作品

作品名 二流の人
発表年月日 1947/1/30
ジャンル 歴史
内容・備考  軍師官兵衛こと黒田如水の生きざまを描いた歴史小説。
 信長・秀吉・家康の三英傑に、その天才的軍略を高く買われた男だが、タイトルからも感じられるとおり、安吾はあまり如水を好いていないように見える。そのためか、ところどころで主人公は入れ替わり、如水は舞台裏へ引っ込んでしまう。
 では、なぜ彼を主役に据えたのか。今回読み直して、如水は鏡ではないのか、と思った。
 三英傑はもちろん、小西行長や石田三成、直江兼続らの生きざまには、「死の崖」で「絶対の孤独をみつめてイノチを賭ける詩人の魂」があったと作中で称賛される。如水にはそれがない。だから反映によって、ホンモノの武将たちの光が増す。そういう仕掛けだ。
 直江のように、はなから一番を狙わない人はまた別。いつも一番を狙っているのに永遠に二番の人には、二番にしかなりえない心的構造がある。天才ぶりを妬まれて「シマッタ」と思う心。洗礼を受けながらキリシタンになりきれぬ心。カメレオン型の策士でもフーシェみたいに徹底すれば別の道筋で君臨できるが、そうもなれない。
 もっとも歴史は年月を経れば経るほど、新史料の発見などで塗りかえられていく。遺訓に「人に媚びず、富貴を望まず」と書いた実物の如水は、いま大河ドラマでやってるような、むしろ義理固くて愚直な、直江に近いタイプの人間だったかもしれない。天下取りになど興味はなく、ひとえに世の中の平和安定だけを望んでいたのかもしれない。
 秀吉からの恩賞が極端に少なかったことなどから、人一倍、天下取りの野心をもっていたとする説が当時は主流だった。後世の俗伝も多々まじっているのだが、史料が少ない時代には俗伝から人間像を探るしか方法がない。その上で、安吾が「シマッタ」と常に思う如水像をつくりあげたのは、一つの「人間」の発見であった。
 俗人であるからこそ、心理のかけひきが面白い。歴史の転がる様を俗人の目で見ること――本作の眼目はそんなところにもあった。
(『二流の人』各版のなりたちと相違点については「我鬼」作品紹介を参照のこと)
                      (七北数人)
掲載書誌名
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