| 作品名 | 牧野さんの死 |
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| 発表年月日 | 1936/5/1 |
| ジャンル | 純文学・文芸一般 自伝・回想 |
| 内容・備考 | 1936年3月24日に小田原の実家で縊死した牧野信一を追悼するエッセイ。 牧野の激賞をうけて安吾が文壇デビューした頃のようすが、最も早い時期に、詳細に描かれた文章で、伝記資料としても見逃せない。 また、晩年の牧野の事跡についても、詳細を知る人が非常に少ないため、牧野研究にとっても本作は非常に貴重なものといえる。 安吾の書く追悼文はいつもどこかヘンなのだが、これはとりわけヘンな仕上がりになっている。 まず、悲しんでいない。安吾にとって牧野は大恩人だが、文学の師とはカケラも思っていない。尊敬もしていない。でも愛すべき人物と思っているし、何より恩人だから牧野とその家族をやさしく見守り、つねに手助けしてやっている。そういう関係だったことが文章の端々にあらわれている。 牧野の文学は「自殺と一身同体の」文学だったという。そんな文学が本当にあるのかは疑問だが、安吾の文章には説得力がある。安吾いわく、牧野の人生は牧野の書く文学によって全部設計されていた。「貧困でなければならず」「助平でなければならず」等々「設計しすぎた人生のために」多くのものを失い、当然の帰結として自殺があった、と。 「彼の文学と死の必然的なそして純粋な関係を見るなら、自殺は牧野さんの祭典だつたかも知れない」 「牧野さんは自殺をも生きつづけたと言ふべきである。彼はつひに死をもなほ夢と共に生きつづけたのだ。明るい自殺よ!」 設計、仮構された人生であったとは、檀一雄がときどき安吾を評していう言葉だ。文学に殉じて人生を仮構したと。私はそうは思わない。牧野が人生を仮構したと安吾が書くとき、牧野と安吾の人生はまるで相反するように噛み合わない。 通夜の受付などしていた安吾は、やはり牧野と親しかった後輩の谷丹三と共に、通夜を抜け出て小田原の街で泥酔、牧野さんのキザな口ぐせをサカナに「呵々大笑」して、どこまでも明るく先輩作家を見送る。そのシーンが妙に切ない。最後までヘンな追悼文である。 (七北数人) |
| 掲載書誌名 |
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