坂口安吾ヒストリ

執筆:七北数人
1881(明治14).8.1‐
1956(昭和31).11.2

會津八一(あいづ・やいち)

 歌人。美術史家。書家。号は秋艸道人、渾斎、八朔郎など。新潟市生まれ。
 中学生時代から『新潟新聞』などへ投句が掲載され、1899年来越した尾崎紅葉に面会し「鉄杵(てっしょ)」の号をもらう。東京専門学校(のちの早稲田大学)英文科で坪内逍遥らに学び、1910年に逍遥の推薦により早稲田中学校教員となる。
 1922、23年頃には仁一郎宛の手紙のスタイルで『新潟新聞』にしばしばエッセイを寄稿した。
 1926年には早稲田大学文学部講師となり、仏教美術史研究をまとめた『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(東洋文庫、1933年)で学位を受ける。
 1945年4月、東京大空襲で被災した折、仁一郎の長男献吉の手配により毎日新聞社機にて新潟へ疎開。以後、晩年の活動は献吉の支えによるところが大きい。1946年には献吉の要請をうけて夕刊にいがた社社長となる。1949年、同社が新潟日報社に吸収合併されて後も社賓として遇され、同年から『新潟日報』の題字は八一の書が用いられるようになった。
 1948年、早稲田大学名誉教授。1951年、新潟市名誉市民。

1837(天保8)4.17‐
1919(大正8).7.16

板垣退助(いたがき・たいすけ)

 自由民権運動の指導者。内相。土佐(高知県)生まれ。
 戊辰戦争では新政府軍参謀として活躍。
 1871年、西郷隆盛、木戸孝允、大隈重信とともに参議に就任するが、73年に征韓論を主張して破れ、西郷とともに政府を去る。
 1874年、自由民権運動の結社「愛国公党」を結成し、後藤象二郎、副島種臣らと民撰議院設立建白書を政府に提出するが却下される。
 1881年、日本初の政党・自由党を結成。全国を遊説して回り、新潟県でも多くの政治家が自由党に入党した。翌年、岐阜で遊説中に暴漢に襲われ負傷。
 1898年、進歩党の大隈重信と大同団結して憲政党を結成。大隈を首相兼外相、板垣を内相とする日本最初の政党内閣が誕生する(隈板内閣)。
 1900年、伊藤博文が憲政党(旧自由党)をのみこんで立憲政友会を結成。これを機に板垣は政界を引退、以後は社会事業などに力を尽くした。

1860(安政7).2.17‐
1944(昭和19).4.2

市島謙吉(いちしま・けんきち)

 衆議院議員。『新潟新聞』主筆。早稲田大学図書館長。号は春城。越後水原(すいばら)生まれ。
 1882年、大隈重信が立憲改進党を結成すると、東大を中退してこれに参加。同年、大隈の東京専門学校(早稲田大学の前身)創立にも小野梓、高田早苗らとともに深く関わった。
 1883年、上越地方で初めて創刊された日刊紙『高田新聞』社長兼主筆に招かれ、小野梓・箕浦勝人・吉田熹六らと新潟各地を遊説。おそらくこの時、仁一郎と出逢う。しかし翌年、筆禍に問われ入獄。その後、東京専門学校の政治学講師をつとめる。
 1886年、大隈らの推薦を受けて『新潟新聞』主筆となる。以後、仁一郎とは政友・詩友として、また印癖の趣味の友として、終生の親友となる。
 1888年、新潟の資産家らが設立した殖産協会内に、立憲改進党を支援する「同好会」を仁一郎とともに組織する。
 1891年、『読売新聞』主筆の高田早苗に誘われて同紙の編集に参画、のち主筆となる。
 1894年、衆議院議員に当選。1902年まで3期つとめる。病気のため、以後は早稲田大学の経営に携わり、初代の大学図書館長となる。のち日本図書館協会の初代会長もつとめた。
 1915年、政界復帰した大隈重信の後援会長となって選挙活動に従事。全国各地に大隈後援会ができ、その結果、立憲同志会が第一党に躍進する。
 1918年、仁一郎が『北越詩話』上巻を上梓するのに先立って、『新潟新聞』に同著の紹介文「苦心卅五年」を25回にわたって連載。
 1922年、大隈重信の死に際し葬儀委員長となる。日比谷公園で国民葬を催すと、約30万人の一般市民が参列した。また、墓碑銘を作って仁一郎に鉛板へ揮毫してもらう。
 随筆家としても知られ、多数の著書がある。尾崎紅葉、坪内逍遙とも交遊があり、會津八一を世に出すのにも力があった。

1841(天保12).9.2‐
1909(明治42).10.26

伊藤博文(いとう・ひろぶみ)

 初代首相。韓国統監。号は春畝。別号に滄浪閣主人。長州(山口県)生まれ。
 吉田松陰に学び、英国留学後、倒幕運動に参加。1873年、参議兼工部卿となり、内務卿、宮内卿などを歴任。1885年、内閣制度を創設し、初代総理大臣となる。1888年、明治憲法制定に当たる。総理大臣になること4度に及び、1900年9月、官僚や旧自由党などをとりこんで立憲政友会を結党、総裁となる。大隈重信を擁する憲政本党とはライバル関係にあり、仁一郎も『新潟新聞』などで伊藤の政策を批判した。
 日露戦争後、韓国統監となり公爵まで登りつめたが、ハルビンで韓国の独立運動家安重根に狙撃され、死亡。壮年期より書や漢詩をよくし、晩年は森槐南を側近として満洲視察にも同道させた。槐南は伊藤への狙撃で被弾し、これがもとで没する。

1855(安政2).4.20‐
1932(昭和7).5.15

犬養毅(いぬかい・つよし)

 首相。文相。逓信相。『郵便報知新聞』記者。号は木堂。備中(岡山県)生まれ。
 1876年、福沢諭吉の慶應義塾に入学。翌年『郵便報知新聞』記者として西南戦争に従軍。
 1881年、福沢と親交の深い大隈重信に国会開設委員として呼ばれ、尾崎行雄らとともに統計院権少書記官となる。
 1882年、大隈を擁する立憲改進党の結成に加わる。
 1886年、『朝野新聞』で大同団結運動を展開。
 1890年、第1回衆議院総選挙で当選。以後42年間、議員をつとめた。
 1898年、第1次大隈内閣では「共和演説」事件で辞任した尾崎の後を受けて文相となる。
 1907年、大隈重信が政界引退を表明すると、憲政本党内では大同団結を主張する「改革派」と、あくまで民権路線を貫く犬養らの「非改革派」が対立、仁一郎は「小犬養」とあだ名される一徹ぶりで犬養を盛り立てた。1910年に立憲国民党となる。
 1913年、護憲運動を展開、桂内閣に対して尾崎行雄とともに内閣不信任案を提出する。立憲国民党の多数は、桂が提唱する大同団結政党の立憲同志会設立に加わることとなり、仁一郎も苦渋の決断で新潟選出の議員らを従えてこれに参加、犬養は少数政党となった国民党に残る。
 1922年、立憲国民党を解党し、尾崎行雄らと革新倶楽部を結成。
 1923年、山本内閣で逓信相、24年、加藤高明の護憲3派内閣でも逓信相をつとめた。
 1925年、革新倶楽部を立憲政友会に吸収させて政界引退を表明するも、後援者らの要請で復帰。
 1929年、請われて立憲政友会総裁に就任。
 1931年、若槻内閣の後を受けて首相となる。高橋是清を蔵相として不況対策、金輸出再禁止などの経済政策を行う。しかし満洲事変の処理などで軍部の反発を買い、1932年、五・一五事件で暗殺された。戦前では政党政治最後の首相となった。

1855(安政2).1.27‐
1943(昭和18).3.27

岩渓裳川(いわたに・しょうせん)

 漢詩人。名は晋。別号を半風痩仙。丹波(兵庫県)福知山生まれ。
 1878年、森春濤の「茉莉吟社」に入り、仁一郎と同じ頃から『新文詩』に漢詩が掲載されるようになる。
 1890年、森槐南・国分青涯らの漢詩結社「星社」に加入。1891年に仁一郎が新潟新聞社社長になると、同紙の文芸欄「詞林月旦」に、槐南らとともに折にふれて漢詩の評文を寄せた。1903年4月22、23日の「詞林月旦」に仁一郎の七言絶句12首が掲載された際も、全首の評言を書いた。
 槐南の没後は、国分青涯と並んで詩壇の大御所といわれた。

1857(安政4).12.24‐
1916(大正5).10.26

大江敬香(おおえ・けいこう)

 漢詩人。漢詩評論家。名は孝之。阿波徳島生まれ。
 詩を志して菊池三渓および森春濤の添削を乞う。しかし、春濤の『新文詩』に採り上げられたのは1作のみだったという。
 1878年から『静岡新聞』主筆となり、『山陽新報』『神戸新報』主筆を歴任後、東京府庁に勤める。その後も『朝野新聞』漢詩欄の評者をつとめるほか、漢詩雑誌『精美』『花香月影』『風雅報』などを発行。「明治詩壇小史」などの評論が有名。
 森槐南や大久保湘南ら春濤門下の詩人たちが集まった「星社」や「随鴎吟社」などにも参加しているが、春濤のことはあまり評価していない。
 1897年、仁一郎は大江が語ったという春濤・槐南父子の不和説を厳しく指弾している。

1865(慶応1).10.19‐
1908(明治41).2.9

大久保湘南(おおくぼ・しょうなん)

 漢詩人。『北海新聞』等主筆。名は達。佐渡相川生まれ。
 『北海新聞』『函館日日新聞』の主筆をつとめた後、上京して森槐南に師事。
 1890年、槐南・国分青涯らの漢詩結社「星社」に加入。野口寧斎・佐藤六石らとともに槐南門下の四天王と称された。
 1904年、槐南とともに「随鴎吟社」を興す。

1838(天保9).2.16‐
1922(大正11).1.10

大隈重信(おおくま・しげのぶ)

 首相。蔵相。外相。早稲田大学創立者。肥前(佐賀県)生まれ。
 幕末、佐賀藩校英学塾で副島種臣と共に教頭格で指導に当たる。
 1871年、西郷隆盛、木戸孝允、板垣退助とともに参議に就任。73年に大蔵卿を兼任する。
 1881年、国会開設を早期に達成するべく、親交の深い福沢諭吉の支援を受けて、慶應義塾出身の尾崎行雄や犬養毅を民間からの国会開設委員として登用する。しかし、開拓使官有物払下げを巡ってかつての盟友伊藤博文ら薩長藩閥と対立、「明治14年の政変」により免官となる。
 自由民権運動の高まりとともに、板垣退助が1881年に自由党を結成。
 大隈も翌82年、立憲改進党を結成する。党員は小野梓、矢野文雄、犬養毅、尾崎行雄、前島密、鳩山和夫、箕浦勝人、市島謙吉ら。同年、小野梓、高田早苗、市島謙吉らと東京専門学校(早稲田大学の前身)を創立する。初代校長は婿養子の大隈英麿。
 1888年、伊藤博文内閣で外相井上馨の辞任に伴い、政敵の大隈が外相となる。2カ月後に発足した黒田清隆内閣でも大隈は外相に留任、不平等条約の改正に取り組んだ。しかし、この時の条約改正が国家主義者たちには自卑的であると映り、89年、大隈はテロに遭い、右足を失う。
 1896年、他の小政党と団結して進歩党を結成。第2次松方内閣で外相に迎えられる。
 1898年、進歩党と自由党とが大同団結して憲政党を結成、旧進歩党の大隈重信を首相兼外相、旧自由党の板垣退助を内相とする日本最初の政党内閣が誕生する(隈板内閣)。
 1901年、遊説のため来越した折、仁一郎も同行して県内各地を回る。仁一郎は生涯一貫して「大隈派」であった。
 1907年、憲政本党総裁を辞任、政界引退を表明し、早稲田大学総長に就任、しばらく文化事業に力を入れる。
 1910年、日本自動車倶楽部が発会、会長をつとめる。
 1914年、加藤高明や仁一郎らの立憲同志会と尾崎行雄らの中正会に請われて政界に復帰、第2次大隈内閣が誕生する。
 1916年、政界から完全に引退。
 1922年、死去。市島謙吉が葬儀委員長となって日比谷公園で国民葬が催され、約30万人の一般市民が参列した。仁一郎は市島謙吉に頼まれ、市島の作った墓碑銘を鉛板に揮毫した。

1807(文化4)‐
1884(明治17).3.14

大野耻堂(おおの・ちどう)

 新発田藩の儒学者。名は紳。越後生まれ。
 1853年、聖籠(せいろう)村諏訪山に私塾絆己楼を開く。1871年に入門した12歳の仁一郎の五言絶句を耻堂は激賞した。のち藩学教授格となり、丹羽思亭、藍沢南城と並び称された。

1834(天保5).4.2‐
1884(明治17).10.27

大野楳華(おおの・ばいか)

 儒学者。長野県令。名は誠。越後生まれ。大野耻堂の長男。
 初め、父の私塾絆己楼で子弟を教えるが、まもなく江戸に出て浅草、湯島で文武二道の教授をする。維新後は工部権大丞(ごんのたいじょう)の官に就く。
 1874年、東京へ出奔して来た仁一郎を寄宿させた。
 その後、太政官権大書記官、長野県令などをつとめた。

1895(明治28).5.13‐
1985(昭和60).7.16

大野璋五(おおの・しょうご)

 東京高等裁判所長官。少年時代の仁一郎が教えを受けた大野耻堂の曾孫。同じく仁一郎と親交のあった大野楳華の孫に当たる。夫人の林(りん)は、安吾の兄献吉の夫人徳(のり)
の姉。安吾が長年住んだ蒲田の家の近所に住んでいたが、戦争で焼け出されて後は、安吾の家に一家4人(夫人と息子檀、娘容子)で同居した。1967年、勲一等瑞宝章受章。

1863(文久3)‐
1910(明治43).2

小崎懋(おざき・つとむ)

 漢詩人。『新潟新聞』主筆。号は藍川(らんせん)。佐渡相川生まれ。
 1881年、森春濤が来越し仁一郎宅に投宿した際、春濤門下に入る。同時に仁一郎が尾崎行雄から引き継いだ詩会・一酔一吟社に参加。また、仁一郎の紹介により新潟新聞社の記者となる。
 1882年、本間新作らが創刊した文学雑誌『文海一珠』に仁一郎らとともに同人参加。
 1888年、市島謙吉や仁一郎らが立憲改進党を支援する「同好会」を組織するとこれに加わり、党勢拡張のため各地を遊説する。
 1891年、市島謙吉上京の後を受けて『新潟新聞』主筆となる。同紙の文芸欄「詞林月旦」に、仁一郎や森槐南、岩渓裳川らとともに、しばしば評文を書いた。

1858(安政5).11.20‐
1954(昭和29).10.6

尾崎行雄(おざき・ゆきお)

 文相。法相。東京市長。『新潟新聞』主筆。号は愕堂、咢堂。相模(神奈川県)生まれ。
 1874年、慶應義塾に入学。79年、福沢諭吉の推薦により『新潟新聞』主筆となる。同時に新潟で最初の県会で書記を委嘱される。新潟に居住した2年の間、仁一郎を漢詩の師と仰いで一酔一吟社を結成、毎月詩会を開く。
 1881年、福沢と親交の深い大隈重信に国会開設委員として呼ばれ、上京。犬養毅らとともに統計院権少書記官となる。
 1882年、『郵便報知新聞』記者となり、大隈を擁する立憲改進党の結成に加わる。
 1890年、第1回衆議院議員総選挙に当選。以後63年、議員をつとめた。
 1898年、大隈内閣で文相に就任するが、「共和演説」事件で不敬とされ解任。
 1900年、大隈の憲政本党を離れて、伊藤博文が結成した立憲政友会に加わるが、3年後に離党。1903年から12年まで、東京市長に就任した。
 1913年、桂内閣に対して犬養毅とともに内閣不信任案を提出、「護憲の神様」と呼ばれる。政友会と対立して離党、中正会を結成。
 1914年、第2次大隈内閣で法相となる。
 1916年、立憲同志会と合同して憲政会を結成。普通選挙法制定をめざすが、21年に離党。
 1922年、犬養毅らと革新倶楽部を結成。軍縮、治安維持法反対などを掲げて活動したが、ここでも大同団結を主張する幹部と対立、無所属となる。
 1945年、「世界連邦建設に関する決議案」を議会に提出。安吾はこれに強い関心を示し、「咢堂小論」を執筆した。
 1953年、総選挙で初めて落選し、引退。衆議院名誉議員、東京都名誉都民(第1号)となる。

1852(嘉永5).2.20‐
1886(明治19).1.11

小野梓(おの・あずさ)

 法学者。土佐(高知県)生まれ。
 1871年、米国・英国に留学。1876年から司法省官吏となる。
 1882年、高田早苗、矢野文雄、犬養毅、尾崎行雄らと大隈重信の立憲改進党結成に加わる。同年、大隈のもとで、高田、市島謙吉らと東京専門学校(早稲田大学の前身)を創立。学校内で仏教講習会を主催する。
 大隈の知恵袋といわれ、1883年には市島謙吉・箕浦勝人・吉田熹六らと各地を遊説、新潟でも演説を行う。
 1885年、主著『国憲汎論』の執筆を終えた翌年、33歳の若さで病死。

1842(天保13).12‐
1906(明治39).1.30

勝間田稔(かつまた・みのる)

 新潟県知事。号は蝶夢。山口生まれ。
 幕末の周防山口藩士、明治以後は山口県大属などをへて内務権大書記官となる。その後、愛知、愛媛、宮城の各県知事を歴任。1897年4月から1900年1月まで新潟県知事となる。蝶夢の号で漢詩もよくし、新潟では漢詩結社「鴎鷺会」を結成、仁一郎や三浦桐陰らとしばしば詩会を催した。

1847(弘化4).11.28‐
1913(大正2).10.10

桂太郎(かつら・たろう)

 首相。陸相。陸軍大将。元老第二世代。長州(山口県)生まれ。
 1870年から3年間ドイツ留学。山県有朋に引き立てられ、1878年、参謀本部勤務。陸軍にドイツ式兵制をとりいれる。中将、第3師団長として日清戦争に出征、台湾総督をつとめた後、1898年、第3次伊藤博文内閣以降、4代の内閣で陸相をつとめる。
 1901年、首相となる。以後、西園寺公望と交互に3回組閣、桂園時代と呼ばれる。元老や政党議員、財界人らを巧みに懐柔し「ニコポン宰相」と評されたが、日英同盟、日露戦争、韓国併合などを断行する果断さももち、大逆事件をはじめ社会運動を弾圧した。
 1913年、護憲運動を受けて総辞職。その後、自派の官僚と政党議員をとりこんだ立憲同志会設立を提唱。これにより、期せずして仁一郎と加藤高明、若槻礼次郎、町田忠治らが盟友となる。桂は同志会結成を目前にして病死し、加藤高明が総裁となった。

1860(安政7).1.3‐
1926(大正15).1.28

加藤高明(かとう・たかあき)

 首相。外相。尾張生まれ。
 東大法科を首席で卒業後、三菱に入社し渡英。帰国後は三菱本社の副支配人となり、岩崎弥太郎の長女と結婚。
 1888年、外相大隈重信の秘書官となる。駐英大使などをへて、1900年、第4次伊藤内閣で外相となる。1906年、第1次西園寺内閣でも外相に就任するが、2カ月後に鉄道国有化に反対して辞任。
 1913年、首相桂太郎の呼びかけに応じ、官僚や仁一郎ら立憲国民党などの政党議員をとりこんだ立憲同志会が結党され、総裁となる。この時、仁一郎は相談役兼新潟支部長。この結党により、仁一郎は加藤、若槻礼次郎、町田忠治らと盟友になる。
 1914年、第2次大隈内閣で外相となる。この時期、第1次世界大戦への参戦、中国に21カ条条約を強制執行するなど、武断的な側面が表に出る。
 1916年、大隈の政界引退に伴い、立憲同志会と尾崎行雄らの中正会が合同して憲政会を結成、総裁となる。元老政治の打破と普通選挙法制定をめざす。この時、仁一郎は党務委員長、新潟支部長に就任。
 1921年、仁一郎が憲政会北陸大会と同時に新潟支部の屋舎新築落成式を開くと、めったに地方の式には出ない加藤をはじめ、幹事長、党務委員長ほか有志500余名が出席した。
 1923年、関東大震災後の戒厳令下、仁一郎の命をうけた安吾が加藤邸を火事見舞いに訪れる。
 1924年、憲政会が比較第一党となり、護憲3派内閣の首相となる。翌年、選挙公約であった普通選挙法を成立させ、ソ連と国交を樹立する。一方で悪名高い治安維持法も成立させた。この内閣以降7代、衆議院の多数政党が組閣する「憲政の常道」が確立された。
 1926年、首相在任中に病死。憲政会同志の若槻礼次郎が首相を継いだ。

1857(安政4).5.5‐
1944(昭和19).3.5

国分青涯(こくぶ・せいがい)(正しくは「土」偏+「隶」)

 漢詩人。名は高胤。別号を太白山人。陸前(宮城県)仙台生まれ。
 司法省法学校に入学するがストライキに参加、原敬・陸羯南(くが・かつなん)・福本日南らと共に退学。1889年、陸羯南の創刊した新聞『日本』に漢詩による時事評論を発表して有名になる。1890年、森槐南らと漢詩結社「星社」を結成。明治後期から昭和にかけて、槐南と並び漢詩壇の重鎮であった。1923年、大東文化学院教授。1937年、帝国芸術院会員。
 1919年頃、詩友の田辺碧堂の紹介で仁一郎との交遊が始まる。『五峰遺稿』に収録された詩は、仁一郎の遺志により碧堂と青涯および館森袖海の3人が編集校閲した。

1840(天保11).3.21‐
1899(明治32).3.30

籠手田安定(こてだ・やすさだ)

 新潟県知事。貴族院議員。肥前(長崎県)生まれ。
 初め、肥前平戸藩士。山岡鉄舟に剣を学び免許を得たといわれる。維新後は滋賀県令をへて元老院議官。1885年から島根県知事、1891年4月から1896年2月まで新潟県知事となった。1893年、県会議長だった仁一郎と信濃川堤防改築の問題で対立、仁一郎は籠手田を弾劾すべく県会を代表して法制局へ陳情に赴いた。
 その後、1897年まで滋賀県知事をつとめた後、貴族院議員に選ばれ、男爵となる。

1877(明治10).6.6‐
1961(昭和36).3.10

小林存(こばやし・ながろう)

 民俗学研究家。『新潟新聞』主筆。歌人。俳人。号は粲楼。中蒲原郡横越(よこごし)村(現在の新潟市江南区)生まれ。
 1894年、東京専門学校(のちの早稲田大学)在学中に、蒲原有明、山岸荷葉、林田春潮らと同人誌『落穂雙子』を発刊。
 1900年12月、新潟新聞社の歌人山田穀城に同紙上で論争を挑む。仁一郎は小林の才能を認めて、坂口家へ自由に出入りさせた。
 1904年2月、新潟新聞社に入社、主筆となる。退社するまでの8年余の間に、三面(みおもて)、秋山、銀山平など新潟県内の主に辺境とよばれる地方の探訪ルポを数多く連載。
 1913年4月、良寛研究の労作『弥彦神社 附国上と良寛』を刊行。
 1934年、新潟県民俗学会(高志路(こしじ)会)を結成。翌35年から月刊誌『高志路』を創刊、新潟民俗学の基礎を築いた。『高志路』1940年11月号には、仁一郎が生前執筆したエッセイ「米穀売買の沿革」が掲載されている。著書に『越後方言考』など。

1849(嘉永2).10.23(11.2とも)‐
1940(昭和15).11.24

西園寺公望(さいおんじ・きんもち)

 政治家。首相。京都の右大臣家に生まれる。
 1869年、京都御所内の私邸に私塾「立命館」を開設するが、自由な気風が危険視され1年弱で閉鎖となる。1871年から10年間、フランスに留学して自由民権運動に共鳴。1881年、中江兆民らと『東洋自由新聞』を創刊するが、勅命により1カ月余りで廃刊となる。同年、明治法律学校(のちの明治大学)創立にも関わる。
 伊藤博文の信任を得て各国公使・文相・外相・蔵相などを歴任。1903年、伊藤の後を受けて立憲政友会総裁となる。
 1906年1月から1908年7月まで、第1次西園寺内閣を組閣。以降、桂太郎と交互に組閣し、桂園時代と称される。1911年8月から1912年12月、第2次組閣。その後、薩長閥以外では初めて、かつ最後の元老に任命される。1919年、パリ講和会議の首席全権となる。
 陶庵の号で書や漢詩もよくし、『陶庵随筆』のほか戯曲や仏訳和歌集なども刊行している。文人らを招じたサロンを主宰し、森鴎外、幸田露伴、内藤湖南らと交遊した。

生没年未詳

佐藤伊助(さとう・いすけ)

 明治・大正時代に新潟県岩船郡村上町から選出された衆議院議員。村上銀行頭取。
 1882年、市島謙吉らと共に早稲田大学の創立に関わる。
 1898年から衆議院議員。
 1905年、仁一郎とともに日露戦争戦地視察に赴いた時の筆名「三面江漁」は、故郷の三面(みおもて)川に由来する。日本で最初の鮭の人工孵化場が設置された川として有名。
 1910年、村上町に電話を架設するための発起人の一人となる。
 1913年、水力発電の外人技師を招くなどして村上水電株式会社を創立した。

1864(元治1).3.6‐
1927(昭和2).4.22

佐藤六石(さとう・りくせき)

 漢詩人。名は寛。通称は和田蔵。越後新発田生まれ。
 大野耻堂に学び、1881年、来越した森春濤に師事する。1882年、『新潟日日新聞』に入社、編輯長となる。1884年に上京、春濤の「茉莉吟社」に入り、同門の野口寧斎と交遊。
 1889年、文部省の嘱託で『古事類苑』の編纂に携わる。
 1890年、森槐南・国分青涯らの漢詩結社「星社」に加入。野口寧斎・大久保湘南らとともに槐南門下の四天王と称された。各紙誌の漢詩欄の編輯、選評などを手がけ、小説や俳句も発表。
 1892年、慶應義塾大学教授。1906年には韓国統監となった伊藤博文の推薦により渡韓、李王家の顧問に挙げられたほか、英親王の侍読や修学院名誉教授などを兼ねた。

1880.5‐
1935.1.16

沢本与一(さわもと・よいち)

 『新潟新聞』主筆。実業家。衆議院議員。東京市助役。山口県生まれ。
 初め、読売新聞社記者だったが、1901年、仁一郎に見込まれて坂口家に寄宿し、20歳で『新潟新聞』主筆となる。
 1904年、日露戦争が起こると従軍記者として出征、後任の主筆を小林存がつとめた。その後、久原商事株式会社の北京支店長となる。
 1923年、重篤の仁一郎を見舞った際、仁一郎の詩を激賞した北京の碩学がいるという話を聞き、直ちに電報でその碩学の許へ部下を派し、仁一郎のために詩を揮毫してもらって、臨終前までに病床へ届けさせた。
 司法省・鉄道省の秘書官などをへて、1928年から衆議院議員(当選3回。民政党)。
 1933年から34年まで東京市助役となる。

1846(弘化3)‐
1909(明治42)

鈴木長蔵(すずき・ちょうぞう)

 新潟新聞社社長。新潟市長。衆議院議員。新潟町生まれ。
 1875年、活版印刷の隆文社を創業し、同社から1877年に『新潟新聞』を創刊。まもなく新潟新聞社として独立させ、初代社長をつとめた。
 1879年、第1回県会で副議長となる。1887年、新潟新聞社主筆の市島謙吉と対立して退社。この時、鈴木が放出した株を仁一郎が引き受けて同社の経営に加わる。
 1891年から99年まで、新潟市長に就任。その間、95年には仁一郎が県会の混乱収拾のため、鈴木の中立の立場を適任とみとめて県会議長に押し立てた。また、96年には新潟商業会議所(のちの商工会議所)が創立されて会頭となる。
 1902年から衆議院議員を2期つとめた。

1860(安政7).3.14‐
1938(昭和13).12.3

高田早苗(たかた・さなえ)

 文相。早稲田大学総長。江戸深川生まれ。東大文学部を卒業。
 1882年、小野梓、矢野文雄、犬養毅、尾崎行雄らと大隈重信の立憲改進党結成に加わる。同年、大隈のもとで、小野、市島謙吉らと東京専門学校(早稲田大学の前身)を創立、講師兼評議員となる。かたわら『読売新聞』主筆をつとめる。
 1890年、衆議院議員となる(当選6回。立憲改進党)。これに伴い、『新潟新聞』主筆をつとめていた市島謙吉を『読売新聞』主筆後任として呼び寄せる。
 1892年、牛込で暴漢に襲われる。
 1898年、第1次大隈内閣で文部省参事官となり、1903年に政界を離れる。
 1907年、大隈の早稲田大学総長就任に伴い、学長となる。
 1915年、貴族院議員に勅撰され、第2次大隈内閣の文相となる。翌年、加藤高明を総裁とする憲政会結成に参加、尾崎行雄、若槻礼次郎、浜口雄幸らと総務になる。この時、仁一郎は党務委員長、新潟支部長に就任。
 1923年から31年まで、早稲田大学総長をつとめた。

1863(文久3).12.3‐
1942(昭和17).12.24

館森袖海(たちもり・しゅうかい)

 漢詩人。漢学者。名は萬平。別号を拙存園。
 陸前(宮城県)本吉郡生まれ。1895年、台湾総督府文書課に勤め内藤湖南らと交遊。清国留学、台湾の国語学校教諭を経て、1917年帰国。大東文化学院、聖心女学院、日本大学文学科、高等師範学校などの教授を歴任。『日本及日本人』の詩欄選者を担当する。『斯文』『大正詩文』などに稿を寄せた。
 国分青、田辺碧堂とのつながりで晩年の仁一郎と交友があり、青涯、碧堂と共に『五峰遺稿』の編集校閲を行った。

1864(元治1).12.13‐
1931(昭和6).4.18

田辺碧堂(たなべ・へきどう)

 漢詩人。衆議院議員。実業家。名は華。通称為三郎。備中(岡山県)生まれ。
 地方在住の漢詩人として坂口五峰(仁一郎)とともに森春濤門下の双璧とうたわれる。剛健な長詩を得意とする五峰と対照的に、春濤と似た艶麗体の絶句を得意とした。絶句以外は作らなかったといわれ、「絶句碧堂」の名で知られる。詩集に『碧堂絶句』『凌滄集』などがある。
 1898年、憲政党の衆議院議員となり、党本部でたまたま上京していた仁一郎と出逢う。晩年の仁一郎に詩友の国分青涯を紹介、『五峰遺稿』に収録された詩は、仁一郎の遺志により碧堂と青および館森袖海の3人が編集校閲した。
 1903年まで2期、衆議院議員をつとめ、大東汽船社長、日清汽船監査役、大東文化学院教授、芸文社顧問などを歴任した。

1859(安政6).7.22‐
1945(昭和20).1.29

内藤久寛(ないとう・ひさひろ)

 衆議院議員。実業家。号は栗城。越後刈羽郡生まれ。
 1885年、新潟県会議員となる。1888年、山口権三郎、牧口荘三郎、本間新作ら県下の資産家が殖産協会を設立すると、県議仲間の仁一郎とともに参画。同協会にて日本石油会社を興すことが決まり、会社の定款を仁一郎とともに起草、同社の初代社長となる。
 1894年から衆議院議員(当選2回。進歩党)。
 1896年8月、仁一郎と共に舟を買い、大水害後の信濃川堤防修築を視察し、詩を吟じ合う。
 日本石油会社ではその後、秋田の黒川油田を掘り当て、1921年、宝田(ほうでん)石油を合併、日本の石油界をほぼ独占するに至る。
 1925年、貴族院議員に勅撰される。

1845(弘化2).9.23‐
1924(大正13).8.24

永坂石隶(ながさか・せきたい)(正しくは「土」偏+「隶」)

 漢詩人。書家。名は周二。尾張名古屋生まれ。
 森春濤が名古屋で興した「桑三軒吟社」で活躍、丹羽花南らとともに春濤門下の四天王とうたわれる。1874年頃上京、春濤の上京を世話し、春濤の「茉莉吟社」に加わる。
 1890年、森槐南・国分青涯らの漢詩結社「星社」に参加。書画・篆刻にもすぐれた。

1832(天保3).5.26‐
1891(明治24).6.7

中村正直(なかむら・まさなお)

 洋学者。啓蒙思想家。号は敬宇。別号に鶴鳴など。江戸生まれ。
 1862年、30歳で幕府の儒官最高の地位に就き、蘭学や英学を修して、幕末の英国留学生監督官として渡英。
 1870年から翌年にかけて、スマイルズの翻訳『西国立志篇』、J・S・ミルの翻訳『自由之理』を刊行。これらがベストセラーとなり、啓蒙思想家として福沢諭吉と並び称される。
 1873年、東京小石川(江戸川町大曲)に私塾「同人社」を開くとともに、福沢諭吉、森有礼、西周らと「明六社」を設立、後進を育てる。1875年、16歳の仁一郎が東京へ出奔したのは、同人社で洋学を学ぶためであった。
 その後、東大教授、貴族院議員などを歴任した。敬宇の号で漢詩にも優れていた。

生没年不詳

中村龍太(なかむら・りゅうた)

 『文海一珠』の同人。号は梨洲。
 仁一郎の曾祖父文仲が私淑した儒者は加藤北溟であったが、『北越詩話』加藤其徳(松斎。北溟の子)の項では、「我が梨洲叔、少時、松斎に学ぶ」とあり、「予が家は、北溟先生以来、両世の因縁あり」と記されている。
 「梨洲」と号する叔父がいたならば、仁一郎の父得七の兄弟か母ユウの兄弟になるが、何人いたか、その名など、未詳。
 「梨洲」の号で仁一郎の周辺に現れるのは中村龍太しか見当たらないので、この人が叔父であった可能性は高い。本間新作と武者喜澄が創刊した文学雑誌『文海一珠』に、仁一郎や弟の義二郎らとともに同人参加している。
 『北越詩話』建部利水の項には「叔子梨洲君、新潟県に官して地誌を編し、助手多く文士を要す」とあり、仁一郎が梨洲に建部利水を推薦したという。
 また、仁一郎が直江兼続を論じた「越人詩話」第1回には「舅社梨洲翁曰く、少時米沢に遊び、上杉侯の文庫を観る」と書かれている。

1867(慶応3).3.25‐
1905(明治38).5.12

野口寧斎(のぐち・ねいさい)

 漢詩人。文芸評論家。名は弌(いち)。通称一太郎。肥前諫早(長崎県)生まれ。
 上京して森春濤の「茉莉吟社」に入り、同門の佐藤六石と交遊。早くから詩才をあらわし、1890年、森槐南・国分青涯らの漢詩結社「星社」加入時には、「詩壇の鬼才」と呼ばれていた。大久保湘南・佐藤六石らとともに槐南門下の四天王と称された。
 1903年、詩誌『百花欄』を創刊。新聞や雑誌の漢詩欄選者を多くこなし、文芸評論でも有名となる。

1870(明治3).4.1‐
1931(昭和6).8.26

浜口雄幸(はまぐち・おさち)

 首相。蔵相。内相。高知県生まれ。
 1895年、東大法科を卒業後、大蔵省官吏となる。省内には先輩の若槻礼次郎がいた。
 1915年、加藤高明、若槻、仁一郎らの立憲同志会に入党、衆議院議員となる。
 1916年、立憲同志会が中正会などと合同して憲政会を結成すると、尾崎行雄、高田早苗、若槻礼次郎らとともに総務となる。この時、仁一郎は党務委員長兼新潟支部長だったが、1918年に浜口らとともに総務となる。
 1924年、加藤高明内閣で蔵相となる。1926年、加藤急逝の後を受けた第1次若槻内閣では内相に就任。
 1927年、憲政会が政友本党と合同して立憲民政党を結成、総裁に就任する。
 1929年、首相に就任。この年、献吉が刊行した父仁一郎の追悼録『五峰余影』の扉に題字を書く。
 1930年、長年の懸案だった金解禁を断行、産業の構造改革をめざすが、世界恐慌のあおりを受けて大不況に陥る。また、協調外交を推進しロンドン海軍軍縮条約に調印。東京駅で右翼青年に銃撃され、翌年死去。

1834(天保5).12.12‐
1901(明治34).2.3

福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち)

 啓蒙思想家。慶應義塾創設者。『時事新報』発行者。大坂生まれ。
 1855年、緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、58年、江戸で蘭学塾(のちの慶應義塾)を開設。独学で英語を学び、1860年、幕府の遣米使節に随行して、勝海舟、ジョン万次郎らとともに咸臨丸で渡米。同年、ヨーロッパ各国も視察して回り、帰国後、アメリカ独立宣言の翻訳などを盛り込んだ『西洋事情』を著す。
 維新後も洋学普及をめざして慶應義塾で教育活動に取り組む。
 1872年2月、『学問のすゝめ』初編刊行。あらゆる人間の平等をうたい、儒学や漢文よりも実学を学べと説いたこの書は、激しい批判を浴びたが、大ベストセラーとなった。
 1873年、森有礼、西周、中村正直らとともに明六社を設立、啓蒙思想の普及に努める。この頃、参議兼大蔵卿の大隈重信と出逢い、しだいに親交を深める。
 1877年、『新潟新聞』が創刊されると、慶應義塾卒の斎木貴彦、藤田九二、古渡資秀、尾崎行雄、津田興二を次々に編輯長として送り込む。
 1881年、大隈重信が国会開設委員を民間から登用するため福沢に相談、福沢は慶應義塾出身の尾崎行雄と犬養毅を推薦、ともに権少書記官となる。
 1882年、『時事新報』を創刊。大隈の立憲改進党結成および東京専門学校(早稲田大学の前身)創立にもバックアップを惜しまず、東京専門学校開校式では福沢が祝辞を述べた。
 著書はほかに『文明論之概略』(1875年)『福翁自伝』(1899年)など。

1845(弘化2)10.1‐
1936(昭和11).7.26

本間新作(ほんま・しんさく)

 新潟県実業界の重鎮。県会議員。号は禾雄。越後生まれ。
 新潟の堀家に生まれるが、母親の実家である蒲原郡下新村の大庄屋本間家を継ぐ。
 1869年、明治政府が新潟為替会社を設立、その頭取に就任する。
 1873年、市島徳次郎、山口権三郎らと第四銀行設立の発起人となり、1878年まで取締役をつとめた。
 1876年、『新潟新聞』創刊の発起人となる。仁一郎が大志をいだいて上京するも連れ戻されて悶々としていたところ、本間が引っぱり出して地租改正問題に共に取り組む。村松町から七日町村まで広大な地域に及び、3年余にわたり奔走した。
 1877年、新潟米商会所(のちの新潟米穀株式取引所)を設立。
 1879年、最初の新潟県会議員選挙に当選。弱冠20歳の仁一郎を新潟米商会所の頭取代理とした。
 1882年、武者喜澄(城川)と共に、漢詩・和歌・俳諧の月刊誌『文海一珠』を創刊。1885年の終刊まで、毎号のように五峰(仁一郎)の漢詩が載る。
 1887年、新潟新聞社の初代社長鈴木長蔵が退社したため、一時的に社長となる。以後、仁一郎を同社の経営に引き入れる。
 1888年、山口権三郎の首唱による殖産協会設立に参画。県議の仁一郎や内藤久寛をとりこんで日本石油会社を興し、2人に会社の定款を草してもらう。
 ほかにも北陸水力電気会社、北陸鉄道、新潟鉄工所などの設立に関わったほか、郡農会長として農事改良に力を尽くした。

1835(天保6).1.7‐
1919(大正8).4.27

前島密(まえじま・ひそか)

 郵便制度創設者。実業家。貴族院議員。越後上越生まれ。
 薩摩藩の蘭学講師。維新後は民部省、大蔵省官吏となり、郵便制度の創設を建議。
 1871年3月、郵便事業を開始させ、「郵便」「切手」などの名称を定める。
 1872年6月、『郵便報知新聞』創刊。矢野龍渓、尾崎行雄、犬養毅、吉田熹六ら慶應義塾出身者を多く採用した。
 1879年、内務省駅逓総監となるが、81年、「明治14年の政変」で大隈重信とともに辞職。
 1882年、大隈を擁する立憲改進党の結成に加わる。
 1887年から90年まで、東京専門学校(のちの早稲田大学)の第2代校長に就任。
 その後、逓信次官、北越鉄道社長などをつとめ、貴族院議員に勅撰される。

1863(文久3).3.30‐
1946(昭和21).11.12

町田忠治(まちだ・ちゅうじ)

 農相。商工相。蔵相。国務相。号は幾堂。出羽(秋田県)生まれ。
 1888年、『朝野新聞』で犬養毅、尾崎行雄らとともに論説記者となる。その後、大隈重信の所有する『郵便報知新聞』の経営に携わり、1895年『東洋経済新報』を創刊。
 1896年からは財界に入り、日本銀行調査役、山口銀行総理事などを歴任。
 1912年、衆議院議員となる。立憲国民党に属し、仁一郎、武富時敏らとともに立憲同志会準備委員となる。以後、仁一郎と親交を結ぶ。
 1914年、第2次大隈内閣の農商務省参政官に抜擢される。この時、仁一郎も参政官に推されたが固辞し、代わりに同郷の鳥居金帝(正しくは「金」偏+「帝」)次郎を推して内務副参政官に任命させた。
 1926年、第1次若槻内閣で農相に就任。続く浜口雄幸内閣、第2次若槻内閣でも農相をつとめた。1934年の岡田内閣では商工相となる。1935年、民政党総裁に就任。以後、蔵相、参議、国務相などを歴任した。
 戦後1945年、日本進歩党を結成、総裁となったが、翌年公職追放により政界を引退した。

1848(嘉永1)‐
1915(大正4).7

三浦桐陰(みうら・とういん)

 漢方医。漢詩人。名は春。通称宗春。越後水原生まれ。三浦鳩村の子。
 1883年、同郷の市島謙吉らが立憲改進党の演説で新潟に来ると、これを積極的に支援した。この時、おそらく仁一郎とも出逢う。折しも旧友の清の漢詩人王治本が桐陰のもとを訪れ、仁一郎は治本の詩集『舟江雑詩』を編集、出版した。
 以後、仁一郎、市島らと酒席や詩会で交遊するようになる。3人には「印癖」と呼ばれる共通の趣味があった。桐陰は仁一郎に名篆刻家の高芙蓉や巻菱湖(まき・りょうこ)、濱村薇山の刻した印を進呈し、お礼に仁一郎から七言古詩を贈られている。また、やはり高芙蓉の「滄浪」と刻した印を桐陰が市島に進呈したところ、仁一郎がどうしても欲しくて市島にねだりつづけ、とうとう手に入れてしまったという逸話もある。
 1897年、新潟県知事として来越した勝間田稔(蝶夢)が漢詩結社「鴎鷺会」を結成すると、仁一郎とともにしばしば詩会に参加。その後、知事が替わっても、仁一郎と桐陰は10余年参会しつづけた。

1854(嘉永7)2‐
1928(昭和3).8.30

箕浦勝人(みのうら・かつんど)

 逓信相。『新潟新聞』主筆。号は青洲。豊後(大分県)生まれ。
 1871年、福沢諭吉の慶應義塾に入学。1875年、『郵便報知新聞』に入社、自由民権運動の論説で有名になる。その後、宮城師範学校の教師に招かれ、79年には仙台師範学校と改称した同校の校長となる。
 1882年、大隈重信を擁する立憲改進党の結成に加わる。『新潟新聞』主筆として新潟へ赴き、同紙を立憲改進党の機関紙がわりに利用する中、同紙の小崎懋らを通じて仁一郎とも知り合い、酒席で詩を談じたり政論を戦わせたりするようになる。
 1883年には小野梓・市島謙吉・吉田熹六らと新潟各地を遊説する。
 1890年の第1回衆議院選挙で当選。以後37年間議員をつとめた。
 1898年、第1次大隈内閣で逓信省次官となる。
 1913年、首相桂太郎が立憲同志会の結成を呼びかけると、立憲国民党内ではあくまで反対の犬養毅と対立して、箕浦ら国民党五領袖は脱党。仁一郎は犬養派であったが、苦渋の決断で新潟の代議士を引き連れ同志会結成に参加した。
 1915年、第2次大隈内閣で逓信相に就任。

1801(寛政13・享和1)‐
1860(安政7・万延1).2.16

三宅瓶斎(みやけ・へいさい)

 幕末の越後村上藩士。名は安懿。通称は相馬。越後生まれ。
 郡奉行から砲術師範となる。藩内の飢饉や財政窮乏対策でも活躍する。
 漢文にもすぐれ、著書に『北越七奇考』『国語律呂考』などがある。

1885(明治18).3.30‐
1959(昭和34).12.14

村山真雄(むらやま・まさお)

 松之山村長。酒造業。歌人。号は紅邨・紅村・黄邨など。松之山生まれ。
 1897年、新潟中学へ通学のため、新潟市西大畑町の仁一郎宅に5年間居候する。
 1898年、仁一郎が『新潟新聞』に「碁談」(「棊談」)連載の折、13歳の真雄が口述筆記した。
 1908年、熊本五高を中退して東京大学国文科に入学。これも翌年中退。
 1910年8月、仁一郎の五女セキと結婚。(父の村山政栄(せいえい)は仁一郎の妹貞を後妻に迎えている。)
 1932年12月、鎌倉で病気療養中の娘村山喜久を義弟の安吾が見舞いに訪れ、弟の村山政司と3人で戯れの詩画集「小菊荘画譜」3冊を作る。戦前、安吾はしばしば松之山を訪れた。
 1935年、安吾らと伊豆大島から下田、天城、江の浦を旅行する。
 1936年、安吾が尾崎士郎に村山家の造る日本酒「越の露」を紹介。
 1947年5月、『月刊にいがた』に「岳父坂口五峰の思い出」を寄稿。
 酒造業を営むかたわら、松之山村長、信用組合長などをつとめた。歌人として歌集を2冊刊行している。

1863(文久3).11.16‐
1911(明治44).3.7

森槐南(もり・かいなん)

 漢詩人。官吏。名は公泰。尾張(愛知県)生まれ。森春濤の子。
 1890年、国分青涯らと漢詩結社「星社」を結成、主宰となる。1891年に仁一郎が新潟新聞社社長になると、同紙の文芸欄「詞林月旦」に、折にふれて漢詩の評文を寄せた。仁一郎の作る漢詩の添削にもしばしば応じている。この頃から各紙で漢詩欄が設けられるようになり、東京日日新聞、毎日新聞、国民新聞などの選評も槐南が担当した。
 1899年、漢詩雑誌『新詩綜』を創刊。1904年には大久保湘南らと「随鴎吟社」を立ち上げ、主宰となる。父春濤亡き後の明治漢詩壇の第一人者といわれる。東京帝国大学の講師をつとめ、文学博士となる。
『唐詩選評釈』『杜詩講義』『槐南集』など多くの著書がある。
 官吏としては1881年から太政官につとめ、宮内大臣秘書官、式部官などを歴任。晩年は伊藤博文の側近となり、ハルビンへ随行したとき伊藤狙撃の銃弾に当たり、その傷がもとで死亡。

1819(文政2).4.2‐
1889(明治22).11.21

森春濤(もり・しゅんとう)

 漢詩人。名は魯直。尾張(愛知県)生まれ。森槐南の父。
 1862年、名古屋で漢詩結社「桑三軒吟社」を興し、丹羽花南、永坂石隶(「土」扁+「隶」)らを育てる。
 1874年、東京で「茉莉(まつり)吟社」を興す。翌75年、漢詩壇の名詩を収集した『東京才人絶句』2冊を上梓するとともに、漢詩専門雑誌の先駆けとなる『新文詩』を創刊、日本漢詩壇のリーダーとなる。1879年から五峰(仁一郎)の詩も『新文詩』に載りはじめるが、春濤は自身の艶麗なスタイルとは異なる五峰の剛健で「古詩大作にふさわしい」漢詩を褒め、その資質をのばすよう勧めた。1881年8月に新潟を訪れ、上大川前通の仁一郎宅に投宿している。
 詩集に『春濤詩鈔』『岐阜雑詩』『新潟竹枝』など。

1850(嘉永3).12.1‐
1931(昭和6).6.18

矢野龍渓(やの・りゅうけい)

 政治家。小説家。本名は文雄。豊後(大分県)生まれ。
 1872年、福沢諭吉の慶應義塾に入学。その後、前島密が創刊した『郵便報知新聞』の編集に携わる。
 1881年、福沢と親交の深い大隈重信に国会開設委員として呼ばれ、犬養毅、尾崎行雄らとともに統計院に入る。
 1882年、大隈を擁する立憲改進党の結成に加わる。
 1883年、政治小説『経国美談』前編を刊行、評判となる。
 そのほか、冒険SF『浮城(うきしろ)物語』など著書多数。

1838(天保9).6.9‐
1902(明治35).10.12

山口権三郎(やまぐち・ごんざぶろう)

 新潟県政財界の重鎮。号は俊明。越後刈羽郡横沢村(村上市)生まれ。
 1879年、第1回新潟県会議員選挙で当選、翌年県会議長となる。1888年、牧口荘三郎、本間新作ら県下の資産家に呼びかけて殖産協会を設立。県議の仁一郎や内藤久寛をとりこんで日本石油会社を興し、2人に会社の定款を草してもらう。仁一郎と市島謙吉らは殖産協会内に立憲改進党を支援する「同好会」を組織した。
 1892年、長岡に私立実業学校を創設。
 日本石油のほか、北越鉄道、長岡銀行、第四銀行などの設立に関わった。

1876(明治9)8.8‐
1933(昭和8).7.30

山田穀城(やまだ・よしき)

 歌人。『新潟新聞』記者。号は小金花作(こがね・はなさく)。のち山田花作。佐渡相川生まれ。
 1892年、佐渡青年学会を組織。小金花作の名で佐渡における和歌革新運動の旗手となる。
 1896年秋頃、その文才を新潟新聞社社長の仁一郎に見込まれ、弱冠20歳で同社に入社。『新潟新聞』の文芸欄「詞林月旦」に山田の和歌が多く採り上げられるようになる。また、秘書のような役目で坂口家に起居した。5年後には論説も書くようになる。
 1903年3月、歌集『野調』を刊行。これについて仁一郎が『新潟新聞』で斧正を加え、一時論争になる。
 歌人を糾合して「みゆき会」を結成し、機関紙『わかな舟』を刊行、県下新派歌人のリーダーとなる。著書に『県政波瀾史』『山田花作歌集』など。

1859(安政6)‐
1891(明治24)

吉田熹六(よしだ・きろく)

 衆議院議員。『新潟新聞』主筆。徳島生まれ。
 慶應義塾を出て、1882年、大隈重信の立憲改進党結成に参加。尾崎行雄らと『郵便報知新聞』記者となる。
 1883年、小野梓・市島謙吉・箕浦勝人らと各地を遊説、新潟でも演説する。
 1884年、箕浦の後を受けて『新潟新聞』主筆となるが、86年、洋行のため退任する。

1866(慶応2).2.5‐
1949(昭和24).11.20

若槻礼次郎(わかつき・れいじろう)

 首相。蔵相。内相。松江生まれ。
 1892年、東大法科を首席で卒業後、大蔵省官吏となる。
 1912年、第3次桂太郎内閣で蔵相となる。14年の第2次大隈内閣でも蔵相。
 1916年、加藤高明、仁一郎らと憲政会結成に加わり、副総裁となる。
 1923年、関東大震災後の戒厳令下、仁一郎の命をうけた安吾が若槻邸を火事見舞いに訪れたが、留守中で会えなかった。
 1924年、加藤内閣で内相となり、翌年、加藤とともに普通選挙法と治安維持法を成立させる。
 1926年、加藤が首相在任中に急逝、後を受けて首相となる。
 1930年、ロンドン海軍軍縮会議において首席全権として出席。
 1931年、民政党総裁となり、浜口内閣の後を受けて、第2次若槻内閣を組閣。
 戦争中は重臣会議のメンバーとなり、ポツダム宣言受諾などにも関わった。

執筆:七北数人
1903(明治36)‐
1993(平成5)

伊藤昇(いとう・のぼる)

 1922年よりトロンボーン奏者として活躍し、1927年に作曲家デビュー。小節の概念にとらわれない斬新なスタイルで、多調性の作品、特殊編成の作品など、実験的な未来派の作曲を手がけた。ピアノ曲「黄昏の単調」(1927年)、「マドロスの悲哀への感覚」(1929年)、弦楽四重奏曲「幼年の詩」(1930年)などがある。歌曲「太陽に歌ふ」(1930年)は日本で初めてのスキャットであり、「狐の祭」(1932年)には、ジャズのリズムが取り入れられている。1933年以降は、映画音楽も60本以上作曲した。
 『言葉』第2号と『青い馬』第4号に音楽論を執筆。安吾にドビュッシーとサティを紹介したのは伊藤ではないかといわれる。安吾や菱山修三らが参加して1933年5月に創刊された同人誌『桜』にも音楽論を書いている。

生没年不詳

岩佐明(いわさ・あきら)

 牧野信一を編集主幹として1931年10月に創刊された『文科』に安吾とともに参加、第1輯に翻訳「ラ・ロシュフウコオの言葉」を載せている。
 1932年3月の『青い馬』第5号にネルヴァルの小説「緑の魔」を訳載している。

生没年不詳

鵜殿新一(うどの・しんいち)

 詩人で『青い馬』第5号に「宿弾」を発表。その後、筆名は「鵜殿新」とした。安吾とは碁の仲間でもあった。鵜殿の兄が経営する雄風館書房は駿河台から本郷元町に移り、ここの2階に鵜殿は起居した。『紀元』の同人として創刊準備の頃や、また安吾が菊富士ホテルにいた時代など、連れだってよく飲みに行ったようす。鵜殿宅に安吾が泊まり込んで小説を書いていたこともあったらしい。安吾のエッセイ「市井閑談」(1939年)や矢田津世子宛書簡などから当時の交遊ぶりがしのばれる。

1909(明治42)‐
1982(昭和57)

江口清(えぐち・きよし)

 アテネ・フランセで長島萃に次いで安吾と親しくなり、3人でデュアメルの「深夜の告白」の読書会をしたりした。『言葉』『青い馬』同人で、『青い馬』第3号からは本多とともに編集の主幹となり、編集所も田畑の葛巻方から神田岩本町の江口方に移った。ほぼ毎号にラディゲやポオル・モオランなどの翻訳を載せたほか、『青い馬』第3号と第4号には小説も書いた。安吾が竹村書房の企画に関与していた1936年ごろ、竹村から「フランス心理小説叢書」もしくは「フランス知性文学全集」を出すことになり、その一巻、ラディゲの訳者として安吾は江口を推挙した。ただし、この企画は立ち消えになってしまったという。その後、翻訳家として『定本ラディゲ全集』『メリメ全集』をはじめ多数の訳書を出した。

1908(明治41)‐

大久保海洋(おおくぼ・ひろみ)

 安吾とアテネ・フランセのクラスで知り合って飲み友達となり、牧野信一や矢田津世子らにも紹介されたらしい。1933年5月ごろ『東京週報』を発行した折、安吾も少し企画に参加したらしいことが矢田津世子宛書簡から窺われる。のち慶應義塾大学名誉教授。ラクロ、アベ・プレヴォ、ルナールなど多数の訳書がある。

1911(明治44)‐

太田忠(おおた・ただし)

 伊藤と同じ未来派の作曲家の一人。「原始の歌」(1931年)、「交通標識」(1935年頃)など、表現主義的な音楽をつくった。ロシアの作曲家アレクサンドル・チェレプニンが1934年から36年にかけて来日した折、伊福部昭らの音楽とともに評価され、海外に紹介された。『言葉』第2号にエッセイ「音楽の横顔」を執筆。

1908(明治41)‐
1991(平成3)

片岡十一(かたおか・じゅういち)

 日影丈吉の本名。1923年、雑誌『童話』に入選。アテネ・フランセと川端画学校に学ぶ。『言葉』では第2号に、散文詩ともエッセイともつかない創作「さんどりよんの唾」を載せたほか、「美術の係」であったと本人は後に語っている。
 その後フランスに留学。1935年から麹町の料理文化アカデミー仏語部でフランス語を教える。戦後1949年、日影丈吉の筆名で『宝石』百万円懸賞探偵小説コンクール短篇の部に入選。以後、ミステリー、幻想小説の分野で数多くの作品を執筆し、カルト的人気があった。フランス・ミステリーの翻訳も多い。最晩年の1990年に泉鏡花文学賞受賞。

生没年不詳

片山勝吉(かたやま・かつきち)

 安吾から勝公などと呼ばれて親しまれた作家。『青い馬』第4号に小説「るい」を発表。
 『紀元』創刊準備の頃は一緒によく遊び歩いたようすが矢田津世子宛書簡などに書かれている。安吾の文芸時評「悲願に就て」(1935年)には、片山の鬼気迫る作品世界が紹介され、「私は時々、あいつもう自殺をするんぢやないかと思つてしまふ」という感想が述べられている。1937年末ごろ、京都に住む安吾に就職の世話を頼んでいる。

1909(明治42)‐
1985(昭和60)

葛巻義敏(くずまき・よしとし)

 堀辰雄、中野重治、窪川鶴次郎らを中心とした同人誌『驢馬』(1926年4月~28年5月)に第11号から同人参加し、幻想的な小説を寄稿。1927年から堀辰雄とともに岩波書店版『芥川龍之介全集』の編集に携わる。
 アテネ・フランセで安吾と出逢い、『言葉』『青い馬』では安吾と共に編集の主幹をつとめた。当時カリエスで肋膜を悪くしており、毎晩相当量のカルモチンをのんでいたらしい。田畑の芥川家2階にあった葛巻の部屋で、安吾は葛巻に頼まれて何度も徹夜で翻訳をし、葛巻はその隣でひと晩に100枚以上もの小説を書き上げたと「暗い青春」や「青い絨毯」にある。編集会議は葛巻の部屋か蒲田の坂口家で行われることが多かった。
 『言葉』創刊号から変名でいくつもの翻訳を掲載、『青い馬』創刊号には小説「一人」も発表したが、第3号以降は執筆がなく、編集も江口清に譲った。
 晩年には神経衰弱になって斎藤茂吉の病院に通った。

生没年不詳

沢部辰雄(さわべ・たつお)

 豊山中学時代からの安吾の友人。1922年9月、豊山中学へ転校した時、同時期に転校してきた安吾、山口修三と親しくなる。哲学好きの秀才で、安吾と共に禅寺へ坐禅を組みに出かけたりした。1927年秋頃から精神病で巣鴨保養院に入院したことが短篇「二十一」「母」などに書かれている。自身も鬱病で読書もできなくなっていた安吾は、山口修三の家と沢部のもとを訪問するのを日課とした。1928年初め頃、退院して千葉の方へ去る。

生没年不詳

白旗武(しらはた・たけし)

 『言葉』同人。同人名記載は1930年11月の第1号のみだが、執筆はしていない。その後も同人であったかどうかは不明。
 『今日の詩』1931年2月号でラディゲの詩を訳載しているので、『青い馬』創刊に依らずともすでに翻訳者として知られていたようである。伊藤整の編集による『新文学研究』1931年7月号にもプルーストの翻訳を載せている。
 『今日の詩』1931年7月号にはエッセイ「『黒谷村』」で安吾の同作を評価して「ヴェニス提灯にも似た人情の灯を愛するものである」と述べた。

1904(明治37)‐

関義(せき・よし)

 『言葉』『青い馬』同人。アテネ・フランセ図書部に勤めていて、宣伝用ポスターの文面が葛巻義敏に気に入られて同人に参加。創刊準備が始まって3カ月たっても原稿の集まりが悪く、関の書いた1篇「ヘルクラノムの悲劇」が『言葉』創刊号唯一の創作小説となった。同号にはアポリネールの小説「プラーグの通行人」も訳載した。その後も翻訳、小説、詩、エッセイなど執筆した。
 『青い馬』終刊後も、安吾から寄席やカジノ・フォーリー見物に誘われたという。
 1939年、取手に引っ越した安吾を交えて野上彰や若園清太郎らと、同人誌『野麦』もしくは『青麦』を出そうと計画するが実らずに終わる。
 プリニエ『醜女の日記』、ラファイエット夫人『クレーヴの奥方』、ゾラ『居酒屋』『ナナ』など多くの訳書がある。

生没年不詳

高橋幸一(たかはし・こういち)

 『言葉』『青い馬』同人。『青い馬』創刊号にアンリ・ソオゲの演劇評「『ミスティグリ』(マルセル・アシャアル)」を訳載したほかは執筆していない。
 のちに文藝春秋社勤務。戦後、鎌倉文庫『人間』の編集をつとめたが、1951年に鎌倉文庫がつぶれ、文藝春秋新社に戻る。

生没年不詳

多間寺龍夫(たまでら・たつお?)

 『青い馬』第5号に創作「素朴な愛情」を発表。1937年ごろ京都に滞在していたらしく、「吹雪物語」執筆中の安吾と京都で偶然出逢って飲みつぶれる。その後、安吾の京都での下宿先を探す手伝いをしたようすが隠岐和一宛書簡に記されている。

1908(明治41)1.5‐
2010(平成22).10.20

長岡輝子(ながおか・てるこ)

 女優。演出家。劇作家。詩人。岩手県盛岡市生まれ。
 1927年5月~28年5月発行の雑誌『演劇芸術』に翻訳戯曲などを発表。
 1928年、演劇修行のためパリ留学。
 『青い馬』創刊号と第2号に詩を寄せているが、これらは留学先のパリから郵送したものだったという。1928年ごろ『火の鳥』に寄稿したこともあり、同誌の古谷文子と親しかったので、古谷経由で『青い馬』に持ち込まれたものだろう。アテネ・フランセには妹の節子が通っていたが、両人とも『青い馬』同人たちとの交流はなかった。
 1930年10月に帰国後、金杉惇郎とテアトル・コメディを結成、マルセル・アシャールの「ジャン・ド・ラ・リュンヌ」「愉しき哉人生」「ドミノ」、ヴェベルの「じゃじゃ馬馴らし」など、長岡輝子訳によるフランスの風俗喜劇を次々と上演した。
 安吾が『青い馬』第5号発表の「FARCEに就て」その他でアシャール喜劇を褒めているのは、テアトル・コメディの舞台を見て触発されたものかもしれない。安吾は1933年秋にも若園とテアトル・コメディで観劇しており、かつてはよく観たらしいことが矢田津世子宛書簡から窺われる。
 戦後1946年に詩集『詩暦』刊行。紀伊国屋演劇賞、芸術祭文部大臣賞ほか多数の受賞歴がある。女優、演出家として、舞台、映画、テレビで活躍するほか、劇作、詩作、朗読の会なども行った。2010年、老衰のため102歳で死去。

1909頃‐
1934(昭和9).1.1

長島萃(ながしま・あつむ)

 本名は義雄。桂太郎首相の娘婿であった政治家長島隆二の妾腹の子。遺伝性梅毒だったといわれ、周期的に精神錯乱を起こして自殺未遂を企てた末、病没。
 『言葉』『青い馬』の同人で、安吾にとってアテネ・フランセでの最初の友人であり、交流は深い。先生も舌を巻くほどの語学の天才で、アテネ初等科の頃から安吾と常に連れだっていた。安吾は長島と毎週1回ルノルマンの戯曲「落伍者」を読み合わせしたと小説「いづこへ」(1946年)で書いている。長島のことは追悼文「長島の死」や小説「暗い青春」などに詳しく書かれている。妹の孝子は、一時『婦人公論』の記者であった。
 『青い馬』創刊号にフィリップ・スウポオの小説「白い夜々」を訳載したが未完。
 安吾は戦後、自著『堕落論』の巻末にエッセイ「長島の死」を置き、長島の遺稿「エスキス・スタンダール」を併録した。

生没年不詳

西田義郎(にしだ・よしろう)

 『青い馬』第5号に創作「夢を掠める」を発表。以後、『紀元』の同人に参加。のちに『改造』の編集者から編集長となる。戦後、太宰治、織田作之助、安吾の鼎談を企画。アラゴン「芸術論」の訳者としても知られる。

?‐
1931(昭和6)

阪丈緒(ばん・たけお)

 仏文学者坂丈緒。パリ大学を卒業し、帰国後、1932年創刊の第1次『劇作』に西欧演劇理論を連載した。アテネ・フランセの教師から後に理事となる。『ロオランの歌』(1941年)、ガストン・バティ『演劇の真髄』(1942年)などの訳書がある。  『言葉』第2号から同人となり、同号と『青い馬』第5号に翻訳を発表した。

1909(明治42).8.28‐
1967(昭和42).8.7

菱山修三(ひしやま・しゅうぞう)

 アテネ・フランセで安吾らと知り合い、『青い馬』から同人となり、第2号に詩「物の本 他3篇」を発表。第5号では堀辰雄と梶井基次郎を論じた。
 1929年から堀口大學主宰の詩誌『オルフェオン』に詩を発表。1930年4月~31年6月発行の詩誌『時間』に北川冬彦、丸山薫らと同人参加、新散文詩運動の中心となる。1931年1月、第1詩集『懸崖』を刊行、新進詩人として脚光を浴びた。1935年5月、逸見猶吉、草野心平、高橋新吉、中原中也らと詩誌『歴程』の創刊同人となる。多数の詩集、エッセイがある。安吾は菱山のヴァレリー訳詩集出版を祝って書いた「宿命のCANDIDE」(1933年)において、菱山のことを「わが友は日本の生んだ最も偉大な詩人の一人となるであらう」と絶讃。1933年5月創刊の同人誌『桜』にも安吾に誘われて参加している。
 戦後は1953年に早稲田大学のフランス語講師もつとめた。

1908(明治41)‐
1944(昭和19)

富士原清一(ふじわら・せいいち)

 1927年11月~28年2月、北園克衛らと日本初のシュールレアリスム詩誌『薔薇 魔術 学説』を発行(全4冊)。1928年11月からは滝口修造、北園克衛、佐藤朔、西脇順三郎らを同人に迎えて、詩誌『衣裳の太陽』(全6冊)を編集発行。その他、多くの詩誌に作品を発表した。エリュアール、アラゴン、ロートレアモンなどの翻訳もある。
 『青い馬』第2号にトリスタン・ツァラの「dada宣言」を、第3号にエリュアールの詩「宇宙・孤独」を訳載している。
 1931年7月、安吾によるトリスタン・ツァラの訳詩を載せたモダニズム雑誌『L'ESPRIT NOUVEAU』も、富士原が創刊にかかわったもの。
 1937年~42年、第一書房勤務。ビルマで戦死。

生没年不詳

古谷文子(ふるや・ふみこ)

 1928年10月~33年10月、女性文芸誌『火の鳥』に、小金井素子、小山いと子、村岡花子らと同人に加わり、小説、エッセイなどを発表。この雑誌には、矢田津世子、大谷藤子、板垣直子、大田洋子、中里恒子らも寄稿した。文芸評論家古谷綱武の妹で、長岡輝子に誘われてテアトル・コメディに出演したこともあるという。
 『青い馬』創刊号に詩「心の唄」を発表。
 その後、俳優の滝沢修と結婚して共に左翼劇場などに参加したが、若くして病死した。

生没年不詳

本多信(ほんだ・しん?)

 詩人。小説家。画家。本名は信寿。
 『言葉』『青い馬』を通して、編集の中心メンバーの一人であった。特に『青い馬』第3号からは江口とともに編集の主幹となる。全号に執筆があり、小説、詩、文芸評、演劇評、翻訳、エッセイなど縦横無尽の活躍をした。
 1931年5月、長谷川巳之吉編集発行の詩誌『セルパン』に、堀口大學、室生犀星、萩原朔太郎、田中冬二、深田久彌、蔵原伸二郎、野口米次郎、竹中郁、青柳瑞穂らに混じって詩「夜の歌」を発表。その後、大蔵省会計課に勤務。
 1937年、東京日日新聞社と大阪毎日新聞社が共同で軍歌「進軍の歌」の歌詞を懸賞募集した折、これに応募して1等当選。陸軍戸山学校軍楽隊の作曲・演奏でコロムビアからレコード発売され、60万枚を超えるヒットになった。作曲者を筒井快哉とするレコードもあるが、それは後年のカバーで編曲や演奏者が違う。ただし曲は同じなので、軍楽隊で実作に当たった人が筒井であったのかもしれないが、初回のSP盤に印字された作曲者は軍楽隊名義である。軍楽隊長の辻順治が作曲したとする資料もあるが、これは間違い。辻は1932年に軍楽隊長を定年退職しており、同じ「進軍の歌」の題で全く別の曲を作曲・指揮したことがあるようなので、これに引かれての流説と考えられる。安吾は晩年「世に出るまで」の中で、本多信のことを「愛馬行進曲」を作った詩人、と書いているが、「愛馬行進曲」を作詞したのはこれも別人で、この「進軍の歌」と混同したものであろう。この後、霧島昇の「納税愛国の歌」や「納税小唄」などの作詞も担当。
 後年には画家としてパリのサロン・ドートンヌに出品され、1972年春、東京で個展を開き人気を博したという。

1902(明治35)‐

三堀謙二(みつぼり・けんじ)

 新潟中学の友人。安吾より4歳上だが、学年は2年先輩だった。安吾とは読書仲間で、1922年9月に東京の豊山中学へ転校後まもない時期に安吾が三堀に送った手紙には、戯曲を書き始めたことが記され、「啄木式の」歌が7首、書かれている。安吾は1927年に池袋へ引っ越した時には三堀に案内ハガキを出しており、新潟へ帰省した折にはしばしば三堀宅を訪れた。戦争中にも三堀宅で撮影された安吾の写真がある。

1904(明治37)‐

山口修三(やまぐち・しゅうぞう)

 豊山中学時代からの安吾の友人。1922年9月、豊山中学へ転校した時、同時期に転校してきた安吾、沢部辰雄と親しくなる。卒業後も手紙のやりとりは続き、安吾は創作への決意や文学論、鬱病とたたかう心境などを、山口に宛てて赤裸々に綴っている。
 1927年頃には、岸田国士・岩田豊雄・関口次郎主宰の新劇研究所の研究生になる。その頃、毎日のように安吾の訪問を受ける。しかし翌年、家の生活費を使い込み、婆やを残して弟と夜逃げ。それから5年後、安吾にまた友達になってほしいと手紙を書く。『言葉』『青い馬』の同人になったのは、安吾に絶交された5年の間である。アテネ・フランセ外からただ1人の参加であるが、『青い馬』第4号に小説「コムパクト」を発表したのみ。安吾の温情で名前だけ同人加入したものの、同人会などには参加しなかったのだろう、他の同人らの回想中に山口の名はほとんど現れない。

1908(明治41)‐
1952(昭和27)

山沢種樹(やまざわ・たねき)

 若園清太郎とともに『言葉』『青い馬』『紀元』の経営および編集事務に当たった。『言葉』創刊号にラディゲの掌篇「花売りの少女」を、第2号にコクトーのエッセイ「『白紙』抄」を訳載したが、『青い馬』には書いていない。『紀元』には小説を発表。安吾とは飲み友達で、935年、お安の亭主から逃れて放浪中だった安吾は、自分への連絡先として、『紀元』発行所にもなっていた山沢宅を記していた。
 『言葉』以前に、安藤鶴夫らと同人誌を作っていたこともあり、『都新聞』に演芸記事なども書いた。戦後は『東北文学』などに小説を発表した。

1895(明治28)‐
1975(昭和50)

山田吉彦(やまだ・よしひこ)

 きだみのるの本名。アテネ・フランセでギリシャ語を教えるかたわら、デュルケーム『社会学と哲学』(1925年)、ジュリアン・バンダ『知識人の反逆』(1925年)、ラマルク『動物哲学』(1927年)、ファーブル『昆虫記』(1930年2月~34年12月、林達夫との共訳)などの訳書を本名で刊行していた。
 『言葉』第2号に同人記載があるが、『言葉』にも『青い馬』にも執筆はない。
 江口清の回想によると、安吾は山田のギリシャ語初等科クラスを修了したという。寒村生活と世界放浪のあと、1948年、ルポ『気違ひ部落周游紀行』で毎日出版文化賞を受賞。その後も同種の文明批評の本などを多数著した。

1907(明治40)12.23‐
1991(平成3)

若園清太郎(わかぞの・せいたろう)

 バルザック研究家。翻訳家。京都生まれ。
 1928年4月、アテネ・フランセ入学。同校の図書部の仕事を手伝い、コット学長の秘書も務める。
 1930年、安吾や葛巻義敏らと『言葉』『青い馬』創刊に加わる。『言葉』創刊号にはクーロアの「オネガアー論」、第2号にはダリウス・ミロオのサティ追悼文「エチュード」を訳載。『青い馬』創刊号からは「硫酸紙の仮面」など小説3篇、エッセイを発表するほか、ジャン・デボルドの小説「悲劇役者」の翻訳を連載した。
 1933年、『紀元』同人となり、同誌に執筆するほか、山沢種樹とともに経営および編集事務に当たる。その後も翻訳家、バルザック研究家として活躍。
 1935年、若園が『バルザックの生涯』を出した折、安吾は『紀元』に「清太は百年語るべし」を書いて激励。その夏に胸膜炎を患った折には、安吾の世話で群馬県吾妻郡の新鹿沢温泉および長野県小県郡の奈良原鉱泉に湯治に赴き、安吾とともに一夏滞在する。
 1941年秋、『バルザックの歴史』『バルザックの方法』の2著を刊行した折には、安吾が出版記念会の世話役を引き受け、会場設営、署名帳の準備から受付まで率先して引き受けてくれる。11月3日、銀座「エーワン」にて開催された出版記念会の席で安吾と石川淳の交友が始まる。
 戦争中は安吾の長兄献吉の紹介で電通の関連会社へ入社(戦後は電通勤務)、1945年3月に応召した折には、家族は安吾の世話で長野県小諸に疎開するなど、安吾との交流は家族ぐるみで深く、戦後も公私ともに助け合った。

?‐
1931(昭和6).7.23

脇田隼夫(わきた・はやお)

 『言葉』『青い馬』同人。『言葉』創刊号にヴァレリーの「スタンダール論」を訳載し始めるが、病気で書き継げないまま、早世。安吾の「暗い青春」に、根本鐘治に続き2番めに死んだとある。1931年9月20日発行の『青い馬』第4号の編輯後記に「脇田隼夫が宿痾のために、急に僕たちから去つてしまつたことは残念至極です」と記されている。

執筆:七北数人
1901(明治34)6.1‐
1979(昭和54)3.27

青山二郎(あおやま・じろう)

 装幀家。美術評論家。東京市生まれ。
 資産家の家で中学時代から骨董や美術品に親しむ。
 1924年、友人の紹介で小林秀雄を知り、翌年、小林や河上徹太郎、富永太郎、永井龍男らの『山繭』に同人参加。
 1930年5月、小林、河上、永井、井伏鱒二、牧野信一、堀辰雄、今日出海、三好達治、中島健蔵、大岡昇平らの『作品』創刊に参加。青山宅に小林、河上、三好、中島、大岡らが集まるようになり、「青山学院」と称される。のちには白洲正子や宇野千代とも親しくなる。
 1931年秋、中原中也と出逢う。10月、牧野信一主宰の『文科』同人となって表紙題字を書き、安吾と知り合う。
 1932年、先妻の弟が銀座京橋にバー「ウヰンザア」を開店、「青山学院」メンバーや安吾ら『文科』同人たちの溜まり場となる。同店の女給に坂本睦子がいた。しかし、中也が店で暴れることが多かったため数年でつぶれてしまったといわれる。
 1942年秋、静岡県伊東町玖須美に疎開、以後7年間、同地にて暮らす。
 1949年8月下旬、伊東へ転地療養に来た安吾にヨットを貸す。また、9月4、5日頃、安吾が伊東で最初に間借りした玖須美の秦秀雄方も青山が紹介したと思われる。秦は戦前、北大路魯山人と星ケ岡茶寮をつくり、のち目黒茶寮、戦後は梅茶屋を開き、青山と懇意であった。青山は安吾と入れ違うように10月に伊東の家を出て、12月に坂本睦子の五反田のアパートに同居する。
 1950年、青山命名のバー「プーサン」が開店、坂本睦子を勤めさせる。
 まとまった著書は少なく、1952年『眼の引越』などのほか、2003年『青山二郎全文集』上下がある。

1909(明治42)‐
1976(昭和51)

伊沢幸平(いざわ・こうへい)

 詩人。評論家。長野県上伊那郡富県村(現在の伊那市)生まれ。
 1927年、伊那中学(現在の伊那北高等学校)時代に同級生らと同人誌「泉地(オアシス)」を編集発行し、詩を発表。同じ頃、伊那中学校応援歌「天竜河畔に咲く桜」を作詩、現在まで愛唱されている。1928年、同中学卒業。
 東洋大学文学部を卒業後、小田原で中学の国語教師となる。小林秀雄に師事、三好達治とも親交があり、歴史に造詣が深かった。
 1940年1月、三好の世話で小田原に住むようになった安吾と親しくなり、歴史資料探索の手伝いなどをする。
 戦争中は東京創元社に勤務、哲学書出版に携わるかたわら詩作、評論執筆に励む。
 1944年12月頃、安吾が文化映画「黄河」の脚本を書くため、黄河に関する書物を探索していた折には、鳥山喜一の『黄河の水』などを奨める。
 1945年、郷里の伊那市に疎開。鉱山会社経営、『伊那タイムス』勤務などを経て、1951年から出身校の伊那北高校で国語教師をつとめる。
『信濃毎日新聞』などに評論や詩を発表し、1952年にエッセイ集『机上滴々』、1967年に詩集『途上』を刊行。没後、友人らによって『伊沢幸平集』が刊行された。

1909(明治42)3.15‐
1997(平成9)7.1

井上友一郎(いのうえ・ともいちろう)

 小説家。本名は友一。大阪生まれ。
 早稲田大学専門部法科から仏文科に転科。在学中『換気筒』同人に加わり、小説を発表。
 1931年頃、同じ早稲田仏文科で『東京派』同人の田村泰次郎、河田誠一らと知り合う。
 1933年5月、田村泰次郎、坂口安吾、河田誠一、矢田津世子、菱山修三、真杉静枝、大島敬司らと商業的同人誌『桜』創刊するが、同年10月には版元が手を引き編集長格の大島敬司も同人脱退、井上が編集長となる。新たに北原武夫らを同人に加えるが、安吾らが抜けてしまう。それでも翌年から第3号以降の発行を続ける。
 1936年、早稲田大学仏文科卒業。都新聞社(のちの東京新聞)の文化部文芸記者をしていた北原武夫の紹介で、9月から同じ文芸記者となる。
 1939年3月、砂子屋書房から『波の上』を刊行、出版記念会には安吾も出席する。同年7月、『文学者』に発表した私小説「残夢」が丹羽文雄に激賞され、都新聞社を退社、本格的に作家生活に入る。
 1941年から『現代文学』同人に加わり、大井広介の家で、安吾や平野謙、荒正人らと探偵小説の犯人当てや野球盤などをして遊ぶ。
 1943年11月、徴用逃れのため、大井広介の紹介で福岡県飯塚の麻生鉱業山内坑の労務係として単身赴任。
 戦後は風俗小説作家として活躍、1946年『竹夫人』、1949年『蝶になるまで』『絶壁』など多数の著書がある。

1909(明治42)3.6‐
1988(昭和63)12.25

大岡昇平(おおおか・しょうへい)

 小説家。評論家。翻訳家。東京市生まれ。
 1925年12月、青山学院から成城第二中学校(26年から旧制成城高校)4年次に編入。同級生の加藤英倫、安原喜弘、富永次郎、古谷綱武らと知り合う。
 1928年、小林秀雄と出逢い、小林からフランス語の個人教授を受ける。小林を通じて中原中也や河上徹太郎と知り合い、中也、河上と富永、安原、古谷らを同人として『白痴群』の創刊を計画。当時から中也の詩に天才を感じ、晩年に至るまで中也に関する著述には労を惜しまなかった。
 1929年4月、京都帝大文学部入学。同月、『白痴群』創刊(~30年まで)。
 1932年3月、京大卒業。同月初め、河上徹太郎の紹介で京都へ訪ねて来た安吾を、京大経済学部にいた加藤英倫に紹介し、自分は東京へ去る。東京では『作品』に執筆するようになり、同誌の小林や河上、中島健蔵、青山二郎、佐藤正彰らと親交を結ぶ。
 1933年1月、横浜に帰省していた加藤と、安吾、矢田津世子を交え夜半まで飲む。
 1935年5月、安吾が竹村書房で企画した『スタンダアル選集』の翻訳者の1人に推挙され、中島健蔵の東大仏文科研究室で安吾らと打ち合わせに応じる。大岡は京都在住の生島遼一を誘うため出張費を竹村に請求したが、その額が少なくて不満をかこち、結局、大岡の担当分「リュシアン・ルウヴェン」上・下のみ翻訳が成らずに終わる。
 1938年から43年まで、帝国酸素に翻訳係として勤務。
 1944年、教育召集を受け、暗号手としてミンドロ島に駐屯。
 1945年1月、米軍捕虜となり、レイテ島にて収容される。
 1949年3月、戦争体験を描いた『俘虜記』により横光利一賞を受賞。本格的な作家生活はこの時から始まる。4月に明治大学文学部仏文学講師に就任。この頃から8年近くの間、坂本睦子を愛人とする。睦子はかつて安吾や中也、河上、小林と浮き名を流した女給で、青山二郎の庇護を受けていた。
 1957年頃、睦子と別れる。翌年4月に睦子が自殺すると、睦子をモデルとして同年8月から「花影」を連載、1961年に刊行され、新潮社文学賞と毎日出版文化賞を受賞。
 その他の著書に1950年『武蔵野夫人』、1952年『野火』、1971年『レイテ戦記』、1977年『事件』などがある。

生没年不詳(1890年代前半の生まれ)

岡田東魚(おかだ・とうぎょ)

 編集者。文人囲碁会メンバー。本名は金蔵。北海道函館生まれ。
 安吾より10幾つ上で、明治大学に入学後、政治活動にのめりこみ、1912年頃から尾崎行雄の遊説に随行して全国をまわったりしたという。1915年には政治活動をやめて明治大学に復学、1917年に卒業して郷里の函館へ戻る。
 何年かして上京、講談社の『講談倶楽部』編集者となり、1933年頃からアテネ・フランセに通いはじめる。囲碁が得意で、本郷3丁目の碁会所「富岡」の常連でもあった。
 1938年8月頃、若園清太郎の紹介で安吾を知り、一緒に富岡へ誘う。頼尊清隆ら囲碁仲間を交えて、安吾とよく飲みに行く。また、共に文人囲碁会に出入りするようになる。住まいは板橋にあったが、同年12月発表の安吾作品「閑山」に感心、安吾に心酔して当時安吾の住んでいた菊富士ホテルに仕事部屋を借りて住み、安吾の生活の補助までする。
 1939年2月、文人囲碁会で安吾や頼尊、若園、野上彰、豊島与志雄らと本郷チームを結成、尾崎一雄らの上野砂子屋チームと対戦して圧勝する。3月、安吾が取手に転居するため菊富士ホテルを退去する際、「吹雪物語」の直筆原稿を預かる。5月、野上彰、頼尊清隆とともに取手へ赴き、若園清太郎、関義らを加えて『野麦』もしくは『青麦』という同人誌を作る計画に安吾を誘うが、資金の問題で同人誌は実現せず。12月下旬、アテネ・フランセで安吾と若園に会うが、精神不安定で青山脳病院への入院をすすめられる。年末、板橋の家を売って、神奈川県片瀬に移り住む。
 1940年1月3日、岡田を捜していた安吾と若園の来訪を受け、一時精神病院へ入院するが、すぐに退院して郷里の函館へ引っ越す。
「吹雪物語」の直筆原稿は、安吾没後、岡田が函館図書館に寄贈したため今日に残っている。

1911(明治44)頃‐
1945(昭和20)7

隠岐和一(おき・わいち)

 小説家。編集者。京都市中京区両替町生まれ。実家は老舗帯地問屋。
 田村泰次郎と大学で同級だったといわれるので、1931~34年頃まで早稲田大学にいたことになる。卒業後は博文館で『講談雑誌』の編集に携わる。
 1932年頃、安吾と出逢い、銀座のバー「ウヰンザア」などでの飲み仲間となる。
 1933年9月、安吾と牧野信一の肝煎りで『紀元』を創刊。編輯兼発行者は初め竹内富子であったが、第5号から隠岐に変わる。編集実務は隠岐と若園清太郎、山沢種樹とが担当し、同人は鵜殿新一、片山勝吉、西田義郎、谷丹三、丸茂正治、寺河俊雄らのほかに、安吾の紹介で中原中也や富永次郎、加藤英倫、安原喜弘が加入。安吾は打ち合わせの席で、特に谷と隠岐の小説を買っている、と皆の前で太鼓判を押す。『紀元』は隠岐の応召まで長く続き、隠岐は同誌に、本名と「沖和一」の筆名を併用して速水鏡太郎シリーズや「竹本ゆたか」など多くの作品を発表。
 1937年1月、胃病の療養で京都に帰省。その折、長篇に没頭したいという安吾を嵯峨の別宅に呼ぶ。2月、京都に着いた安吾に最大限の歓待をし、丹波亀岡の大本教本部爆破跡を一緒に見物に行ったり、下宿先を探しに行ったりする。まもなく隠岐は東京に戻るが、実家の家族ぐるみで安吾の面倒をみる。その後も安吾とは頻繁に手紙のやりとりをして、原稿用紙の手配や金策まで、東京から安吾の世話を焼いた。
 1938年夏頃、安吾の上京と入れ違いに1度めの応召。京都市深草歩兵第九連隊へ配属される。安吾や若園、山沢、尾崎一雄、草野心平、田村泰次郎ら大勢集まって、「武運長久」を祈って日章旗に寄せ書きする。
 1941年秋、若園の『バルザックの歴史』および『バルザックの方法』2著が刊行された折には、安吾らと出版記念会の世話役を引き受ける。
 1942年2月頃、2度めの応召。終戦間際の1945年7月25日頃、フィリピンで戦死。

1899(明治32)12.25‐
1983(昭和58)3.31

尾崎一雄(おざき・かずお)

 小説家。三重県に生まれるが、3歳から実家の神奈川県下曽我で育つ。
 志賀直哉に私淑し、早稲田大学国文科在学中の1925年、同人誌『主潮』に小説「二月の蜜蜂」を発表、早くから文壇で評価される。その後長く低迷するが、1933年「暢気眼鏡」を発表、私小説(心境小説)の分野で新境地を開き、同作を総題とする短篇集により1937年芥川賞を受賞。
 1934年、谷崎精二が復刊した第3次『早稲田文学』の編集に携わり、1936年の初め頃、安吾に執筆を依頼、初めて出逢う。
 1936年6月、小田嶽夫、伊藤整、上林暁らと『文学生活』を創刊、翌37年4月に安吾も同人に加えるが、同年6月で廃刊となる。
 1937年3月、『早稲田文学』の編集を砂子屋書房の浅見淵に移譲、尾崎は代わりに砂子屋の編集に携わる。砂子屋社主の山崎剛平と尾崎は早稲田高等学院の同級生。
 1938年、野上彰主宰の文人囲碁会が始まり、山崎剛平とともに顔を出すようになる。翌年2月、山崎や榊山潤らの上野砂子屋チームと、野上や安吾らの本郷チームと囲碁対戦する。その後も安吾とは終生親しく付き合う。
 1944年、胃潰瘍による喀血で倒れる。
 戦後は再び『早稲田文学』の編集に携わる。また1945年末頃、安吾と尾崎士郎に誘われて『風報』創刊に参画、途中で安吾は企画を離れ、1947年9月、尾崎士郎との共同編集で創刊。創刊号では安吾との対談(司会は士郎)が掲載された。
 著書に1949年『虫のいろいろ』、1962年『まぼろしの記』、1975年『あの日この日』などがある。

1898(明治31)2.5‐
1964(昭和39)2.19

尾崎士郎(おざき・しろう)

 小説家。愛知県幡豆郡生まれ。
 1916年、早稲田大学予科(政治科)入学。社会主義に傾倒し、1917年の早稲田騒動では指導的立場となって行動する。
 1920年、月謝滞納により早稲田大学除籍。同年、『時事新報』の懸賞短篇小説で「獄中より」が2等入選する。社会主義に根ざした小説をいくつか書いた後、しだいに芸術派の方向へ進む。
 1923年、宇野千代と結婚、馬込に居を構える。
 1925年、プロレタリア文学に対抗して中村武羅夫が創刊した『不同調』の同人となる。
 1927年、川端康成に誘われて伊豆湯ヶ島に赴き、萩原朔太郎、梶井基次郎らと親交を結ぶ。安吾が戦後編纂した士郎の短篇集『秋風と母』には、この頃の短篇が多く入集された。
 1929年、宇野千代と離婚。古賀清子と結婚し、翌年から大森に住む。
 1932年、徳田秋声を中心とする「あらくれ会」に加わる。
 1933年3月から8月まで『都新聞』に「人生劇場」(青春篇)を連載。
 1935年3月、『人生劇場』(青春篇・愛慾篇)が竹村書房から刊行され、大ベストセラーとなる。シリーズは20年にわたって断続的に書き続ける。
 同年5月、安吾が「枯淡の風格を排す」で徳田秋声らを批判したことに怒り、竹村書房を介して「決闘」を申し込む。以後、安吾とは終生の友となる。
 1936年夏頃から安吾と同人誌『大浪曼』創刊を計画するが、実現せず。
 1937年1月末、京都へ出立する安吾の送別会を両国「ももんじ屋」で開く。
 1938年秋頃、『人生劇場』第何版かが印税未払いで販売され、竹村書房と訴訟になりかけるが、安吾の仲介で一旦は収まる。しかし翌日また話は逆戻りし、終戦まで安吾と疎遠になる。
 1941年、宣伝班員として徴用され、1年間フィリピンに赴任。
 1944年、疎開のため伊東に転居。
 1945年9月、戦犯に挙げられそうな噂を案じて、安吾が久しぶりに大森へ訪れる。疎遠だった関係は急速に深まり、11月には安吾と同人誌『風報』創刊に向けて動きだす。12月末から翌年正月にかけて3回、GHQ戦犯事務所に呼ばれて行った時、安吾が秘書の名目で同道してくれる。
 1946年、士郎のもとへ勉強に来ていた高橋旦青年を安吾に紹介する。5月頃、『風報』の計画で意見が合わなくなり、安吾は編集から退く。8月、安吾の編纂により短篇集『秋風と母』刊行。
 1947年5月、『風報』創刊号用に、安吾と尾崎一雄の対談を組み、司会役をする。
 1948年、公職追放仮指定になった時、安吾が異議申立書を書いてくれ、総理大臣宛の書状とするが、1950年までの公職追放が決定する。
 1949年8月、転地療養のため安吾が伊東に転居、檀一雄らもまじえて交遊。
 1951年6月、瓶山事件が起こり、安吾とともに現場を取材に出向く。同月、安吾が書き置いた「遺言状」の証人となり、1通を保管する。
 1954年11月末、新潟日報社新社屋落成記念の講演会で新潟に赴き、安吾とともに講演。
 1955年2月、安吾死去に伴い、葬儀委員長となる。
 1957年6月、新潟市の護国神社境内に安吾碑が建立された時には発起人代表となる。
 その他の著書に1938年『石田三成』、1949年『ホーデン侍従』、1951年『天皇機関説』、1955年『雷電』などがある。

1908(明治41)11‐
没年未詳

加藤英倫(かとう・えいりん?)

 評論家。翻訳家。大学教授。神奈川県横浜市生まれ。母はスウェーデン人。
 成城第二中学校(26年から旧制成城高校)在学中に同級生の大岡昇平、安原喜弘、富永次郎、古谷綱武らと知り合う。京都帝大独文科の学生であったといわれるが、後年の『清和女子短大紀要』の記載によれば、1933年3月、京大経済学部を卒業している。
 1932年3月初め、京都に着いた安吾は京大卒業間際の大岡昇平を訪ね、大岡の世話で加藤の住む左京区八瀬黒谷門前のアパートに部屋を借りる。京大哲学科美術史専攻の安原喜弘や、加藤に惚れていたと安吾のいう画家黒田孝子らを交えて、毎晩のように安吾と酒を酌み交わし、安吾と2人連れ立って1週間ほど神戸へも旅行する。この後、横浜にしばらく帰省している。
 1932年の年末から翌年始め頃にかけて、銀座京橋のバー「ウヰンザア」で安吾と飲んでいる時に、旧知の矢田津世子が来店、安吾に紹介する。それからまもなく、矢田を連れて安吾の家を訪問、矢田と安吾の恋愛をとりもった形になる。
 1933年3月、京大経済学部卒業後は文学部言語学科に転科。ちょくちょく帰省していたものか、同年1月には、安吾や大岡、矢田と夜半まで飲み、6月から9月にかけても横浜にいたようである。安吾の肝煎りで創刊された『紀元』に9月から同人加入し、ここに何作かの小説を発表。安吾はドストエフスキーの会にも加藤を誘っている。
 1936年、京大文学部言語学科を卒業。
 1939年4月、運輸省観光局の嘱託となり、日本を英語で紹介する「ツーリストライブラリー」の編集に携わる。戦後は同シリーズの編集長となり、日本交通公社参事を務める。
 1951年10月、カリフォルニア大学講師として渡米。53年にはモントレー大学、アメリカ陸軍語学校、55年にはエール大学講師をつとめ、58年に帰国して成城大学文芸学部講師となる。のち教授となり、定年退職後、1976年から清和女子短大教授となる。
 1986年4月、清和女子短大副学長・兼任教授に就任。
 翻訳書に1985年『新渡戸稲造全集』第18巻など。

1897(明治30)12.15‐
1933(昭和8)11.30

嘉村礒多(かむら・いそた)

 小説家。山口県生まれ。
 山口中学を中退後は役場に勤め、結婚するが夫婦仲はうまく行かず。
 1925年、妻子を捨て愛人小川ちとせと駆け落ち、上京する。
 1926年、中村武羅夫主宰の『不同調』記者となり、葛西善蔵の知遇を得て、葛西晩年の作品の口述筆記をする。
 1928年、『不同調』1月号に「業苦」、7月号に「崖の下」を発表、私小説の極北として文壇の注目を浴びる。
 1931年10月、牧野信一主宰の『文科』創刊に加わり、安吾や河上徹太郎、小林秀雄、中島健蔵らと知り合う。
 1932年2月、「途上」で文壇的地位を確立するが、翌年11月、結核性腹膜炎のため死去。12月2日の葬儀には安吾も参列、牧野信一と久闊を叙す。

1902(明治35)1.8‐
1980(昭和55)9.22

河上徹太郎(かわかみ・てつたろう)

 文芸評論家。音楽評論家。翻訳家。長崎市生まれ。本籍は山口県。
 幼少期を神戸で過ごし、1916年、父の転勤に伴い、東京府立第一中学校3年次に転入。同級生に富永太郎、村井康男らがおり、1年下に小林秀雄がいた。
 1923年、東京帝大経済学部入学。在学中の1925年、小林秀雄、富永太郎、中原中也、永井龍男らの『山繭』に音楽論を発表。1926年、東大卒業。
 1927年春、中原中也と知り合う。
 1928年、小林宅で大岡昇平と知り合う。この年、結婚。
 1929年、中也、村井、大岡、富永次郎、安原喜弘、古谷綱武らと『白痴群』を創刊、編集人となり、詩論やヴァレリーの翻訳などを発表。
 1930年5月、小林、永井、井伏鱒二、牧野信一、中島健蔵、青山二郎らと『作品』創刊。
 1931年10月、牧野信一主宰の『文科』創刊に加わる。『文科』同人の牧野や安吾、中島らと飲むことが多くなる。
 1932年3月、京都に行く安吾に京大卒業間際の大岡を紹介する。
 1933年10月、小林、中島、川端康成らと『文學界』同人となる。
 1934年1月、阿部六郎との共訳でシェストフ『悲劇の哲学』刊行、文壇の話題になる。
 1938年頃から、もと京橋のバー「ウヰンザア」の女給だった坂本睦子を愛人とする。
 著書に1932年『自然と純粋』、1938年『音楽と文化』、1940年『道と養』、1959年『日本のアウトサイダー』、1960年『吉田松陰』など。

1911(明治44)11.23‐
1934(昭和9).2.3

河田誠一(かわだ・せいいち)

 詩人。小説家。香川県三豊郡(現在の三豊市)仁尾町生まれ。
 三豊中学時代から詩誌『愛誦』に投稿、数多くの詩が採用されていた。
 1929年、第二早稲田高等学院(大学予科に当たる)に入学。同級生の田村泰次郎や大島博光と知り合う。詩よりも小説を志すようになる。
 1930年3月、早稲田高等学院を中退。同年12月1日、田村泰次郎、大島博光、寺河俊雄、秋田滋らと『東京派』創刊(翌年8月まで全6冊)。同誌に小説や詩を発表。
 1933年5月、田村泰次郎、坂口安吾、井上友一郎、矢田津世子、菱山修三、真杉静枝、大島敬司らと商業的同人誌『桜』創刊。
 1934年2月3日、22歳の若さで肺結核により死去。
 1940年9月30日、田村と井上の尽力により、草野心平の装幀で『河田誠一詩集』(昭森社)が刊行された。

1907(明治40)2.28‐
1973(昭和48)9.29

北原武夫(きたはら・たけお)

 小説家。本名は健男。神奈川県小田原市生まれ。
 1926年、慶應義塾大学文学部仏文科入学、のち国文科に転科する。在学時から『三田文学』『詩と詩論』などに評論や小説を発表。
 1931年7月1日、山下三郎らと『新三田派』を創刊(翌年6月まで全8冊)。創刊まもない7月13日に山下が渡仏することになり、前々日に山下家で壮行会が行われる。その席で安吾や田村泰次郎らと知り合う。同年11月、『新三田派』に「坂口安吾氏の『竹藪の家』」を書き、安吾の一連の初期作品を高く評価した。その直後、安吾がウイスキーをかかえて突然訪ねて来たという。
 1932年に卒業後、都新聞社(のちの東京新聞)入社、横浜支局に勤める。
 1933年秋、田村泰次郎に誘われて『桜』同人に加わるが、すでに存続の危うい状態になっており、まもなく安吾らが同人を脱退してしまう。
 1935年、都新聞社本社文化部に異動、2年間の文芸記者時代しばしば安吾に匿名批評を頼む。
 1936年、取材で訪ねた宇野千代と恋仲になり、共にファッション雑誌『スタイル』を創刊。翌37年6月、都新聞社を退社、千代の勧めで本格的に作家生活に入る。
 1938年11月、亡き妻のことを描いた「妻」が芥川賞候補になる。同月、宇野千代が三好達治を編集人として文芸雑誌『文体』を創刊すると、北原も編集に加わる。北原は安吾に、古典に取材した短篇を書くよう奨め、「閑山」や「紫大納言」などに結実する。
 1939年4月、吉屋信子および藤田嗣治の媒酌により宇野千代と結婚。
 1941年11月、『現代文学』に安吾との往復書簡「文学問答」を発表。同月中旬から陸軍報道班員として徴用され、翌年1月ジャワ島へ赴任。
 戦後は「魔に憑かれて」「情人」「告白的女性論」など、性を主題にした小説やエッセイでベストセラー作家となる。1964年、宇野千代と離婚。

生没年不詳

黒田孝子(くろだ・たかこ)

 画家。
 1932年3月初め、京都に着いた安吾が加藤英倫の住むアパートに部屋を借りて1カ月ほど滞在した折、安吾や加藤、安原喜弘と共に毎晩のように酒を酌み交わす。安吾の自伝的小説「二十七歳」の中で、加藤英倫に惚れていたと書かれている美人画家。安吾が京都から上京してまもない4月末に書いた手紙の宛名は「黒田英三郎様・孝子様」と連名になっており、文中で「奥様」と書いているので、結婚していたようである。
 1933年9月、二科展に入選して上京、安吾や加藤らと久闊を叙す。同月、安吾の肝煎りで創刊された『紀元』には加藤や安原も同人となっており、翌年からしばしば同誌の挿絵を描いた。

1902(明治35)4.11‐
1983(昭和58)3.1

小林秀雄(こばやし・ひでお)

 文芸評論家。東京市生まれ。
 1915年、東京府立第一中学校入学。その後1918年までに、1級上の富永太郎、河上徹太郎らと知り合う。1921年頃から志賀直哉に師事、小説「蛸の自殺」が志賀に認められる。
 1924年、友人の紹介で青山二郎を知る。同年12月、富永、河上、永井龍男らと『山繭』創刊。
 1925年、東京帝大仏文科入学。同級生に三好達治、中島健蔵、今日出海らがいた。4月、富永太郎を通じて中原中也と親交を結ぶ。5月、富永とともに『山繭』を脱退。11月、富永が病没。同月、中也の恋人だった長谷川泰子と同棲。
 1928年、東大卒業。泰子と別れて奈良に住み、志賀直哉家に出入りする。
 1929年4月、中也や河上、富永次郎、大岡昇平、安原喜弘、古谷綱武らと同人誌『白痴群』創刊。9月、「様々なる意匠」が『改造』懸賞評論2席に入選。10月、『文学』同人となり、ランボオ「地獄の季節」の翻訳を創刊号から連載、翌年刊行。
 1930年4月から翌年3月まで『文藝春秋』に文芸時評「アシルと亀の子」を連載。同年5月、河上、永井、青山、井伏鱒二、牧野信一、嘉村礒多、三好達治らと『作品』創刊。
 1931年10月、牧野信一主宰の『文科』創刊に加わり、安吾を知る。同誌には牧野と共訳でポーの詩「ユレカ」を2回連載する。
 1932年、明治大学文芸科講師に就任(1938年から教授)。ヴァレリイ『テスト氏との一夜』の翻訳を刊行、文壇で話題になる。安吾も翌年「新らしき性格感情」の中で「作家は誰しも自分のテスト氏を育てつゞけてゐなければなるまいと思ふ」と記している。
 1933年10月、河上徹太郎、川端康成、中島健蔵らと『文學界』同人となる。
 1935年1月、『文學界』の編集責任者となり、夏頃、安吾に原稿依頼、安吾は翌年1月から3月まで「狼園」を連載する。
 1938年、野上彰の主宰で始まった文人囲碁会に参加。安吾も秋頃から参加する。
 1940年6月、島木健作と小田原の三好達治を訪ね、近所に住む安吾と4人で鮎釣りを楽しむ。
 1946年2月、戦争中に発表した連作評論をまとめた『無常といふ事』を創元社より刊行。12月、青山二郎らと『創元』を編集、同誌に「モオツアルト」を発表。
 1947年6月、安吾が「教祖の文学」で小林の『無常といふ事』批判を展開。48年8月には2人の対談「伝統と反逆」も行われる。批判はしても互いに認め合う関係であった。
 1949年2月、安吾がアドルム中毒で入院した折には、心配して見舞いに赴く。
 その他の著書に1935年『私小説論』、1936年『Xへの手紙』、1939年『ドストエフスキイの生活』、1953年『ゴッホの手紙』、1958年『近代絵画』、1978年『本居宣長』などがある。

1914(大正3)頃‐
1958(昭和33)4.15

坂本睦子(さかもと・むつこ)

 バー「ウヰンザア」などの女給。愛媛県松山市生まれ。生年は1915年説もあり。
 幼時に両親と生別、静岡県三島市の祖母のもとで育つ。小学校卒業後に上京、継母のもとから嘉悦女子商業へ通う。
 1930年頃、日比谷の文藝春秋社地下のレストラン「レインボウ・グリル」に給仕係として勤めた初日に著名な作家に処女を奪われる。その作家は直木三十五だといわれる。
 1931年、青山二郎の義弟が経営する銀座京橋のバー「ウヰンザア」の女給となる。
 1932年秋頃、店に来た安吾と愛人関係になる。その際、やはり睦子に惹かれていた中原中也が安吾に喧嘩をふっかけ、それが縁で安吾は中也と親友になったと「二十七歳」などで回想している。以後、安吾と睦子はホテルや旅館などで共寝したが性交渉はなかったと安吾自身は書いている。睦子と親しかった白洲正子によれば、睦子には「肉体の部分が極く少なかった」「たのしそうに遊んでいても、いつも彼女には一抹の淋しさがたゞよい」「終始、放心的ともいえるような表情でいた」という。
 1933年に入ると安吾と会うことは少なくなる。同年1月頃、中也からプロポーズされたといわれる。4月頃、安吾の家を久しぶりに訪ね、矢田津世子に愛人がいる噂を聞いて落ち込んでいた安吾を慰める。以後、安吾には会っていない。
 その後、菊池寛に庇護された時期があり、小林秀雄にも求婚されたことがあるといわれる。1938年頃から河上徹太郎の愛人となる。
 戦後は再び銀座に出て、文壇バー「ブーケ」の女給となる。
 1949年12月、伊東から出てきた青山二郎が睦子の五反田のアパートに同居。青山は愛人というより保護者のような存在であった。宇野千代や白洲正子とも親しく交わる。
 1950年、青山命名のバー「プーサン」が開店、女給として勤める。この頃から8年近く、大岡昇平の愛人となる。1955年、「ブーケ」から独立した「ブンケ」に勤める。
 1957年頃、大岡と別れ、翌58年4月、新宿区百人町のアパート自室で睡眠薬自殺。大岡は睦子をモデルとして、同年8月から1年間「花影」を連載した。

1902(明治35)5.25‐
1976(昭和51)11.20

笹本寅(ささもと・とら)

 小説家。新聞記者。佐賀県生まれ。
 東洋大学中退。1925年、春秋社に入社、中里介山『大菩薩峠』刊行業務を担当。
 1931年、時事新報社の文芸記者となる。
 1933年5月、『時事新報』掲載記事をまとめた『文壇郷土誌プロ文学篇』を刊行。同月、安吾らが創刊した『桜』を好意的に記事にし、同人会にも出席する。その折、矢田津世子と時事新報社社会部長の不倫の噂を安吾に伝える。
 1934年、時事新報社を退社、作家生活に入る。『文壇手帖』刊行。
 1939年、海音寺潮五郎らと同人誌『文学建設』を創刊。
 1939年7月、「維新の蔭」が直木賞候補の予選を通る。
 1940年7月、「堪忍料一万石」が直木賞候補の予選を通る。
 1941年、「会津士魂」により第1回野間文芸奨励賞受賞。
 1947年3月、安吾が「二十七歳」で笹本のことを書いたのを懐かしみ、安吾に手紙を送る。その後も『キング』などへ歴史小説を多く書き、晩年は郷里佐賀で暮らした。

1909(明治42)1.19‐
1979(昭和54)9.7

谷丹三(たに・たんぞう)

 小説家。評論家。バー「チトセ」主人。
 東大仏文科在学中から牧野信一宅へ出入りするようになり、1931年秋、牧野の絶讃によって文壇デビューを果たした安吾や河上徹太郎らとも牧野宅で知り合った。
 1932年3月、東大仏文科卒業。この年の前後、『焦点』という同人誌に「心暖き夕」「笑ひ声」という小説を発表、安吾は34年のエッセイ「谷丹三の静かな小説」で、この2作を絶讃、「底に光りかがやく宝石の冷めたいものを感ぜずにゐられない」と評した。
 1933年9月、安吾と牧野の肝煎りで創刊された『紀元』の同人の中でも、安吾は特に谷と隠岐和一の小説を買っている、と皆の前で太鼓判を押す。『紀元』のほか『三田文学』や『作品』に小説を発表した。
 1936年3月、自殺した牧野の通夜のあと、安吾と2人、小田原で飲み明かし、翌日の葬儀は安吾と共に受付をつとめる。
 1940年、図書出版化学主義工業社に入社、そこで知り合った向島の料亭「千歳」の娘房子と結婚、入り婿となる。1941年からは外務省調査室に勤務。
 戦後は房子と2人で新宿にバー「チトセ」を開き、房子と親しかった梶三千代と安吾を1947年3月に引き合わせる。三千代の『クラクラ日記』によると、「青鬼の褌を洗う女」や「金銭無情」などの安吾作品に谷夫妻をモデルにしたとおぼしい登場人物があるらしい。
 『新小説』1947年9・10月合併号に小説「悪魔の酒」を発表。
 後に房子は谷と離婚して、『新潮』の編集者野平健一の夫人となったが、房子はその後も頓着なく坂口家に出入りした。逆に谷のほうが安吾と疎遠になり、「チトセ」を畳んで「さいかち屋」という飲み屋をやりながら、『近代文学』や『一座』などにほそぼそと短篇を発表していたが、話題になることはなかった。
 その後、法政大学でフランス語講師をしたり渡仏したりしたらしいが、1979年に脳腫瘍にて死去。

1911(明治44)11.30‐
1983(昭和58)11.2

田村泰次郎(たむら・たいじろう)

 小説家。三重県四日市市生まれ。
 1929年、第二早稲田高等学院(修業年限2年。大学予科に当たる)入学。同級生の河田誠一や大島博光と知り合う。
 1930年12月1日、河田、大島博光、秋田滋、寺河俊雄らと『東京派』創刊。同誌に執筆した「意識の流れ統整論」などが認められ、『三田文学』『誌と詩論』から評論を依頼される。同人誌作家を糾合する『新科学的』と『今日の文学』に当時の新人作家たちが集まり、月1回の会合を開いたことによって、井上友一郎、北原武夫、山下三郎、中山義秀、石川達三、小田嶽夫、上林暁、伊藤整らとの交流が生まれる。
 1931年4月、早稲田大学仏文科入学(修業年限3年)。
 1933年5月、早稲田在学中、坂口安吾、井上友一郎、河田誠一、矢田津世子、菱山修三、真杉静枝、大島敬司らと商業的同人誌『桜』創刊。長篇「をろち」を連載する。
 1934年2月、河田誠一病死のしらせを受けて、『桜』同人を代表して香川県仁尾へ赴く。帰京直後、『新潮』4月号への原稿依頼が届き、早稲田大学の卒業試験準備を放擲して5日ほどかかって30枚弱の短篇「選手」を書いて送る。これが田村のメジャー・デビューとなる。
 1940年、夭折した河田誠一の詩集を編纂、刊行準備中の同年4月26日に応召となり、あとを井上友一郎と草野心平に託す。9月30日、昭森社より『河田誠一詩集』刊行。
 戦後、「肉体の悪魔」「肉体の門」を発表、肉体文学と呼ばれベストセラーとなる。

1903(明治36)2.21‐
1979(昭和54)6.11

中島健蔵(なかじま・けんぞう)

 文芸評論家。翻訳家。東京市生まれ。
 1925年、東京帝大文学部仏文科へ入学、辰野隆に師事する。同期生の小林秀雄、三好達治、今日出海らと知り合う。1928年、東大仏文科卒業後、同研究室副手、33年から助手となる。
 1931年、小林や今、堀辰雄、井伏鱒二、河上徹太郎、青山二郎、嘉村礒多、永井龍男、牧野信一らが前年創刊した『作品』にヴァレリー「ヴァリエテ」などの翻訳を発表、文芸評論の執筆を始める。
 同年10月、牧野が主宰した『文科』の同人にも加わり、安吾と出逢う。31年秋頃から河上や安吾らと痛飲することが多くなる。飲むと終始笑顔で絡み癖がなかったので、安吾は特に中島と飲むのを好んだ。
 1933年10月、小林秀雄、河上徹太郎、川端康成らと『文學界』同人となる。
 1934年、処女評論集『懐疑と象徴』を刊行。同年から1962年まで、東大仏文科講師。
 1935年4月、安吾が竹村書房の顧問として『スタンダアル選集』を企画した折には、翻訳者の筆頭に挙げられ、企画の相談を受ける。翌年1月、同選集第1巻「ラミエル」を中島訳で刊行。
 同年7月、『作品』誌上で安吾が「日本人に就て~中島健蔵氏へ質問~」を発表、同じ号に「個人の歴史に就いて~坂口安吾氏へ返信~」を発表する。
 同年同月、新宿・白十字で安吾の『黒谷村』出版記念会が催された折には司会を務める。
 1938年6月、安吾は「本郷の並木道」において「本郷の街路樹下を最も颯爽と歩く人物は中島健蔵先生であると、先日一文科生が僕に語つた。(略)学生に否ず、実にわが健蔵先生であるときいて慶賀に堪えない思ひなのである」と親愛をこめて書いている。
 1942年、陸軍報道班員として徴用されマライへ派遣されるが、年末までに帰国。
 戦後、日本文芸家協会、ペンクラブなどの再建に協力、日本著作家組合書記長、日本中国文化交流協会理事長など多数の団体で役員をつとめた。
 著書に1936年『現代文芸論』、1957年『昭和時代』、1977年『回想の文学』全5巻など。

1907(明治40)4.29‐
1937(昭和12)10.22

中原中也(なかはら・ちゅうや)

 詩人。翻訳家。山口県生まれ。
 1923年、山口中学3年次を落第し、京都の立命館中学に転校。その秋、高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』に感動、ダダの詩を書きはじめる。そんな折、3歳上で女優志願の長谷川泰子と出逢い、翌年4月から同棲生活を始める。
 1924年夏、まだ無名の詩人富永太郎と出逢い、フランス象徴派の詩を学ぶ。
 1925年3月、泰子とともに上京、4月に富永の紹介で小林秀雄と親交を結ぶ。11月、富永太郎が病没。泰子が小林と恋仲になって去る。
 1926年秋頃から、アテネ・フランセへ通いはじめる。
 1928年秋、小林の親友河上徹太郎や富永太郎の弟富永次郎、大岡昇平、安原喜弘、古谷綱武らと同人誌『白痴群』の創刊を計画、29年4月創刊。
 1930年4月、『白痴群』が6号で終刊。この最後の号は中也がひとりで出したといわれる。
 1931年、東京外国語学校専修科仏語部に入学。秋、青山二郎と出逢う。
 1932年3月初め、京都帝大哲学科を卒業間際の安原を訪ねて飲み、郷里山口へ向かう。3月24日には安原が山口を訪れ、中原宅に5日間滞在する。この年、青山二郎の義弟が経営する銀座京橋のバー「ウヰンザア」に入り浸り、女給の坂本睦子に惹かれる。秋頃、店に来た安吾が睦子と恋仲になると喧嘩をふっかけ、それが縁で安吾と親友になる。詩集『山羊の歌』刊行を計画するが、資金調達ができず各社へ持ち込むが2年間難航する。
 1933年1月、睦子にプロポーズしたといわれる。3月、東京外国語学校を卒業。5月、安吾らが創刊準備中の『紀元』同人に加わり、7月には富永次郎と安原も誘い入れる。9月の創刊号から翌年2月まで毎号に詩を発表するが、旧作の再掲が多かった。12月、遠縁の上野孝子と結婚。同月、訳詩集『ランボオ詩集(学校時代の詩)』を三笠書房より刊行、安吾はこの書に寄せて「神童でなかつたラムボオの詩」を発表する。
 1934年10月、長男文也誕生。12月、詩集『山羊の歌』を文圃堂書店から刊行。装幀は高村光太郎。
 1935年5月、『歴程』が創刊され草野心平、高橋新吉、菱山修三らとともに同人となる。
 1936年11月、長男文也の死にショックを受け、精神が不安定になる。
 1937年1月、千葉市の中村古峡療養所に入院。1月後に退院し、鎌倉へ転居。9月、『ランボオ詩集』を野田書店より刊行。詩集『在りし日の歌』原稿を清書、小林秀雄に託す。10月、結核性脳膜炎により死去。

1909(明治42)2.15‐
1967(昭和42)11.4

野上彰(のがみ・あきら)

 詩人。小説家。編集者。本名は藤本登。徳島市生まれ。生年は1908.11.28説もあり。
 東京帝大文学部美学科から京都帝大法学部に転入。1933年、滝川事件に抗して中退。
 1937年、安永一を主幹として岩谷書店から『囲碁春秋』創刊、編集長となる。
 1938年、文人囲碁会を主宰、赤坂溜池にあった日本棋院で定期的に開催する。小林秀雄、三好達治、尾崎一雄、豊島与志雄、川端康成、村松梢風、倉田百三、三木清、徳川夢声らが参加。安吾も岡田東魚や頼尊清隆らを伴って秋頃から参加するようになる。
 1939年2月、文人囲碁会で安吾、岡田、頼尊、豊島、伊田和一、若園清太郎らと本郷チームを結成、尾崎一雄らの上野砂子屋チームと対戦して圧勝。
 同年5月、安吾が移り住んだ取手へ、岡田、頼尊とともに赴き、若園清太郎、関義らを加えて『野麦』もしくは『青麦』という同人誌を作る計画に安吾を誘うが、資金の問題で同人誌は実現せず。
 1940年、日本棋院の機関誌『囲碁クラブ』の編集長となり、11月号に安吾のエッセイ「負け碁の算術」を掲載。文人囲碁会を通じて川端康成に師事し、創作を志す。日本棋院では『棋道』の編集もつとめたが、終戦とともに辞す。
 戦後は初め、暁社の『暁鐘』の編集に携わり、安吾の「桜の森の満開の下」を1946年11月号に掲載予定で組み置きになったが、この号は発行されず廃刊となる。
 同46年、大地書房の創立に招かれて編集局長となり、文芸誌『プロメテ』『日本小説』、少女雑誌『白鳥』を創刊。また、芸術前衛運動の「火の会」を結成し、創作では詩、小説、童話、ラジオドラマ、オペラの訳詩、放送劇の台本や主題歌作詞など多彩なジャンルで活躍する。
 著書に『定本囲碁講座』全3巻、川端康成との共訳『ラング世界童話全集』、詩集『幼き歌』、エッセイ集『囲碁太平記』など多数の著書がある。

1896(明治29)11.12‐
1936(昭和11)3.24

牧野信一(まきの・しんいち)

 小説家。神奈川県小田原生まれ。
 1919年、早稲田大学英文科卒。下村千秋、浅原六朗らと『十三人』を創刊、同誌に「爪」を発表。これが島崎藤村の賞讃を受け、私小説作家として文壇デビュー。
 1923年、宇野浩二、葛西善蔵、久保田万太郎らを知る。
 1924年、処女作品集『父を売る子』刊行。
 1927年、神経衰弱の傾向が強くなり、妻子をつれて小田原へ帰る。この頃からしだいに、日常に古代ギリシャの幻想風味を加えたファルス小説に転じた。
 1930年4月、単身上京して『作品』創刊の準備に加わり、同人の井伏鱒二、河上徹太郎、小林秀雄らとの交友が始まる。9月、大森に居を構え、妻子を呼び寄せる。
 1931年7月、『文藝春秋』付録冊子で安吾の「風博士」を激賞、8月には『時事新報』で「黒谷村」を褒め、安吾の文壇デビューを強力に後押しする。同時に安吾を大森山王の自宅へ招待、交友が始まる。10月、小林、河上、井伏、堀辰雄、稲垣足穂、嘉村礒多、丸山薫、安西冬衛、坪田譲治、三好達治、青山二郎らを糾合して春陽堂から『文科』を創刊。全4輯にわたって長篇「心象風景」を連載するとともに、新人の安吾にも長篇「竹藪の家」連載の場を与える。この頃から河上や安吾と痛飲することが多くなる。東大仏文科在学中の谷丹三も牧野の家によく出入りした。
 1932年初め頃、泉岳寺附近へ引っ越し、小学2年生だった長男英雄を九段の暁星小学校に編入させる手続きを安吾に代行してもらう。
 1933年、神経衰弱が悪化、春から安吾と牧野の肝煎りという形で『紀元』の創刊準備が始まるが、打ち合わせではただ飲んでいるだけであったらしい。
 同年12月2日、嘉村礒多の葬儀で久しぶりに安吾と会い、かつてのように飲みに行く機会がふえる。
 1934年3月、小田原に帰郷。初夏の頃、安吾が訪れ暫く滞在した折、共に昆虫採集に出る。12月、「鬼涙村」発表。
 1936年3月24日夕、小田原で縊死。安吾は26日の葬儀で谷丹三らと受付をつとめ、追悼文「牧野さんの死」「牧野さんの祭典によせて」を発表した。1938年発表の短篇「南風譜」は「牧野信一へ」という副題をもち、戦後は牧野をモデルにした短篇「オモチャ箱」を発表している。

1901(明治34)10.3‐
1955(昭和30)6.29

真杉静枝(ますぎ・しずえ)

 小説家。福井県生まれ。生年は1905年説もある。
 少女時代を台湾で過ごし、17歳で結婚するが離婚、『大阪毎日新聞』記者となり、正岡容と心中未遂事件を起こす。
 1927年、武者小路実篤の愛人となり、小説の指導を受ける。同年、「小魚の心」で文壇デビュー。1932年、武者小路と別れる。
 1933年5月、安吾、田村泰次郎、井上友一郎、矢田津世子、菱山修三、河田誠一、大島敬司らと商業的同人誌『桜』創刊。10月、『桜』の発行が困難になり、安吾や矢田らとともに同人を脱退。その後、中村地平と同棲。
 1938年12月、安吾の紹介で竹村書房から処女作品集『小魚の心』を刊行、序文を安吾が書く。1939年夏、取手へ移り住んだ安吾を中村地平と訪ねる。翌40年1月には安吾が2人の家を訪ねて来るなど親交を結ぶ。1941年秋頃、中村地平と別れる。
 1942年、中山義秀と結婚するが3年で離婚。
 戦後は鏡書房を設立、娯楽誌『鏡』を創刊するが3号で廃刊。晩年は創作から遠ざかり、肺癌により死去。

1900(明治33)8.23‐
1964(昭和39)4.5

三好達治(みよし・たつじ)

 詩人。大阪市生まれ。
 1925年、東京帝大仏文科入学。同級生に小林秀雄、中島健蔵、今日出海ら。
 1926年、梶井基次郎らが前年に創刊した『青空』の同人となり、詩を発表する。
 1927年、伊豆湯ヶ島温泉で療養中だった梶井を見舞い、ここで萩原朔太郎、宇野千代、川端康成らと知り合う。朔太郎の紹介で大森馬込に転居。1928年、東大卒業。
 1929年、ボードレールの散文詩集『巴里の憂鬱』を翻訳刊行。
 1930年12月、第1詩集『測量船』を刊行、高い評価を得る。安吾もこれを愛読し、1933年3月の矢田津世子宛書簡で同集中の詩「雪」を引用している。
 同年、堀辰雄、小林秀雄、河上徹太郎、井伏鱒二、牧野信一らの『作品』同人となる。
 1931年10月、牧野信一主宰の『文科』創刊に加わり、安吾と知り合う。
 1934年、堀辰雄、丸山薫らと詩誌『四季』を創刊、編集にも携わる。
 1938年、野上彰の主宰で始まった文人囲碁会に参加。安吾も秋頃から参加する。
 同年11月、宇野千代のスタイル社から『文体』創刊、編集主幹となり、同じく編集に当たった北原武夫と共に、安吾に古典に取材した短篇などを依頼。全7冊発行された『文体』の5冊に「閑山」「紫大納言」など新機軸の安吾作品を載せる。
 1939年1月、小田原に移り住む。
 1940年1月、取手にいた安吾を小田原の早川橋際亀山別荘に呼び寄せ、毎朝食事に来る安吾と碁を打ったり、キリシタン関係の書物を薦めたりする。
 同年6月、小林秀雄と島木健作が訪れ、安吾と4人で鮎釣りを楽しむ。
 1941年7月22日、早川の堤防が決壊、浸水被害に遭い、安吾の借家は流れ去る。小田原に居つかなくなっていた安吾と被災処理の件で少しもめて、以後疎遠になる。
 1942年11月、安吾は「青春論」の中で「三好達治が僕を評して、坂口は堂々たる建築だけれども、中へ這入つてみると畳が敷かれてゐない感じだ、と言つたさうだ」と愉快そうに書いている。
 戦争中は戦争協力詩を数多く書き、終戦後に批判を浴びた。
 1952年6月に桐生で講演をした折、同地に住む安吾を久しぶりに訪ねたようである。
 他の詩集に1939年『艸千里』、1952年『駱駝の瘤にまたがつて』、詩論集に1963年『萩原朔太郎』などがある。

1908(明治41)‐
1992(平成4)

安原喜弘(やすはら・よしひろ)

 美術評論家。東京市生まれ。
 成城第二中学校(26年から旧制成城高校)在学中に同級生の大岡昇平、加藤英倫、富永次郎、古谷綱武らと知り合う。
 1928年秋、中原中也と知り合い、中也の最も親しい友となる。中也と河上徹太郎、大岡、富永、古谷らを同人として『白痴群』の創刊を計画。
 1929年4月、京都帝大哲学科に入学、美学美術史専攻。左京区百万遍の京都アパートメントに住む。同月、『白痴群』創刊(~30年まで)。
 1932年3月、京大卒業。同月初め、京都に来た中也と飲み、郷里山口への夜行列車に乗る中也を見送る。その後まもなく安吾が京都に着き、京大経済学部にいた加藤英倫に紹介されて毎晩のように加藤や安吾と酒を酌み交わす。3月24日、山口へ赴き、中原宅に5日間滞在後、夜行で京都に戻り、荷物をまとめて東京へ。
 1933年5月、安吾らが創刊準備中の『紀元』に中也が仲間入りし、7月に富永次郎と共に安原も誘われ、同人加入。
 後年、日本育英会奨学部長などを歴任。
 著書に1932年『ゴッホ』、同年『セザンヌ』、1979年『中原中也の手紙』など。

1907(明治40)6.19‐
1944(昭和19)3.14

矢田津世子(やだ・つせこ)

 小説家。本名ツセ。秋田県南秋田郡五城目町生まれ。
 1916年、一家で上京。1925年、日本興業銀行に入行。
 1927年、兄の転勤に伴い、母と兄の一家3人で名古屋へ。
 1929年、長谷川時雨主宰の『女人芸術』名古屋支部に加わり、プロレタリア文学系の小品を発表しはじめる。
 1930年12月、短篇「罠を跳び越える女」が『文学時代』の懸賞に当選、同月、『女人芸術』にも同系の短篇「反逆」を発表、新進作家として名を知られるようになる。
 1931年、単身上京、淀橋区下落合に下宿する。時事新報社社会部部長で既婚の和田日出吉との交際が始まり、大岡昇平、大谷藤子らと知り合う。大谷とは親密な仲に発展する。
 1932年11月、兄と母が上京、再び3人で住む。年末から翌年1月半ばにかけての時期、和田と銀座京橋のバー「ウヰンザア」へ行った折、遠縁の加藤英倫と安吾に出逢う。数日後、加藤と連れだって蒲田の安吾宅を訪ね、手紙で自宅へも招待する。
 1933年1月中旬、安吾、大岡、加藤らと飲み、安吾とは急速に親交を深める。3月、大島敬司から商業的同人誌『桜』の計画を聞き、安吾を勧誘する。
 同年5月、安吾、大島、田村泰次郎、井上友一郎、河田誠一、菱山修三、真杉静枝らと『桜』創刊。芸術派作家への転身を図って、安吾の「麓」、田村の「をろち」とともに長篇「防波堤」を連載する。同月下旬、安吾から大久保海洋が始めた『東京週報』に紹介され、寄稿。
 同年7月21日、左翼関係者にカンパした嫌疑で特高に連行され10日余り戸塚署に留置される。この事件以来健康を害し、安吾ともほとんど会わなくなる。10月、『桜』の発行が困難になり、安吾とともに同人を脱退。なしくずしに別れた状態になる。
 1934年、武田麟太郎に師事、指導を受ける。
 1935年、高見順、大谷藤子らの『日歴』同人となる。翌年3月に武田麟太郎が創刊する『人民文庫』にも同人参加。
 1936年1月、蒲田の実家に戻っていた安吾を再訪、1カ月ほど頻繁に会うが、会えば会うほど関係は冷えていく。3月、菊富士ホテルに移り住んだ安吾を訪ねて「死んだような」口づけを交わし、直後に別れの手紙を送る。6月に安吾からも絶縁の手紙が来る。
 同年8月、「神楽坂」で第3回芥川賞候補となる。
 1944年、結核により死去。
 著書に1936年『神楽坂』、1939年『花蔭』、1941年『茶粥の記』、1942年『鴻ノ巣女房』など。

1901(明治34)‐
1975(昭和50)9.13

山内直孝(やまうち・なおたか)

 看板職人。北海道室蘭生まれ。神奈川県小田原市で育つ。
 牧野信一の幼友達で、多くの文人と交流があった。看板屋「ガランドー工芸社」を営む。「山内画乱洞」「峨巒洞」など気ままに表記し、雅号は「酒」を分解した「酉水」、自宅を「酉水居」と称した。安吾後年の短篇「水鳥亭」の命名はこれのもじり。
 1940年1月、三好達治の誘いで小田原へ転居した安吾と知り合い、よく飲み歩くようになる。
 1941年7月の水害で安吾の借家が流れ去った時には、安吾から荷物の引き取り役を頼まれる。11月、辻潤が小田原の山内宅に寄寓。この折、小田原に出かけた安吾と歓談したかともいわれる。辻は1943年10月にも山内宅に寄寓した。
 1941年12月8日、太平洋戦争勃発のニュースを聞いた後、山内宅に泊まっていた安吾と生魚を探し求めて相模湾沿いをバスで回り、焼酎に酔った話は「真珠」に詳しい。

生没年不詳

山下三郎(やました・さぶろう)

 小説家。実業家。
 慶應義塾大学法学部在学中の1929年11月、同人誌『季節の展望』の創刊にかかわる。同誌に発表した短篇「手紙」が川端康成に認められる。1930年10月には『素質』を創刊、旺盛に執筆を続ける。北原武夫によると、この当時、群雄割拠する同人誌の新人作家たちの中で一頭地を抜いていたのは、坂口安吾、田村泰次郎、山下三郎の3人であったと後に記している。
 1931年7月、『素質』を引き継ぐ形で、同大学国文科の北原武夫らと『新三田派』を創刊(翌年6月まで全8冊)。創刊まもない7月13日に渡仏することになり、前々日に山下家で壮行会が行われる。安吾や田村泰次郎らも同席。
 渡仏後は作家活動から遠ざかり、実業家の道へ進む。のちに山下新日本汽船社長、海事産業研究所理事長などをつとめた。

1915(大正4)5.14‐

頼尊清隆(よりたか・きよたか)

 新聞記者。文人囲碁会メンバー。大阪生まれ。
 東京帝大独文科大学院に進む。東大囲碁部の主将をつとめ、本郷3丁目の碁会所「富岡」の常連の間でも碁の強さは有名であった。
 1938年8月頃から岡田東魚に連れられて富岡に来た安吾と知り合い、よく飲みに行くようになる。
 1939年2月、文人囲碁会で安吾や岡田、野上彰、豊島与志雄らと本郷チームを結成、尾崎一雄らの上野砂子屋チームと対戦して圧勝する。
 同年5月、安吾が移り住んだ取手へ野上彰、岡田東魚とともに赴き、若園清太郎、関義らを加えて『野麦』もしくは『青麦』という同人誌を作る計画に安吾を誘うが、資金の問題で同人誌は実現せず。
 1940年、東大大学院を出て、都新聞社(のちの東京新聞)入社。
 戦後、1947年2月18日から『東京新聞』に安吾の長篇「花妖」を連載、新進画家の岡本太郎に挿絵を頼んだが、シュールな絵が大衆的でないと新聞社内で紛糾が起き、「花妖」は5月8日で打ち切りとなる。このとき安吾が黙って引き下がったのは、自分のために奔走してくれた頼尊らの立場を思いやってのことだったという。
 その後、東京新聞社文化部副部長、文芸専門職部長を経て、1971年退職。
 退職後も1981年頃までは編集局文化部に勤務していたことがわかっている。
 著書に1981年『ある文芸記者の回想』など。

執筆:七北数人
1913(大正2).1.1‐
1979(昭和54).6.9

荒正人(あら・まさひと)

 評論家。別名は赤木俊。福島県生まれ。
 山口高校時代に佐々木基一と出逢い、社会主義思想に熱中。
 1938年、東京帝大英文科卒業。
 1939年12月、『現代文学』の創刊に加わる。同誌が同人制となった1941年からは、大井広介の家で、安吾や平野謙、佐々木基一、南川潤、井上友一郎、郡山千冬らと探偵小説の犯人当て、野球盤、イエス・ノー、ウスノロなどをして遊ぶ。
 1944年初め頃、徴用逃れのため、大井広介の一族が経営する麻生鉱業系列のセメント会社に就職。
 1946年1月、小田切秀雄、佐々木基一、平野謙、本多秋五、山室静、埴谷雄高と『近代文学』を創刊。「第二の青春」などの評論を発表し、平野と共に、中野重治と「政治と文学」論争を行う。
 夏目漱石研究でも有名で、1975年、『漱石研究年表』で毎日芸術賞を受賞。

1923(大正12).8.10‐
1993(平成5)

入江元彦(いりえ・もとひこ)

 詩人。東京生まれ。
 1937年頃から詩作を始め、『日本詩壇』同人となる。アテネ・フランセなどで学び、応召。陸軍少尉となる。
 1946年3月、福田律郎、秋谷豊、寺田弘らと『純粋詩』創刊。
 同年7月15日、銀座出版社の『サロン』編集者として安吾宅を初訪問後、弟子格の一人として足繁く出入りするようになる。
 その後、河出書房分室の『知性』編集部に移る。
 詩人としても『詩行動』『日本未来派』などの詩誌や文芸誌に作品を発表。
 著書に、詩集『百眼巨人』『千絲の海』などがあり、1956年に『天皇の人生』(彩光社)、1983年に『入江元彦詩集』(芸風書院)を刊行。

1912(大正1)12.16‐
1976(昭和51)12.4

大井広介(おおい・ひろすけ)

 評論家。福岡県生まれ。本名は麻生賀一郎。
 1937年、同人誌『槐(えんじゅ)』を創刊。同誌1938年8月号にて、樽尾好のペンネームで安吾の『吹雪物語』を高く評価する。
 1939年12月、『槐』の後継誌として、平野謙、杉山英樹と共に『現代文学』を創刊、荒正人、佐々木基一らと知り合う。その後、同人制をとることになり、大井は安吾、南川潤、宮内寒弥を誘う。1940年の大晦日、浅草の雷門で安吾と会い意気投合する。以後、安吾は月のうち10日は大井家で過ごすようになり、書庫にあった探偵小説を片っ端から読み、三国志演義なども読む。大井家には安吾の他にも平野謙、佐々木基一、荒正人、南川潤、井上友一郎、郡山千冬らが集まり、探偵小説の犯人当て、野球盤、イエス・ノー、ウスノロなどをして遊ぶ。
 安吾は『現代文学』に「大井広介といふ男」を寄稿したほか、「日本文化私観」「文学のふるさと」「古都」など、1944年1月の終刊まで毎号のように作品を発表、座談会にも積極的に参加するなど深くかかわった。
 1943年9月、徴用逃れのため、いとこの麻生太賀吉が経営する麻生鉱業の東京支社に勤める。11月には井上友一郎を福岡県飯塚の麻生鉱業山内坑の労務係として単身赴任させる。
 1944年初め頃、安吾、南川潤、檀一雄、半田義之と共に福岡の麻生鉱業を慰問、坑内を見学する。その後、平野謙が麻生鉱業に就職、荒正人は麻生鉱業系列のセメント会社に就職する。檀一雄には大政翼賛会に勤め口を紹介する。
 戦後も安吾との交流は深く、『現代文学』同人たちが創刊した『近代文学』とは少し距離をとった。
 1948年、安吾の「不連続殺人事件」犯人当て懸賞に応募、「部分的正解」として4等を得る。同年、田島莉茉子名義で『八雲』に「野球殺人事件」を発表。埴谷雄高の協力を得て書かれたといわれ、探偵作家クラブ賞候補となる。
 1950年、久留主治平名義で『モダン日本』に推理小説「映画殺人事件」を連載。犯人当て懸賞を付け、広告文で安吾と尾崎士郎に挑戦している。
 1951年9月、安吾のために東京国税局との仲裁をすべく徴収部長らと話をする。10月半ばには、競輪のボスに命を狙われていると言って怯えたようすを見せる安吾を家に呼び、その夜来訪した石川淳と2人で安吾を諭す。これがもとで安吾と絶交することになるが、その後も安吾文学のよき理解者であった。
 野球評論、探偵小説論も数多い。

1910(明治43)2.8‐
1979(昭和54)

郡山千冬(こおりやま・ちふゆ)

 評論家。翻訳家。編集者。東京生まれ。
 1933年、東京帝大美学科を卒業。『エドゥアール・マネー』や『ドイツ文学史』などの翻訳を手がける。
 1940年頃から『現代文学』同人らと交流をもち、同誌に翻訳などを発表。大井広介の家で安吾や平野謙、荒正人、佐々木基一、南川潤らと探偵小説の犯人当てや野球盤、ウスノロなどをして遊ぶ。1942年、大観堂から翻訳本『ゲーテとシラー』を刊行。
 1946年10月発表の安吾作品「足のない男と首のない男」によると、戦後は小出版社の編集部に勤めて、安吾を座談会に引っぱり出したというが、その詳細は不明。
 1948年、『文芸首都』同人として小説「像の牧水」などを発表。
 1949年、『日本文庫』に小説「出来ない顔」「巡査でいるほうが」などを発表。
 同年、安吾がアドルム中毒で暴れたりした折にはいろいろと世話をした。
 1949~52年まで竹内書房の嘱託となり、その後、新婦人社編集局長、文化実業社編集長、池坊学園講師、お茶の水学院講師を歴任した。

生没年不詳

境野武夫(さかいの・たけお)

 織物買継商。群馬県桐生市生まれ。
 早稲田大学文学部卒業。父の事業失敗のため、家業の織物買継商再建に携わる。
 戦時中は東京で日本織物統制株式会社の幹部をつとめ、戦後は両毛織産株式会社の社長となる。文学や考古学が趣味で、地元の作家南川潤と親しむ。
 1952年1月、安吾が競輪事件で尽力してくれたお礼にと桐生の南川宅へ来た折、在野の考古学者周東隆一らと洋食屋「芭蕉」での宴会に参加。2月29日、安吾が桐生に転居して来ると、周東らと周辺の古墳めぐりを案内したり、毎週水曜日には安吾の家で南川や周東らとの酒宴に参加した。また、安吾夫妻のゴルフ仲間でもあった。
 1953年7月頃、安吾と南川が絶交した折には仲介に立って、少なくとも表面上は和解させる。
 1955年2月3日、参議院議員選挙に社会党左派から立候補。その選挙事務所開きの日、安吾がお祝いに来て祝辞を述べてくれたという。
 『桐生織物史』編纂に尽力し、両毛考古学会会長、桐生体育協会、群馬フィルハーモニーの副会長などを歴任。

1914(大正3)11.30‐
1993(平成5)4.25

佐々木基一(ささき・きいち)

 評論家。別名は篠塚正。広島県生まれ。
 山口高校時代に荒正人と出逢い、社会主義思想に熱中。東京帝大美学科卒業。
 1939年12月、『現代文学』の創刊に加わる。同誌が同人制となった1941年からは、大井広介の家で、安吾や平野謙、荒正人、南川潤、井上友一郎、郡山千冬らと探偵小説の犯人当て、野球盤、イエス・ノー、ウスノロなどをして遊ぶ。
 1946年1月、小田切秀雄、荒正人、平野謙、本多秋五、山室静、埴谷雄高と『近代文学』を創刊。
 その後、花田清輝らと『総合文化』『現代芸術』を創刊した。アバンギャルド芸術に造詣が深く、安部公房、石川淳についての評論があるほか、映画についての著作も多い。

生年不詳

高木常雄(たかぎ・つねお)

 1946年7月27日、春陽堂の雑誌『新小説』の編集者として坂口家を訪問。「いづこへ」の原稿をもらってまもなく銀座出版社の『サロン』誌に移り、安吾の秘書役を兼ねて坂口家へ出入りするようになる。1948年12月に一時出入り禁止となるが、のち許される。

生年不詳

高橋旦(たかはし・たん)

 本名正二。はじめ尾崎士郎に師事し、1946年2月頃はじめて坂口家を訪問。この頃から安吾に師事するようになり、アドルム中毒による発作の折には看護役としてそばについていた。その後、銀座出版社に勤務。

1913(大正2)1.10‐
1949(昭和24)11.3

田中英光(たなか・ひでみつ)

 作家。東京生まれ。
 1932年、早稲田大学政経学部在学中に、漕艇選手としてロサンゼルスオリンピック出場。在学中から同人誌に小説を発表し、太宰治に師事する。35年に大学卒業後は横浜ゴムの京城出張所に勤務し、一時、左翼運動に加わる。37年結婚、応召。
 1940年、オリンピック出場時の走り高跳び選手相良八重との純愛をもとに「オリンポスの果実」を執筆、これが池谷賞を受賞して文壇に認められる。
 1944年、京城から引き揚げ、静岡県三津浜の旅館に疎開する。
 戦後、共産党に入党するが、まもなく離反。
 1947年10月、妻子を静岡に残して上京、新宿花園町に住む山崎敬子と同棲生活に入る。当時、浅草のお好み焼き屋染太郎や銀座のルパンなどでよく飲んでいたといわれ、安吾ともそれらの店で知り合ったのかもしれない。坂口家蔵書の中に、英光から贈呈された『姫むかしよもぎ』という自著があり、「坂口狐精爻様 田中英光 1947年11月29日」と署名がある。敬子宅の向かいの洋裁店で働いていた武笠シズ子を安吾宅の家政婦に推薦する。
 1948年6月13日に太宰が愛人の山崎富枝と玉川上水に入水したと16日頃聞いて、敬子とともに熱海の旅館「桃李境」にいた安吾を訪ねる。安吾と2人、連日飲みながら、太宰宛に激励の手紙を書くが未投函に終わる。太宰の死後、英光はますますアドルムを乱用するようになり、1949年5月、幻覚の果てに敬子を包丁で刺し、逮捕される。11月3日、三鷹禅林寺の太宰の墓前にて自殺。

1905(明治38)2.12‐
1981(昭和56)12.11

田辺茂一(たなべ・もいち)

 作家。紀伊國屋書店創業者。東京生まれ。
 1926年3月、慶應義塾高等部を卒業。1927年1月、新宿に紀伊國屋書店を創業。
 1928年、幼なじみの舟橋聖一らと同人誌『文芸都市』を創刊。
 1930年7月から翌年8月まで、紀伊國屋書店からモダニズム雑誌『L'ESPRIT NOUVEAU』を発刊。詩人の北園克衛を編集に迎え、第6号に安吾の翻訳でトリスタン・ツァラの詩「我等の鳥類」を載せ、第7号には安吾のエッセイ「現代仏蘭西音楽の話」を載せた。北園とはその後も『紀伊國屋月報』を発刊、その後継誌『レツェンゾ』1934年7月号に、安吾の「夏と人形」を掲載した。
 1933年、舟橋、豊田三郎らと『行動』を創刊、行動主義の文学を唱えた。
 1939年から41年まで、尾崎士郎、尾崎一雄、室生犀星、伊藤整らと『文学者』を創刊。
 戦後は安吾、太宰治、伊藤整、花田清輝、舟橋聖一、梅崎春生、椎名麟三、武田泰淳、青山光二、林芙美子らと『文芸時代』の同人になった。
 1953年安吾が『新潮』6、7月号に連載した「文芸時評」では、2度にわたって茂一の随想をとりあげ「これぐらい落伍者の哀れさが身についた文章はめったに類がない」と評価した。
 同年、安吾は日本出版協同の約束違反を理由に『明治開化 安吾捕物帖』第3集の検印を拒否していたが、この年末に茂一が仲介役となって桐生を訪れると、安吾は茂一の顔を立てて二つ返事で出版社を許している。
 これら文芸活動よりも銀座での華麗な女性遍歴が伝説になっている粋人でもあった。
 安吾没後は、毎年安吾忌に出席。1974年の第20回安吾忌では、田辺の主催により紀伊國屋ホールで安吾フェスティバルが開かれ、ビッグネームが多数出演した安吾回想劇「昔を今に」の台本を執筆した。

1912(明治45)2.3‐
1976(昭和51)1.2

檀一雄(だん・かずお)

 作家。山梨県生まれ。父の実家福岡や母の実家久留米、栃木県足利などを転々とする。
 1933年、東京帝大在学中に書いた処女作「此家の性格」が文壇で認められる。
 1934年4月、太宰治、尾崎一雄、古谷綱武らと同人誌『鷭』を創刊。太宰の才能に強く惹きつけられる。同誌に安吾のエッセイ「文章その他」を掲載するが、2号で廃刊となる。同年12月、太宰治、中原中也、木山捷平、山岸外史、森敦らと『青い花』を創刊、これも1号で終わる。この頃、銀座出雲橋のはせ川で、井伏鱒二と飲んでいた安吾と出逢う。
 1934年秋、『青い花』メンバーと共に、保田与重郎、亀井勝一郎らの『日本浪漫派』に合流する。
 1936年、「夕張胡亭塾景観」が第2回芥川賞候補となる。
 1939年12月、『現代文学』に加わる。同人は安吾、大井広介、平野謙、荒正人、南川潤、宮内寒弥、井上友一郎、北原武夫ら。
 1941年、高橋律子と結婚。
 1943年7月8日、少年航空兵の取材で新潟を訪れ、帰省中だった安吾と会う。禁酒の大詔奉戴日であったが酒を酌み交わし、9日、2人で越後川口に住む安吾の姉古田島アキの家に赴く。8月、長男太郎誕生。
 1944年初め頃、安吾、南川潤、半田義之と連れだって、大井広介の一族が経営する九州の炭坑会社を慰問、坑内を見学。その後、大井の紹介で大政翼賛会に勤め、陸軍報道班員として大陸へ渡る。
 戦後、帰国してまもない1946年に律子が腸結核で死去。同年、山田ヨソ子と再婚。
 1947年10月頃、郷里の九州から上京、安吾から最大限の歓待を受けている。上京後は石神井に居を構える。以後、檀はアドルム中毒の発作で暴れる安吾の面倒も辛抱強くみていくことになる。
 1949年1月から安吾のアドルム中毒が悪化、鬱病を発して暴れるようになったため、2月23日に入院するまで、安吾をなだめに行くことが多くなる。8月、石神井の自宅そばに安吾の家を建てる計画を語らい、安吾と一緒に下見に行く。
 1950年、連作「リツ子・その愛」「リツ子・その死」が好評を得る。
 1951年2月9日、「長恨歌」「真説石川五右衛門」の2作にて直木賞を受賞。同月中旬、大阪を取材中の安吾とともに、織田作之助ゆかりのバーなどを回る。
 同年10月半ば頃、競輪事件で被害妄想に陥った安吾と大井広介宅へ向かう。翌日から約1カ月、安吾を石神井の自宅にかくまう。10月18日、安吾と文春の中野修と3人で埼玉の高麗神社取材に同行。11月4日、多量のアドルムを服用した安吾が檀宅へライスカレーを百人前注文させる。
 1952年7月25日から八月五日頃まで「決戦川中島」の企画で安吾と新潟から松本へ取材旅行。松本の平島温泉ホテルに逗留時、大暴れした安吾が留置場に入れられる。
 1953年6月、足利に自邸建築の計画を立てていた安吾と三千代を連れて、足利へ好適地を見に行く。1954年6月、長女ふみ誕生。
 1955年2月、安吾没後も安吾選集の編集や安吾忌の幹事などを長くつとめた。
 1956年頃から愛人の入江杏子と同棲。杏子との破滅的な生活を描いた代表作「火宅の人」を死の直前まで書きつづけた。

1907(明治40)10.30‐
1978(昭和53)4.3

平野謙(ひらの・けん)

 評論家。京都市生まれ。本名は朗(あきら)。
 東京帝大社会学科中退。在学中からプロレタリア文学運動に参加。
 1939年12月、大井広介、杉山英樹と共に『現代文学』を創刊、荒正人、佐々木基一らと知り合う。同誌が同人制となった1941年からは、大井広介の家で、安吾や荒、佐々木、南川潤、井上友一郎、郡山千冬らと探偵小説の犯人当て、野球盤、イエス・ノー、ウスノロなどをして遊ぶ。ポーの未完長篇の解決篇を安吾と合作しようと幾晩も意見を戦わせたこともあった。
 1944年9月、徴用逃れのため大井の一族が経営する福岡の麻生鉱業に就職し、敗戦まで勤務。
 1946年1月、小田切秀雄、佐々木基一、荒正人、本多秋五、山室静、埴谷雄高と『近代文学』を創刊。「島崎藤村」などの評論を発表し、荒と共に、中野重治と「政治と文学」論争を行う。
 同年11月22日、安吾、太宰治、織田作之助との座談会「現代小説を語る」が銀座の実業之日本社で行われ、皆でバー「ルパン」へ繰り出す。
 1949年5月、「芸術と実生活」を発表。これを書き継いで1958年1月に刊行された同題の単行本が芸術選奨を受ける。
 1963年、『文芸時評』が毎日出版文化賞を受賞。
 存生中の1974年から翌年にかけて、新潮社から『平野謙全集』を刊行、第1回配本が野間文芸賞を受賞。

1899(明治32)11.13‐
1972(昭和47)5.4

水野成夫(みずの・しげお)

 実業家。随筆家。
 1939年1月~41年3月、田辺茂一、尾崎士郎、榊山潤、室生犀星、伊藤整、尾崎一雄、丹羽文雄らと『文学者』同人になる。
 1939年9~1月、士郎と2人で第1次『風報』を3冊刊行。
 1946年、尾崎士郎と安吾が第2次『風報』を作ろうとした時も、士郎に誘われて2人でユーモアもののシリーズ企画を発案、安吾とも面会する。しかし、これが安吾の「低俗な世相と戦ふ決意」と相いれず、安吾は手を引くことになる。
 1951年1~4月の第3次も士郎との共同編集、1954年7月~62年10月の第4次は士郎と尾崎一雄と3人で編集に当たり、文芸・学術出版の酣燈社(士郎の命名)を設立した。
 また、財界人としては、戦前から戦後にかけて再生製紙、国策パルプを経営。文化放送社長、産経新聞社社長(1958年~)、経団連理事などを歴任。「財界四天王」「マスコミ三冠王」などと呼ばれた。

1913(大正2)9.2‐
1955(昭和30)9.22

南川潤(みなみかわ・じゅん)

 作家。東京生まれ。本名は秋山賢止。
 慶應義塾大学英文科在学中に書いた小説「掌の性」「風俗十日」で三田文学賞を2年連続受賞。北原武夫や山下三郎と並ぶ三田派の新人として注目される。
 1940年、「春の俘虜」で直木賞候補となる。同年秋、野口冨士男、十返肇、船山馨、田宮虎彦、青山光二らと同人グループ『青年芸術派』を結成、『青年芸術派・新作短篇集』や『青年芸術派叢書』全8冊などを刊行する。
 1941年初め頃、大井広介に誘われて『現代文学』同人になり、大井の家で、安吾や平野謙、荒正人、佐々木基一、井上友一郎、郡山千冬らと探偵小説の犯人当て、野球盤、イエス・ノー、ウスノロなどをして遊ぶ。
 1944年初め頃、安吾、大井、檀一雄、半田義之と共に、大井の一族が経営する福岡の麻生鉱業を慰問、坑内を見学する。同年4月、妻の郷里の群馬県桐生市に一家で疎開。
 戦後も心臓弁膜の持病で上京できず、ずっと桐生で過ごす。
 1951年12月下旬、安吾は競輪事件の不正写真を鑑定してほしいと秘書の渡辺彰と弁護士2人を桐生へよこす。在野の考古学者で群馬大学に勤める周東隆一と相談し、群大工学部で写真を精密に調査してもらうが証拠はつかめず。
 1952年1月、桐生までお礼に来た安吾が引っ越して来たいと言い出す。書上文左衛門邸の母屋を借りられることになり、2月29日、安吾が一家で引っ越して来る。秘書として戸泉祐治を安吾に紹介する。毎週水曜日には安吾の家で周東隆一や織物組合理事長の境野武夫らと酒宴に参加。
 1953年6月末か7月初め頃、安吾が東京でアドルムを服用、帰宅後暴れだす。三千代が南川宅へ避難したことに怒った安吾は、ゴルフクラブを持って殴り込みに来る。この事件を機に安吾と絶交。後に境野武夫の仲介で絶交状態だけは表面上解けるが、めったに会うことはなかった。
 1955年、安吾の死から7カ月後、脳血管栓塞で死去。

1912(大正1)2.14‐
1972(昭和47)3.26

森川信(もりかわ・しん)

 喜劇俳優。神奈川県横浜市生まれ。
 1931年頃から俳優となり、全国各地を転々と興行して回る。
 1934年、大阪千日前でシミキンこと清水金一らとレビュー劇団「ピエル・ボーイズ」を結成。その後、森川信一座を組んで関西を拠点に活動。この頃、浅草レビューの脚本家淀橋太郎と知り合う。
 1937年頃、安吾は京都新京極の小さな活動小屋(映画館)のレビューで若き日の森川の芸に感嘆、「青春論」などで賞讃している。
 1944年新春から東京旗揚げ興行で大阪から上京、浅草の国際劇場に出演。淀橋を通じて安吾を知る。
 戦後、「男はつらいよ」の初代おいちゃん役をはじめ、約100本の映画に出演、テレビや舞台でも活躍した。

生年不詳‐
1993(平成5)

八木岡英治(やぎおか・ひではる)

 元中央公論社の編集者。
 1946年10月発行の『婦人公論』で、安吾と林芙美子の対談「淪落その他」の司会をつとめる。
 1948年8月、『季刊作品』を創芸社から創刊、編集長となる。のち作品社として独立するが、雑誌は1950年6月に廃刊。
 1948年頃から54年3月頃まで、大田区安方町の坂口家1階の応接間に夫婦で寄寓した。
 1967年から69年にかけて、学芸書林から刊行の『全集・現代文学の発見』シリーズ全16巻&別巻を編集。

1907(明治40)5.7‐
没年不詳

淀橋太郎(よどばし・たろう)

 脚本家。演出家。東京生まれ。
 1930年代から浅草レビューの脚本を執筆。関西を拠点に活動していた森川信やシミキンこと清水金一らと知り合う。
 1938年8月、応召し浜松高射砲部隊へ入隊、大陸へ渡る。翌39年に除隊。
 1941年春頃、浅草の東宝演芸の脚本家として引き抜かれる。この頃、毎日のように通っていた浅草のお好み焼き屋「染太郎」で、安吾や大井広介ら『現代文学』同人たちと出逢い、親しくなる。
 1943年末頃、劇団「新青年座」を旗揚げ、1944年正月に浅草国際劇場での第1回公演を松竹少女歌劇、小唄勝太郎ショーと合同で行う。その前日の大晦日、舞台稽古が終わってのち、染太郎で安吾と会う。せがまれて翌1月1日、染太郎から国際劇場へ安吾を案内する。安吾は少女歌劇を見たあと、酔いにまかせて楽屋で演説したという。
 戦後も安吾とは染太郎でよく飲み、尾崎士郎や田中英光らと知り合う。
 1947年3月、日劇小劇場でヘソ・レビュー「院長さんは恋がお好き」を脚本・演出、ストリップの元祖として人気を博す。
 その後、吉原に引っ越し、妻とともに女郎屋「アゲーン」の経営もしながら、松竹、宝塚などで喜劇映画の脚本を10数本執筆した。

生没年不詳

渡辺彰(わたなべ・あきら)

 安吾が「不連続殺人事件」を連載した『日本小説』の編集者。その連載中に胸を病み、1948年6月28日、安吾の世話で富士見のサナトリウムへ入院。10月20日に退院後、吉本ラジオ・センターなどに勤務。安吾のアドルム中毒による発作の折には看護役をつとめ、晩年まで秘書代わりとして坂口家をしばしば訪れた。
 1954年9月、筑摩書房から『現代日本文学全集』49「石川淳・坂口安吾・太宰治集」が刊行された折、巻末に「坂口安吾年譜」を執筆。
 1967年から1971年にかけて冬樹社から刊行された『定本坂口安吾全集』の解題を執筆。

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