作品

作品名 盗まれた一万円
発表年月日 1933年10月
ジャンル 推理小説 ファルス
内容・備考  1933年10月15日発行の『東京週報』に発表されたまま、今日まで埋もれていた「探偵小説」。国会図書館にも所蔵のない同タブロイド紙を大原祐治氏が古書店で見つけ、2022年12月7日発行の『新潮』1月号に「万」の字のみ旧字にして全文掲載された。
『東京週報』の文芸担当だった大久保洋(ヒロミ)は『青い馬』の同人で、安吾は矢田津世子にも同紙への執筆を斡旋するなど積極的に関わっていた。同紙の詳細や執筆の背景等については、大原氏の委曲を尽くした解説を参照されたい。
 ポーの「盗まれた手紙」から続く「探し物」推理で、「探偵小説」と銘打たれているが、推理色は薄く、ファルスの色が濃い。
 少年時代からポーや谷崎、芥川、佐藤春夫らの推理系短篇を好んで読んだ安吾だが、中学卒業から1年後、東洋大学入学直前に発表された佐藤の「家常茶飯」を、当時感心して読んだ作品として紹介している(「不連続殺人事件」正解発表時の選後感想)。
「家常茶飯」は、なくした本がどこにあるかを、探偵が人間心理の穴をうがってたちどころに言い当ててしまう話。べつに“事件”など起こらなくても、推理の妙味はぞんぶんに働かせられる。人間の性格や行動パターン、行為の証跡など、順を追って辿っていけば自然に謎は解ける。それだけでも面白い推理小説ができるという見本のような作品だ。安吾はこれを読んで、「人間的に完全に合理的な探偵小説」を書いてみたくなったという。
 会話を主体にした構成も「家常茶飯」と似ているが、「厭な奴だね君は」などと茶々を入れながら特定の1人に向けて語っていく文章は、安吾作品としてはかなり異色だ。この後に文壇に登場する太宰治が得意とした文体を先取りした感もある。
 ヒロインの幸子は、「麗人」だが「二重人格だ悪魔的だ」との噂がある設定。当時の安吾は矢田津世子との恋愛のさなかで、大岡昇平あたりからそうしたヒドい噂を吹き込まれたこともあったようだ。矢田の悪口をいう作家たちへの怒りも本作にこもっている。
 また、矢田と共通の友であった加藤英倫と神戸を旅行した時の話もさりげなく話題に盛り込んでおり、話し手がサプライズで幸子と結ばれる顛末、そのように2人が接近した話が出るたびにイライラを募らせる聞き手の作家も幸子に恋しているに違いなく、最後の盛大なファルス化も含めて、さまざまな点で興趣の尽きない作品である。
 なお、当時の1万円が今の何円になるかは比較するモノによって異なるが、日銀による企業物価指数をひとつの指標にすると、1933年の企業物価は2021年の770分の1、つまり当時の1万円は現在の770万円になる。百円札100枚の束は約1センチなので、本に挟むと結構ふくらんでしまうが、古い製本の百科事典ならまあギリギリありうる線か。
                      (七北数人)
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