作品名 | 文人囲碁会 |
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発表年月日 | 1947年1月 |
ジャンル | ルポ・観戦記 自伝・回想 |
内容・備考 | 作品解説 №194 「文人囲碁会」 囲碁仲間の作家や評論家たちの、個性的な碁の打ち方を紹介した愉快なエッセイ。 豊島与志雄や川端康成ら穏やかな紳士が乱暴な打ち方をし、「独断のかたまりみたいな」小林秀雄が定石どおりの素直な碁をさす等々、皆が皆、予想の逆を行くのが面白い。 ここまでなら、ただの笑い話で終わるところ、安吾の考察はその先が深い。彼らの文学から受ける表面的な印象よりも、彼らの碁の打ち方にこそ各人の文学の本質が表れている、というのだ。全然ジョークではなく、本作発表から5カ月後の1947年6月、真正面から小林秀雄を論じた「教祖の文学」でも、ほぼ同じ小林評が展開されていた。 一人一人の打ち方を細かく観察し、性格の奥の奥まで読みとっていく安吾の分析力は、歴史小説を書くときのそれとよく似ている。作家たちの本質が実際どうなのかは読者の主観によるが、その作家を愛読する人ほど、安吾の説にうなずけるのではないだろうか。 尾崎一雄と安吾の二人がいちばん「素性が悪い」碁で、変幻自在、卑怯な手でも何でも使って格上の相手に勝ってしまうと自分で書いているが、たしかに、二人の文学にはちょっと悪童めいた勝負師魂と、人の気持ちを酌みとる庶民感覚が併存していた。 1938年4月に発足した「文人囲碁会」は、戦前、赤坂溜池の日本棋院で催されていた。 若い頃から囲碁が大好きだった安吾は、「文人囲碁会」発足当時京都にいたから、しばらくは知らずにいたはずだが、京都で独自に素人碁会所をつくって連日碁を打っていた。そこでは、三級ぐらいの相手に三目置いても負けていたと「囲碁修業」に書いているので、よくて四級、おおよそ五級ぐらいの腕前だったのだろう。 『吹雪物語』を書き上げて上京するやいなや、本郷の碁会所「富岡」で本格的な打ち手を相手に腕をみがき、その秋から文人囲碁会に参加しはじめた。 本作で安吾が語っているのは、この頃のようすである。戦争の間、碁を打つ機会はなくなっていたが、本作発表の翌年には文人囲碁会も復活し、さらに4年後には、安吾は二段に昇進した。ただし、「明日は天気になれ」で安吾自身バラしているように、日本棋院では段をくれとネバれば段位をもらえたらしく「文士の段は当てにならない」そうだ。 (七北数人) |
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