作品名 | 行雲流水 |
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発表年月日 | 1949/9/1 |
ジャンル | 純文学・文芸一般 ファルス |
内容・備考 | 軽妙だがブラックで、かなり肉感的でもあるファルス短篇。 東大病院神経科を退院してから、伊東へ転地療養するまでの5カ月間、不安定な時期ゆえ安吾は「なるべく疲れずに」書けるファルスを書こうとした。エッセイ風の作を除くと、短篇は順に「日月様」「退歩主義者」「行雲流水」の3作で、なかでは本作がいちばんファルスらしい。とはいえ3作とも世界観はどす黒く、主人公たちは誰からも自由で、その半面、人の死をなんとも思わないサイコパスの傾向をもっている。決して「疲れずに」書ける作品群ではなかった。 本作の主人公ソノ子はパンパンだ。作中で常にお尻と胸だけが強調されるとおり、ムラ社会では人間扱いされていない。因業ババアからはパンスケとさげすまれ、生臭坊主には尻を狙われている。それら全部をソノ子は百も承知、肉体を道具として最大限利用する。 「男はみんな卑怯だと思っていゝわ。私は、男なんか、憎むだけよ。みんなウスバカに見えるだけよ」 ソノ子はウスバカどもをたぶらかし、いくらでも貢がせて放蕩三昧。欲望のおもむくままに生きる、自由を体現したその生きざまは、まさに行雲流水(=雲水)の境地なのだと、このあたりの形容はもう仏教語ではなく、ファルス用語と化している。 それでも一生のうちには、恋愛ごっこもしてみたい。そんないじらしさもチラリと見せての心中事件。男と線路に寝てみたはいいけれど、ごっこ以上にハマることはできず、土壇場で、道具のカラダが反応するのだ。 男の首だけキレイに切れて、コロコロちょこんと愛らしく立つ。恐ろしいシーンに一種、痛快な笑いがこもる。 「男はみんなウスバカに見えるという言葉が、身にこたえた」のは生臭の和尚さんだ。それはつまり、もうソノ子のお尻から逃れられなくなっている証拠だった。 安吾初期のファム・ファタール(妖婦)ものである「禅僧」や「不可解な失恋に就て」がオーバーラップする。この先、エロ坊主は妄執のとりこになるほかなく、それが不幸なのか幸福なのかは本人にしかわからない。 本作は映画「カンゾー先生」の原作の一つとしてクレジットされた。 (七北数人) |
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