| 作品名 | 〔升田幸三の陣屋事件について〕 |
|---|---|
| 発表年月日 | 未発表。1952年3月6日未明に執筆 |
| ジャンル | ルポ・観戦記 社会批評 |
| 内容・備考 | 将棋界と新聞社の権威主義に真正面から斬りこんだ、切れ味鋭いエッセイ。 1952年3月6日未明に書かれたが、生前未発表に終わり、原稿にタイトルは付いていない。 木村義雄名人と升田幸三八段による第一期王将戦第六局が、同年2月18、19日に神奈川県鶴巻温泉の旅館「陣屋」で行われる予定だったが、升田が陣屋の対応に怒って対局を拒否するに至った。これが世にいう陣屋事件である。 こう書けばバカみたいな話だが、ここに至るまでにさまざまな背景があった。もともと毎日新聞が主催していた名人戦が朝日新聞に移ったため、毎日が新たに創設したのが王将戦である。当時は勝者が決定したあとも七番勝負なら七番、対局をやり遂げるのだが、王将戦では「指し込み制」といって、一方が三番勝ち越したアトの残りの対局を、香車を一枚落とすハンデ戦、次の局は通常戦、と交互に行う方式を採用した。 升田は当初からこれに異を唱えていた。傲岸不遜な態度で知られる升田だが、彼にとって木村は、子供の頃からの憧れであり、究極のライバルだ。名人に勝つ自信があったからこそ、香落ちなどという屈辱的な対局を名人に強いるのはイヤだと思っていた。 第五局までで升田の四勝一敗。すでに勝者となっていて、陣屋ではいよいよ名人香落ちの手合が行われる。安吾はこれを観戦したくて、17日から陣屋に宿をとっていた。 同じ17日、陣屋を訪れた升田は40分間も玄関で待たされ、対局拒否へともつれこむ。 22日には日本将棋連盟が、全理事の引責辞任、升田は一年間の出場停止、王将位は空位とする、など最悪の処分を発表した。当然、世間からの非難が連盟に集まった。 3月4日、さらに棋士総会が開かれ、安吾は引っ越したばかりの桐生から上京して総会を傍聴した。議事は辞職した理事たちが司会進行し、「被告」の升田は出席すらできない。ほとんど議論もないまま、最終の処分決定は木村名人に一任、と逃げを打った。 安吾の意見は明快だ。たった一日だとしても出場停止などありえない。対局に出てこなければ不戦敗にすればいいだけの話だ。なぜ棋士たちの誰もそれを言わない。 怒りをかかえて桐生に戻り、すぐさま執筆したのが本作である。 安吾は初めて升田に会った4年前から、野卑な升田と升田の無頼な棋風が大好きだった。戦後の本当の意味での新風は「文学における私と、将棋における升田と、この二人しかおらぬ」(「坂口流の将棋観」)とまで書いていた。 本作はおそらく『週刊朝日』に掲載予定で編集長の扇谷正造に送られたが、新聞社批判の色が出すぎていて掲載できない旨、扇谷からの手紙(全集16巻)に書かれている。 安吾の文章は発表されずに終わったが、後に木村義雄の出した結論は、安吾の意見とほぼ同じだった。升田の出場停止処分は解除、理事たちの辞表は不受理、王将戦第六局は升田の不戦敗。第七局は月末に改めて行われ、升田は晴れて第一期王将となった。 (七北数人) |
| 掲載書誌名 |