新潟安吾めぐり

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坂口安吾生誕碑

2006年10月20日、坂口安吾の生誕100年を記念して建立された「坂口安吾生誕碑」を紹介します。

坂口安吾は、1906年10月20日新潟市西大畑町で父仁一郎、母アサの五男として生まれました。1922年9月に東京護国寺境内の豊山中学までの16年間を西大畑町で過ごしています。住居跡地は道路となっていて、当時を思い起こさせるものは、残念ながらありません。

そこで、安吾と會津八一の市民研究会「八吾の会」が中心となり、生誕碑建立の会を発足させて寄付を募り、2006年に建立の運びとなりました。寄付をした人は500人以上にもなり、坂口安吾ファンの思いが詰まった碑と言えるでしょう。除幕式には、子息の坂口綱男氏など関係者や多くのファンが集い、盛大に行われました。

碑文は、1946年に発表された、幼少期を回想した自伝的小説「石の思い」の一節です。

「私のふるさとは空と、海と、砂と、松林だった。そして吹く風であり、風の音であった。坂口安吾生誕の地」(▼写真1)

では、実際に行ってみましょう。まずJR新潟駅万代口からバス「万代シティー・新潟美術館」行きに乗車します。「東大畑通2番町」で下車し、酒店の前の交差点まで来たら、右に曲がってそのまま直進します。北方文化博物館の交差点を左折すると右手に現れる大きな鳥居が、新潟大神宮の入り口です(▼写真2)。ちなみに交差点をそのまま直進すると、坂口安吾の生家跡(▼写真3)、右に曲がると日本料理店「行形亭(ゆきなりてい)」(▼写真4)です。

最初の鳥居を越えて、坂道を登ると2番目の鳥居が見えます。2番目の鳥居の足元に坂口安吾の生誕碑があります。

生誕碑見学の後には、行形亭でのお昼ご飯や、近くにある新潟カトリック教会とどっぺり坂まで足を伸ばすのもおすすめです。

  • 【写真1】坂口安吾生誕碑

  • 【写真2】新潟大神宮入口

  • 【写真3】生家跡

  • 【写真4】行形亭

交通案内
■電車・バスをご利用の場合

JR 新潟駅万代口よりバスで
「万代シティー・新潟市美術館」行きに乗車、
「東大畑通2番町」にて下車、徒歩約3分。(所要時間約23分)

■電車・バスをご利用の場合

北陸自動車道・日本海東北自動車道「新潟中央IC」より車で約15分。

寄居浜安吾碑

新潟市の護国寺境内松林を進んでいくと、砂丘上に、どん、と据えられたおむすび型の石碑に出会います。それが寄居浜安吾碑です。(▼写真1)
尾崎士郎、壇一雄らが発起人となり、1957年6月に建立されました。護国神社境内には、北原白秋の歌碑など多くの碑が建っていますが、その中でもとりわけ大きく、目を引きます。建立当時は土台がありませんでしたが、地盤沈下の影響で沈み始め土台がつけられたという逸話があるほど。

目の前には、坂口安吾が中学校を休み(サボり)、眺めていたという日本海を臨みます。

中学をどうしても休んで海の松林でひっくりかえって空を眺めて暮さねばならなくなってから、私のふるさとの家は空と、海と、砂と、松林であった。そして吹く風であり、風の音であった。(「石の思い」) 故郷の中学では浜の砂丘の松林にねころんで海と空をボンヤリ眺めていただけで、別段、小説などを読んでいたわけでもない。
(「風と光と二十の私と」)

彼は新潟の海がステキだという。
「日本海はくらいんだ、やっぱり荒波だ。一望千里砂浜だ、佐渡が見える。夜でも泳いだんだ。夜の海は怖いものだよ。オレだけが波にもまれているんだ」(坂口三千代『クラクラ日記』)
坂口安吾は日本海を愛し、作品にも数多く登場させています。坂口安吾にとって日本海はふるさとの原風景と言えるでしょう。(▼写真2)

碑文は「ふるさとは 語ることなし 安吾」と彫られています。この碑文のもとになったのは、新潟の放送局でインタビュー番組を制作していた丸山一さんに送られた色紙です。坂口安吾のふるさと新潟に建てられた文学碑にこの碑文とは大胆なような気がしますが、かえってこのぶっきらぼうな調子に、坂口安吾のふるさとへの思いが込められているのではないでしょうか。

  • 【写真1】寄居浜安吾碑

  • 【写真2】日本海

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参考文献一覧

『坂口安吾全集 第4巻』(筑摩書房 1990年3月)
坂口三千代『クラクラ日記』 (筑摩書房1989年10月)
丸山一『安吾よふるさとの雪はいかに』(考古堂書店 2005年2月)

新潟カトリック教会

小学生の頃、万代橋という信濃川の河口にかかっている木橋がとりこわされて、川幅を半分に埋めたて鉄橋にするというので、長い期間、悲しい思いをしたことがあった。日本一の木橋がなくなり、川幅が狭くなって、自分の誇りがなくなることが身を切られるせつなさであったのだ。 (「日本文化私観」)

萬代橋は、新潟駅万代口を出て1キロメートルほど進んだところにある、六連アーチの橋です。この橋の歴史は古く、開通式は1886年。当時は木造の橋で、1908年の新潟大火で焼失し、2代目萬代橋が再建されたのが翌年の1909年でした。坂口安吾が「日本一の木橋」と言ったのはこの2代目で、幅6.7メートル、長さが現在の約2.5倍にあたる780メートルもあったそうです。

その萬代橋を渡って柾谷小路を突き当たった辺りが、坂口安吾の生家跡がある西大畑町です。ここには他に、新潟カトリック教会と異人池跡があります。

その南方は異人池。東は天主教会堂。北はキナレ亭の廃屋の崖にとざされ、西は海へでるポプラの繁った砂丘であった。そういえば異人池もポプラの繁みを映すためにあるような池であったし、天主教会堂もポプラの林の中にあった。(「吹雪物語」)

「天主教会堂」というのが、新潟カトリック教会のことを指しています。「ふるさとに寄せる賛歌」にも教会、異人池、ポプラのセットで登場しますが、ポプラの林と異人池は、残念ながら現在はありません。異人池とは教会のそばにあった池で、神父や領事館に出入りする人など周辺に外国人が多かったことから、異人池と呼ばれたようです。フナも釣れたそうですが、昭和の始め頃から徐々に小さくなり、第2次世界大戦後には埋められてしまいました。(▼写真:右に見えるのが新潟カトリック教会)

最後に、どっぺり坂です。作品内での記述はありませんが、どっぺり坂の上から町を見渡す坂口安吾の写真が残っています。この「どっぺり」とは、ドイツ語の「ドッペルン」(英語のdouble)からきていると言われています。どっぺり坂の上に学生寮があり、そこに住む学生がこの坂を通って古町へ遊びに行っていたそうで、あんまりこの坂を通りすぎると、留年する(ダブる)という意味だそうです。

  • 【写真】どっぺり坂の上から

参考文献一覧

『坂口安吾全集 第1巻』(筑摩書房 1989年12月)
『坂口安吾全集 第2巻』(筑摩書房 1990年1月)
『坂口安吾全集 第14巻』(筑摩書房 1990年6月)
安吾の会『坂口安吾生誕90周年記念誌 安吾探索ノート 第6号』(1997年2月)

「桜の森の満開の下」文学碑

新津編の第2回目は、JR新津駅から徒歩12分ほどの場所にある新潟市立新津図書館裏の「桜の森の満開の下」文学碑を紹介します。

この文学碑は、JR新津駅近くの「あちらこちら命がけ」文学碑と同じく、平成6年に建立されました。碑文には小説「桜の森の満開の下」の一節が、坂口安吾の孫にあたる坂口晴子さんによって書かれたものが彫られています。この場面は、鬼と化した女を殺した山賊が、初めて桜の森の満開の下に座った場面です。

「桜の森の満開の下 坂口安吾
頭上に花がありました。その下にひっそりと無限の虚空が満ちていました。ひそひそと花が降ります。それだけのことです。
坂口晴子筆」

図書館の裏には他にも、坂口安吾の父である坂口仁一郎(阪口五峰)の碑があります。坂口仁一郎は衆議院議員として地元の発展に尽力しただけでなく、漢詩人阪口五峰として、越後全域にわたる古今の漢詩文を30年余りも採集し,『北越詩話』と名づけ刊行するなどの活躍をしました。坂口安吾と五峰の文学碑を結ぶ道を「安吾追憶の道」と呼んでいます。看板が繁みに隠れて見えにくいかもしれませんので、注意して探してください。

また新津図書館内には、1947年に銀座出版社から刊行された『堕落論』や、前出の阪口五峰『北越詩話』など貴重な資料が揃っているので、図書館での読書もおすすめです。

参考文献一覧

『坂口安吾全集 第5巻』(筑摩書房1990年4月)
新潟市立新津図書館ホームページ

「あちらこちら命がけ」文学碑

新津は坂口安吾の父祖の地で、大地主だった坂口家は阿賀野川の治水などで巨万の富を築きました。坂口安吾も「石の思い」で、かつての坂口家を「徳川時代は田地の外に銀山だの銅山を持ち阿賀川の水がかれてもあそこの金はかれないなどと言われたそうだが」と書いています。

新津編第1回は、JR新津駅近くの坂口安吾文学碑を紹介します。

この文学碑は、JR新津駅の東口から下りて線路沿いを右に進んだところ、コンビニエンスストアのすぐ近くにあります。この文学碑は平成6年10月、当時新津市長だった小林一三さんらが発起人となり建立されました。

碑文には、「あちらこちら命がけ」とあります。これは、坂口安吾が妻の三千代に送った色紙から取られたものです。

「あちらこちら命がけ」の裏には、新潟を舞台にした坂口安吾の長編小説「吹雪物語」の一節を直筆原稿から取ったものが刻まれています。この場面はヒロインの澄江が、新潟から神戸経由で新京(満州)へ向かうため、汽車に乗っている場面です。

「坂口安吾『吹雪物語』(昭和十三年)の自筆原稿より
・・・・・汽車が新津へついたとき、澄江は思ひきつて立ち上がつた。もう一度こつそり新潟へ戻って行かう。そして卓一に一目會はふ。澄江は驛へ手荷物を預けた。そしてうらぶれた待合室の一隅に腰を下した。夜がきた。澄江は然し動かなかつた。」(右写真)

坂口安吾には、原稿を乱暴に書きなぐっているイメージがあるような気がしますが、この原稿を見ると、意外や意外、綺麗な文字を書いていたことがわかります。若月忠信先生は、遺品紹介のページで安吾の文字について「文字の端整さは、安吾原稿のひとつの特徴である。このことは、安吾がどんな場合でも精神の集中力を持続していたことを物語っている」とおっしゃっています。

少々狭くなっていますが、裏側に回って坂口安吾の書いた文字に直接触れてみることをおすすめします。

参考文献一覧

『坂口安吾全集 第2巻』(筑摩書房/1990年1月)
『坂口安吾全集 第4巻』(筑摩書房/1990年3月)

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