| 作品名 | 神サマを生んだ人々 |
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| 発表年月日 | 1953/9/1 |
| ジャンル | ファルス |
| 内容・備考 | 新興宗教の教祖を生みだした人たちを描く、一見軽快なファルス。 軽口の応酬で楽しく読めるドタバタ劇だが、人間心理の内実はあんがい暗く、重い。深く考えなければ単純な笑い話で終わるが、考え詰めると複雑怪奇なものとなる。 戦前、「イノチガケ」でキリシタンの狂信を描いて以来、安吾は宗教の教祖とその信者の関係について、さまざまな角度から追求を続けてきた。 戦後は、練り上げられた洗脳テクニックで信者たちの人格と全財産を無慈悲にはぎ取っていく新興教団の恐ろしさを「金銭無情」や「現代忍術伝」などで描いた。 本作では逆に、宗教にハマってしまう側の心理を、一般人の目に同化して見つめようとしている。 古代から現代に至るまで、宗教の教団には常に胡散臭さがつきまとい、運営する者たちの悪賢さがまず目につく。本作の前月発表の「山の神殺人」や「安吾捕物」の幾篇かのように、教団がプライドや欲のために人を殺すことも稀ではない。 けれども多数の信者を獲得できる教祖には、多くの場合、悪だくみよりも純真さのほうがまさって見えることがありはしないか。その純真さとは精神病的なものなのではないか、と安吾は小説の裏側で考察しているようだ。 安吾もかつては友を見舞いに精神病院へ通った日々があったし、自身が入院したこともあり、神人に変貌する患者たちも多く見てきた。本作でも教祖の性格に精神病的な純真さを潜ませているが、そこにこそ、信者たちの信仰の根も潜んでいる。 もしや本当に、と一度でも本気で思えば、暗示の力で病気が治ることもある。主人公の一人である医者の大巻先生は、そういうことがあると知りつつ、暗示にかかってしまう。 「何かのハズミがありさえすれば今夜のうちにも阿二羅教の信者になりかねない自分の頼りなさに気がついた」先生は、徹底して何ものも信じない安福軒のことを人間らしくないニヒリストと見る。 安吾自身も安福軒みたいな不信心者のハズだが、信者になりうる普通の人たちから見れば、自分はそういう奴なのかもしれない、という苦い認識がここにはある。 (七北数人) |
| 掲載書誌名 |