作品

作品名 市井閑談
発表年月日 1939/5/6~5/8
ジャンル 自伝・回想
内容・備考  「囲碁修業」「探偵の巻」に続き、『都新聞』に各3回連載の形で発表された不思議な味わいの作品。3作とも市井のユニークな人間群像を活写したもので、エッセイというより小説的興趣に富んだ短篇である。
「吹雪物語」を書きあぐねた京都での1年半と、上京して本郷菊富士ホテルに住んだ1年のうちの最初の半年間、執筆作品はごく少なく、いわばスランプの時期にあった。
 前2作は京都の下宿屋を舞台に碁会所を開いた話と、下宿屋の娘が駆け落ちしたのを捜索した顛末を記してあり、後の「古都」「孤独閑談」の原形になっている。
「市井閑談」もこれと連続する本郷時代の話なので、「古都」に始まる連作として次は本作を原形とした市井モノ短篇を本格的に書く予定があったかもしれない。9年後に書かれた「死と影」と一部のエピソードが重なるが、「市井閑談」にしかない話も多い。
 いずれにせよ、これら『都新聞』発表作には、カッチリした構成の「古都」などとは別種の味わいがあり、素材を素材のまま無秩序に転がしておいたような、まとまりなさと荒っぽさが妙にリアルな質感を帯び、これらはこのまま独立させても面白いものだ。
 なかでも「市井閑談」は各エピソードがいっそう断片的で、思いつくままにあれもこれもと面白い人物を登場させている。女形のやまさん、ペペ・ル・モコに似たおでん屋のオヤジ、青い目の娘の店に通うためわざと負ける賭けを繰り返す退役軍人……誰もかれもチョット変わり者で、乞食のようだったりヤクザのようだったり、クセの強い困った人たちばかりだが、皆、愛すべき人間に描かれている。
 安吾自身が無為徒食の時期でもあったが、もともと貧富やら職業や思想やらに否やを言わず誰とでも分け隔てなく接するのが安吾の流儀だ。嘘をつくヤツ、暴れるヤツ、見栄を張るヤツ、一緒に酒を飲めば、みんな気立てのいいヤツらだ。そんな心もちで人を見ているから、誰もが安吾には腹を見せて近寄ってくる。
 ちょっとした底辺。ちょっとした淪落。こういう世界は、自ら求めて入っていかねば知る由もないが、入るのは淪落に泥(ナズ)むことにほかならない。しかし、そこでしか得られない果実は確かにあり、本作には果実の独特の旨さが文章に染みわたっている。
 人間関係に疲れたとき、こういう作品を読むと、きっと人間が好きになる。
                      (七北数人)
掲載書誌名
Secured By miniOrange