作品名 | 文字と速力と文学 |
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発表年月日 | 1940/5/20 |
ジャンル | 純文学・文芸一般 自伝・回想 |
内容・備考 | 頭の中につぎつぎと湧くイメージの連鎖に、文字の筆記スピードが追いつかない。作家なら誰しも経験するこの問題への対処法を、マジメに考察したユニークなエッセイ。 「私が一字づゝ文字に突当つてゐるうちに、想念は停滞し、戸惑ひし、とみに生気を失つて、ある時は消え去(う)せたりする」 そこで安吾はまず、筆記スピードを最高度に上げればいい、と考える。速記者を雇う金はないから、自分独自の速記術を編みだす。そのマニアックな凝り方が、いかにも安吾らしくて可笑しい。 返す刀で、文字改革や日本語のローマ字化などが、いかに速力の点においてナンセンスかを舌鋒鋭く論破する。その論理展開も面白いのだが、問題は実はもう少し奥が深い。 現代なら録音の方法など山ほどあるし、パソコンの速力だって筆記より相当速い。口述筆記で小説が書けた太宰や谷崎ならば、問題は録音で解決できたかもしれない。しかし、安吾も含め多くの作家にとって、事はそう単純ではなかった。 「丁度眼鏡をこはした場合と同じやうに、文字が見えなければ次の観念を育て走らせることが出来ず、速記の文字に文字としての実感がなければ観念の自由な流れを育て捉へることが出来ないのだつた」 安吾の“実験”結果である。来た道を漫然と見渡しているだけで、イメージの連鎖反応が起こり、思いがけない発見があるものだ。逆に、それまでに書いた部分が読めないと、イメージがぼやけてしまう。 これはつまり、単なる速力や能率の問題ではないということでもある。 「想念」は一瞬のひらめき。いつ浮かぶかわからない。よいものが浮かんでも、次のイメージを思い浮かべたとたんに消えてしまうことがある。小説でもエッセイでも、作品紹介みたいな短文でも、これの連続だ。 それでは、どうすればよいか。とにかく、どんな形ででも、イメージを忘れないうちにメモしておくことが重要だ、と安吾は考える。思いつくまま、イメージを列記するのだ。 非効率でも泥くさくても、これ以上の「ひらめき保存法」はなかなかない。 (七北数人) |
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