日から12月19日まで、新潟県庁構内にて最初の県会が開かれる。この時、書記に委嘱されたのが来越まもない20歳の尾崎行雄であった。
安吾は戦後の第一声を「咢堂小論」と題して執筆(ただし発表は遅れて単行本に書き下ろしとなった)。咢堂の世界連邦論に共鳴する部分も多かったが、「私自身の体臭を嫌ふごとくに咢堂を嫌ふ気持をもつてゐる。私の父は咢堂の辛辣さも甘さも持たなかつた。咢堂が二流の人物なら、私の父は三流以下のボンクラであつた」と「石の思ひ」で書いている。同作ではさらに、咢堂が仁一郎のことを「新潟人のうち酔つ払つて女に狎れない唯一の人間だつた」と語ったエピソードも紹介されている。
仁一郎は上大川前通四番町鍛冶小路角伊狩屋文兵衛の借家に居を構え、妻ハマや妹貞と同居。『五峰遺稿』下書き稿に庚辰~辛巳(1880‐81年)に「居を大川前に移ス」とある。
8月、森春濤が来越し、仁一郎宅に投宿。この折、小崎懋(おざき・つとむ)(藍川)が春濤門下に入る。仁一郎は小崎らを誘って、上京した尾崎行雄の詩会・一酔一吟社を引き継ぐ。小崎は仁一郎の紹介で新潟新聞社の記者となる。
7月、箕浦勝人(かつんど)(青洲)が『新潟新聞』主筆として来越(翌年4月まで)。箕浦は立憲改進党の機関紙がわりに『新潟新聞』を利用する。また、同紙の小崎懋、大桃相資を通じて仁一郎とも知り合い、酒席で詩を談じたり政論を戦わせたりするようになる。
10月15日、武者喜澄(城川)と本間新作(禾雄)の編集で創刊された文学雑誌『文海一珠』の巻頭に、五峰(仁一郎)の七言絶句が載る。これは漢詩・和歌・俳諧の月刊雑誌で、中蒲原郡下新村、嘯月社刊。同人には前記3名のほか、仁一郎の弟義二郎(秋山)、大桃相資、小崎懋、中村龍太(梨洲)ら。仁一郎は自らの漢詩も毎号のように載せたが、同人たちの漢詩についての短評も数多く書いている。1885年1月、第18集をもって終巻。
4月16日、大隈重信が立憲改進党を結成。小野梓、矢野文雄(龍渓)、犬養毅、尾崎行雄、前島密、箕浦勝人らを党員として、イギリス流立憲君主制や二院制議会を目指した。当時、東京大学の学生だった市島謙吉(春城)も大学を中退して改進党の結成に参加した。板垣退助の自由党とともに民権派の二大政党となるが、同じ頃、板垣が暴漢に襲われ負傷する事件が起こっていた。
10月21日、大隈が東京専門学校(早稲田大学の前身)創立。小野梓、高田早苗らとともに市島謙吉も創立に深くかかわっている。大隈は「明治14年の政変」の影響で開校式に欠席したが、福沢諭吉が代わって祝辞を述べた。
安吾の二人の兄献吉と上枝がともに早稲田大学に入学したのは、父親をめぐる交友、政治背景と無関係ではないだろう。
この年、全国各地で立憲改進党の遊説が行われ、市島謙吉・小野梓・箕浦勝人・吉田熹六らが新潟で演説を行う。市島と同郷、新潟県水原の漢方医三浦桐陰も改進党を積極的に支援したので、仁一郎はこの時、市島や桐陰と出逢ったと推定される。3人は詩友となり、「印癖」と呼ばれる印の収集趣味でも交遊した。
11月、王治本(おう・ちほん)(号は黍園(しょえん))の竹枝(ちくし)詩集『舟江雑詩』を仁一郎が編集して出版。竹枝はもともと古代中国の民間歌謡のことで、あまり形式にとらわれず、恋愛や風俗などを地方色ゆたかにとりいれた漫吟をいう。王治本は清の文人・書家で、1877年に清朝大使館の臨時随員として来日、日本各地に足をとどめて漢詩文の添削指導をした。舟江は新潟を表すが、この83年、治本は三浦桐陰を訪ねて旧交をあたためていた。仁一郎が治本と交遊したのは、桐陰とのつながりによるものであろう。
この年ごろ、住居を新潟区寄居村の日野屋の借家(のちの知事官舎前)に移す。『五峰遺稿』下書き稿に癸未の年(1883年)「寄居村」に居住して詩を詠んだと書かれている。
この頃から「越人詩話」の連載を構想し、資料博捜を始める。
3月27日、新潟県会議事堂が落成。
4月1日、上越地方初の日刊紙『高田新聞』創刊。市島謙吉が社長兼主筆となる。
3月に創刊された文学雑誌『萍水』の序文を五峰が寄稿。
この年ごろ、北大畑町547番地(行形亭(いきなりや)の南東向かい。のちの吉田家別邸)へ転居したと推定される。
※注 従来、この年に西大畑町へ転居したとされてきたが、1888年12月27日付『新潟新聞』に次のような案内記事が出ていたことを帆苅隆氏が発見した。
「西大畑町廿八番戸(堀田楼上隣)へ移転す/十二月二十五日 坂口仁一郎」
これにより定説の誤りが判明。おそらくは近所の北大畑町547番地の家に移り住んだのが85年であったかと推測される。高木進氏の1973年の調査(八吾の会編『安吾の新潟~生誕碑建立にむけて』2005年に再録)によると、土地台帳ではこの北大畑の土地40坪は1906年10月から09年10月にも坂口家の所有になっており、その後、安吾の母方の伯父吉田久平(10代目)の別邸となり、1956年まで吉田家が所有した。「石の思ひ」に登場する従兄と女中頭の「白痴」の子が住んだ家である。
太政官制度が廃止され、内閣制度へ移行。伊藤博文が初代の内閣総理大臣になる。
坪内逍遙が『小説神髄』を刊行。日本の近代文学誕生に寄与した。
4月、『新潟新聞』主筆の吉田熹六が洋行のため退任。東京専門学校の政治学講師になって1年めの市島謙吉(春城)が大隈重信、尾崎行雄、高田早苗の推薦を受けて『新潟新聞』主筆となる。これ以後、市島は仁一郎と終生の親友となる。
安吾は父親の交友関係にはほとんど無関心だったが、市島には親近感をもったようである。「石の思ひ」の中で人間が本来もっている「悲しみ」に触れ、父や長兄にはそれが皆無だが、「後年市島春城翁と知つたとき、翁はこの悲しみの別して深い人であり、又、會津八一先生なども父の知人であるが、この悲しみは老後もつきまとうて離れぬ人のやうである」と述べている。
11月4日、信濃川の河口に萬代橋が開通。6連アーチで、全長782m(現在の約2.5倍)、幅6.7mという日本最大規模の木橋であった。 ⇒1909年へ
この年の春から翌年にかけての時期、仁一郎は市島謙吉に伴われて大隈重信を訪問、初めて談話を交わす。
1月、市島謙吉の東京大学同期の友人坪内逍遙が『新潟新聞』に小説「赤星屋物語」連載を始めるが、第1回で中断。2月になって、坪内は代わりにと翻訳小説「無敵の刃」を始めるが、病気でこれも続けるのが難しくなり、続きを市島が訳載する。
2月、新潟県政財界の重鎮だった山口権三郎の首唱により、新潟で殖産協会が設立され、仁一郎も県議仲間の内藤久寛(栗城)らと参画する。石油開発ブームの中、協会にて日本石油会社を興すことが決まり、会社の定款を仁一郎と内藤が起草。5月10日、内藤を社長として創業した。
12月、仁一郎と市島謙吉らは殖産協会内に立憲改進党を支援する「同好会」を組織する。
12月11日、仁一郎とハマの間に二女ユキ(1888‐1935)誕生。
12月25日、仁一郎が新潟区西大畑町28番戸の借家へ転居。新潟大神宮と隣接した大きな家で、母屋と離れをあわせて90坪ほどあった。庭に松が7本あったことから仁一郎は「七松居」と名づけ、時にそれを自らの号にも用いた。
※注 町名を「西大畑通」とした例もある。たとえば、安吾没後の1956年7月12日に取得された戸籍(除籍)謄本では、「新潟市西大畑通弐拾八番戸ニ於テ出生」とある。しかし『新潟大事典』等によれば、「西大畑通」という道路名はあっても町名になったことはなく、正式ではない。実際、安吾出生当時、仁一郎が出した手紙の自宅住所は「西大畑町」になっている。もっとも、安吾は幼時に「西大畑通」と自宅の住所を記して手紙を出したことがあり、通称としては用いられていたようだ。
なお、地番については明治19年に編成された戸籍により「番戸」表記になったが、明治22年以降編成の戸籍は「番地」で表示するように統一された。つまり、転居の翌年には「西大畑町579番地」となるはずだが、番地表記が全国に定着するまでには時間がかかり、安吾出生時の明治39年にも「番戸」表記が残っていた。
安吾は西大畑の生家のことを「田舎の旧家ほどだだつ広い陰鬱さはなかつたけれども、それでも昔は坊主の学校であつたといふ建築で、一見寺のやうな建物で、二抱へほどの松の密林の中にかこまれ、庭は常に陽の目を見ず、松籟のしゞまに沈み、鴉と梟の巣の中であつた」(「石の思ひ」)と書いている。
また、母アサの遠縁で大正期に6、7年坂口家に住み込みで家計顧問をしていた藤宮完止によると、生家の建物は昔の検断という役所であったという。ただし、これは近所にあった新潟刑務所の前身の話を聞き違えた可能性もある。
高木進氏の調査によると、安吾の叔母村山セキの語ったところでは「イギリス人が明治初めに来港して女学校を建てた、その家をそのまゝ使ったので大きな家だったもので、変った格好の、外人が使用した机が家の中に残っていた」という。これについても、近所の金井写真館がまさにこの話にあてはまるので、聞き間違いの可能性が高い。
セキの夫村山真雄は、中学進学のため1897年頃から5年ほど坂口家に寄宿したが、『月刊にいがた』1947年5月号の回想文で「本宅のもと曹洞学校の跡なる家の式台には適々寺院と誤まられ賽銭などがこぼれいる」と記して、安吾の聞き書きを跡付けている。
どの説も郷土史家は認めていないが、「曹洞宗の学校」説が証言者2人で、しかも自筆文章によるものである点、最も有力な説といえる。
2月、伊藤博文内閣で外相井上馨の辞任に伴い、政敵の大隈重信が外相となる。2カ月後の4月に発足した黒田清隆内閣でも大隈は外相に留任、不平等条約の改正に取り組む。アメリカ・ドイツ・ロシアと個別交渉のかたわら、11月30日にメキシコと最初の対等条約を結ぶ。
4月1日、町村合併によって大安寺は中蒲原郡阿賀浦村の大字となり、得七が阿賀浦村の村長に選出される。また、新潟区と関屋村が合併し、新潟市となる。
11月18日、三女ヌイ(1889‐1930)誕生するも、仁一郎の妻ハマは産後の肥立ちが悪く、12月1日に29歳で急逝。
1月5日から10月30日まで、仁一郎は七松山人名義で『新潟新聞』に「越人詩話」を百数回にわたって連載。郷土の漢詩人たちの人と作品を紹介・集成しようという試みで、のちの『北越詩話』の原形となる。ただし、この時点ではまだ人数は少なく、これ以後もずっと資料博捜・精査・研究が続く。「越人詩話」と16年後の『北越詩話』とは文章も内容も大きく異なっている。⇒1918年、1919年へ
8月、第2次伊藤内閣発足。
11月、「七頭の豺狼(さいろう)」事件と呼ばれる新潟県白根の自由党議員の県道工事にからむ汚職が発覚、県会開会中に2人が検挙される。以後、多数派であった自由党への非難が相次ぎ、県会解散に追い込まれる。
2月、前年の「七頭の豺狼」事件に端を発した県会議員総選挙で、立憲改進党が大勝利を収める。仁一郎も再出馬して当選、3月に県会議長となる。
4月27日から6月7日まで、仁一郎が松下聴濤名義で『新潟新聞』に「説詩軒俳話」を連載(25回)。漢詩の立場から論じた俳諧論で、俳諧の歴史を辿りながら、芭蕉一人は俳諧の枠をとびこえた悟道の偉才として絶讃している。
7月9日から18日まで、同名義で『新潟新聞』に「銷夏漫録」を連載(8回)。幕末の越後村上藩士・三宅瓶斎(へいさい)を紹介する序文に続けて、三宅の漢文による「三面紀行」を読み下したものである。
9月15日から開かれた県会において、信濃川堤防改築の問題で地区間の利害が対立、傍聴席に雇い壮士が陣取って議員の発言を妨害するため、20日、議長の仁一郎は傍聴禁止を宣言する。翌日からは議場内に警官を配置するまでになる。この議案で対立した県知事の籠手田安定(こてだ・やすさだ)を弾劾すべく、仁一郎が県会を代表して法制局へ陳情に赴く。その際、早稲田の大隈重信邸を訪問。大隈は明治初年から、信濃川治水のための大河津(おおこうづ)分水開削事業が中断されていたことを気にかけていて、応援してくれたという。⇒1897年へ
11月27日、五女セキ(1893‐1984)誕生。アサは1911年までに5男4女をもうけるが、次男と三男は夭折。
8月、第2次伊藤内閣発足。
11月、「七頭の豺狼(さいろう)」事件と呼ばれる新潟県白根の自由党議員の県道工事にからむ汚職が発覚、県会開会中に2人が検挙される。以後、多数派であった自由党への非難が相次ぎ、県会解散に追い込まれる。
12月、日清戦争のさなか、仁一郎が県会を代表して広島の大本営に赴く。
8月1日、日清戦争が始まる(翌年4月まで)。
9月、市島謙吉が衆議院議員に当選、1902年まで3期つとめる。
3月、県会改選で再選されるが、県会議長は自由党の高岡忠郷に代わる。しかし、立憲改進党が多数派であるため議事進行は困難をきわめ、高岡は12月に議長を辞す。後任には国権派からも仁一郎へ打診があったが、仁一郎は中立の立場の議長がよいと考えて鈴木長蔵を推薦、新議長とした。
この年、当時新潟中学一つだけだった県立中学を、高田、長岡、佐渡、新発田にも設立しようという議案が出された。この時、すでに組合立中学のある高田・長岡を先に議決しようとする一派に対して、直接には利害関係のない仁一郎が正面から反対して立った。難しいほうを後回しにする案を通せば、佐渡と新発田に県立中学を置くのは不可能になる。「己れの便宜と思ふ場合は提携して行動しながら苦しくなれば之を振り捨てるといふことは極めて冷酷の処置である」として、町村立組合のない佐渡と新発田の準備が整うまで1年の延期を訴えた。大勢は不利であったが、仁一郎は強硬に主張、ある日は席上で高田派の丸山新十郎と掴み合いの大喧嘩になったという。結果、4地区同時の議決が成立し、翌年10月、準備段階として佐渡と新発田に組合立中学が設立された。
8月3日、長男献吉(1895‐1966)誕生。吉を献じる人になるようにと仁一郎が命名した。また、少年時代の献吉に「夢楼」という雅号を授け、印章までつくらせている。献吉は生涯、父の思いを大事に守り、生前みずから付けた戒名は「碧空院釈夢楼」であった。
「人のため幸を捧ぐる菩薩道楽しみの極み今ぞ知りぬる」献吉 1965.3.3
年始明けの『新潟新聞』に、仁一郎が松下聴濤名義で「猿面郎」を発表。秀吉の誕生日であると当時いわれていた丙申の元日から360年めの丙申が巡って来たことに始まり、秀吉の朝鮮出兵と比べて伊藤博文の日清戦争始末を自卑的であると非難したもの。
2月17日、長女シウが北蒲原郡越岡村(現在の豊栄市岡方)の曽我直太郎に嫁す。
3月、立憲改進党が他の4党と合同して進歩党を結成。以後、中蒲原郡では進歩党の仁一郎と自由党の高岡忠郷の勢力が拮抗し、町村自治にまで支障を来すようになる。そこで、仁一郎は高岡と相談、2人が提携して地方自治に力を尽くすため、共に脱党する。その後の衆議院議員選挙では2回、高岡に譲り、意気に感じた高岡は後に進歩党に入党することになる。
4月5日から18日まで、松下聴濤名義で『新潟新聞』に随筆「故紙堆」を連載(12回)。これは近世から近代にかけての珍談や逸事をあつめたもので、「越人詩話」の続きと目される回もある。
8月、仁一郎は詩友で衆議院議員の内藤久寛(栗城)と共に舟を買い、大水害後の信濃川堤防修築を視察する。
秋頃、弱冠20歳の山田穀城(よしき)が新潟新聞社に入社。山田は小金花作(こがね・はなさく)の名で新派歌人として知られており、『新潟新聞』の文芸欄「詞林月旦」には山田の和歌が多く採り上げられるようになる。その文才を仁一郎に見込まれ、秘書のような役目で坂口家に起居していた。なお、「詞林月旦」では主に、仁一郎の詩友らの漢詩が紹介され、森春濤門下の森槐南、岩渓裳川(いわたに・しょうせん)、小崎藍川らが評文を書いたが、仁一郎も五峰名義で折にふれて評文を寄せた。
7月22日、西蒲原郡横田村(現在の燕市横田)で信濃川の堤防が決壊、大洪水となる。翌年、翌々年の夏も県下で水害が起こるが、この年の大水害は「横田切れ」と呼ばれる空前の大水害であった。⇒翌年へ
9月、第2次松方内閣発足。松方正義は進歩党との連携が必須と考え、かつての政敵である大隈を外相に迎えたため「松隈内閣」と呼ばれる。
年始明けの『新潟新聞』に、仁一郎が松下聴濤名義で「聞鶏の感」を発表。人心を失って久しい藩閥が存続しつづけるのは、自由党にも進歩党にも自分の利益ばかり追う輩がいるからだと慨嘆したもの。
4月、松之山の甥村山真雄が新潟中学へ進学のため仁一郎宅に寄宿(1903年3月まで)。
7月4日から15日まで、松下聴濤名義で『新潟新聞』に「渓声山色」を連載(7回)。師を真似るなら師を越えることはできないから、ひとえに古人を学べと教えた森春濤に対する深い尊敬の念を綴り、春濤の艶麗体に対する世評の浅薄な見方を厳しく指弾している。春濤亡き後の漢詩壇を牽引する子の森槐南や、国分青厓(こくぶ・せいがい)、岩渓裳川、野口寧斎、佐藤六石、大久保湘南、永坂石埭ら春濤門下の俊英を紹介している。この年4月から新潟県知事として来越した勝間田稔(蝶夢)や大野楳華の名も見える。勝間田は漢詩結社「鴎鷺会」を結成、仁一郎や三浦桐陰らとしばしば詩会を催した。勝間田の知事在任3年間が鴎鷺会の最も盛んな時であったが、その後も新知事の柏田盛文(天ヒョウ(「風」扁に「炎」)、新潟地方裁判所所長の松野篤義(洪洲)らが跡を継ぎ、仁一郎と桐陰は10余年参会しつづけた。
7月から9月にかけて、前年にひきつづき新潟県下で水害が頻発。8月5日には内務省の樺山資紀大臣と古市公威土木局長が視察に訪れ、信濃川汽船で新潟から長岡へ向かった。仁一郎も船中同行して大河津(おおこうづ)分水開削の必要性を訴える。これをきっかけに政府も分水計画の再測量に着手、県会でも本格的に建議される。⇒1909年へ
8月17日から24日まで、松下聴濤名義で『新潟新聞』に「消夏小言」を連載(4回)。森春濤一門の権威を失墜させようと図った町田柳塘の文章を語気鋭く非難したエッセイ。柳塘の文中では、森春濤が臨終の時、門下の大江敬香1人にだけ息子槐南との不和を嘆いてみせたとある。しかし、大江は春濤主宰の『新文詩』120余集中たった1首しか載らなかった、ほぼ門外の人であり、春濤・槐南の睦まじさは門人なら誰もが知るところであったと記している。
11月13日、六女アキ(1897‐1967)誕生。
この年、母ユウが大安寺にて死去。
村山真雄は『月刊にいがた』1947年5月号に、この年から5年間の坂口家のようすを記している。それによると、仁一郎はめったに家にいることはなかったが、妻アサ、父得七、子供5人のほか、入れ替わり立ち替わり常に食客が大勢いたという。仁一郎の弟の義二郎、真雄ら親戚の居候が4人、車夫の伝二郎に乳母が2人、家政婦や使用人が幾人かいたほか、新潟新聞社に入った歌人山田穀城、やはり見込まれて1901年から04年まで20余歳で『新潟新聞』主筆となる沢本与一、沢本の後をうけて『新潟新聞』主筆をつとめる若き日の小林存(ながろう)、よかよか飴屋の爺さん、その連れの若い娘、囲碁仲間や按摩なども常連で入り浸っていた。
2月1日から6日まで、仁一郎が七松山人名義で『新潟新聞』に「倭寇詩徴」を連載(6回)。元寇で敗北した元の兵士が詠んだ詩から、倭寇が起こっていく過程を考察したもの。
7月9日、聴濤山人名義で『新潟新聞』に「秋水及鉄兜(てっとう)」を、10日に同名義で同紙に「菱湖(りょうこ)の墓碑」を発表。聴濤山人名義ではさらに7月12日に「義士の逸事」、14日に「館柳湾(たち・りゅうわん)の室」、17日に「浚明(しゅんめい)及竹沙(ちくさ)」、20日から24日まで「山田蠖堂(かくどう)」(3回)とたて続けに発表した。いずれも「越人詩話」の補遺となるもの。
4月16日から26日まで、松下聴濤名義で『新潟新聞』に「碁談」を口述連載(7回。第1回のタイトルは「棊談」)。13歳の村山真雄が筆記した。
この年、仁一郎が東京の憲政党本部を訪ねた時、衆議院議員になったばかりの田辺碧堂もいて、森春濤門下の双璧とうたわれた漢詩人2人が初めて出逢う。
1月、伊藤博文が3度めの組閣。藩閥・官僚による内閣で、地租増徴をめざしたが、3月15日の衆議院議員総選挙で反対派の進歩党と自由党が圧勝、6月に早々と解散、内閣総辞職となる。
6月、進歩党と自由党とが大同団結して憲政党を結成、旧進歩党の大隈重信を首相兼外相、旧自由党の板垣退助を内相とする日本最初の政党内閣が誕生する(隈板内閣)。
この時、文相には旧進歩党の尾崎行雄が就いたが、8月21日、尾崎は演説の中で財閥による金権政治を真っ向から批判、これが「不敬」と曲解されて、10月、明治天皇の命により解任される。
その後、文相の後任をめぐって旧進歩党と旧自由党が激しく対立、大隈が独断で犬養毅を任命すると、板垣ら旧自由党3大臣が辞任し、隈板内閣は倒れた。
以後、憲政党は分裂、旧自由党が憲政党の名を引き継ぎ、旧進歩党は1910年まで憲政本党を名のる。仁一郎は当然憲政本党に属した。
11月、第2次山県内閣が発足。再び藩閥・官僚による組閣を行い、地租増徴を実現する。
この年、自動車が初めて輸入され、築地・上野間を走行。鉄道建設を強力に推し進めた大隈は、早くから自動車社会の到来を予期していた。
4月、長男献吉が新潟市大畑小学校に入学。
8月10日、仁一郎が第7回衆議院議員総選挙で当選。以後、1920年5月の第14回総選挙まで毎回当選した。大隈重信を総裁とする憲政本党に所属したが、新潟の同志議員9名を糾合して一時党籍を離脱、新潟県進歩党を結成する。海軍拡張のための地租増徴に反対する姿勢をまず憲政本党内に示し、気運を盛り上げるためであり、これが桂内閣を解散に追い込むもととなる。
11月22日、三男成三(1902‐04)誕生。
2月15日から24日まで、仁一郎の新津町報告会における演説筆記「解散問題と吾党の主張」が『新潟新聞』に連載される(10回)。ここで新潟県進歩党は地租増徴のみならず海軍拡張そのものに反対であることを宣言、日本の財政事情や過去5年間の増税率を数字で示し、日本とロシアとでは国力の違いが大きすぎること、「貧国弱兵」に近い今の日本で更なる海軍拡張をすれば、ますます弱くなるだろうことを論理的に説明している。
3月24日から4月3日まで、仁一郎が二一老人名義で『新潟新聞』に「漢詩より見たる『野調』」を連載(11回)。新派和歌が旧派と肩を並べそうなほどに進歩してきた、とした上で、小金花作の新派歌集『野調』(3/1刊行)の欠点を指摘したもの。花作こと山田穀城は1896年から新潟新聞社記者となり、仁一郎の秘書役をつとめていた、いわば身内のような青年である。批判は痛烈だが、『野調』の中の優れた歌も多く摘記し、「花作の歌才を愛すること深きが故に敢て苦言を呈する」と記している。後半は『野調』に併録された須藤鮭川(けいせん)の歌集「花束」に対する批評になっており、花作の艶麗と対照的な鮭川の豪快さには、文辞の誤りや技巧的な浅さが目立つことを指摘。この評論は反響が大きく、同紙では4月5日から7日まで、花作の仲間の渡辺淡舟が「二一老人の『野調』評を難ず」で悪罵に類する反論を連載、4月8日に鮭川が「二一老人に一言す」にて自作の弁明を述べた。二一老人は4月10日から16日にかけて「再び野調に就て」を連載(4回)、彼らの反論の空疎さを指摘した。
4月17日および18日に二一老人名義で『新潟新聞』に「だいなし」を発表。五峰が森槐南を讃えた言葉とその詩が槐南に誤解され、『大阪毎日新聞』にも誤報が載ったことに対する弁明。
4月22、23日の『新潟新聞』「詞林月旦」に五峰の七言絶句連作12首が掲載される。評言は岩渓裳川。
11月、新潟県進歩党を解散し憲政本党に復党。1910年からは後継の立憲国民党、13年以後は立憲同志会、さらにその後継の憲政会に属した。当時は政党の分離・再編がひんぱんだったため必然的に所属政党名は移り変わるが、一貫して民権派であり、特に「大隈派」であったといえる。
11月12日、四男上枝(ほづえ)(1903‐76)と七女下枝(しづえ)(1903‐84)のふたご誕生。
12月17日、アメリカのライト兄弟が固定翼機による世界初の有人動力飛行に成功。
6月12日、仁一郎は同僚の衆議院議員佐藤伊助とともに、日露戦争終わり頃の戦地視察のため満洲・朝鮮への途につき、9月21日まで『新潟新聞』に連名で(時に仁一郎単独で)前線レポートを連載(45回)。佐藤はこの前線レポートでは三面江漁の筆名を名のり、仁一郎は七松山樵と対になる名を付けて、弥次喜多道中を模したユーモラスな調子で書いている。しばらく広島にとどまった後、門司から旅順、大石橋、遼陽などを視察した。
佐藤伊助は岩船郡村上町選出の代議士で、市島謙吉らとともに早稲田大学の創立にもかかわった人。村上の三面川は江戸時代に世界で初めて鮭の増殖に成功した川として知られる。同じ村上出身の歌人で記者の須藤鮭川(けいせん)は当時出征中で、同時期の『新潟新聞』に「鮭川生」の名でしばしば前線レポートを書いている。
1月、夏目漱石「吾輩は猫である」を連載開始(翌年8月まで)。
5月27日、日本海海戦で連合艦隊がバルチック艦隊を破る。
9月5日、日露講和条約調印。
【主要参考文献】
阪口五峰『北越詩話』上下 目黒甚七・目黒十郎 1919.3.25
同著復刻版「解題・索引」国書刊行会 1990.7.31
阪口献吉編『五峰余影』新潟新聞社 1929.11.3
同著増補版附録「坂口家の系図について」
坂口守二『治右衛門とその末裔』新潟日報事業社 1966.6
『坂口献吉追悼録』BSN新潟放送&新潟日報社 1966.10
明治文学全集62『明治漢詩文集』筑摩書房 1983.8.25
『新潟日報源流130年 時代拓いて』新潟日報社 2007.11.1
『新津市史 通史編』上下巻 新津市 1993.3.31、94.3.31
その他、各種辞書、事典、年表等