作品名 | 現代とは? |
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発表年月日 | 1948/1/1 |
ジャンル | 純文学・文芸一般 社会批評 |
内容・備考 | 戦後、流行作家となって書きまくった時期の、ごく短いエッセイ。短いながらも、安吾の芸術観が簡潔にまとめられているので、安吾入門にうってつけである。 「日本の伝統が、主として偶像的虚妄の信仰であること」を説き、芸術は「イノチ」がこもっているか否かが肝要と説くあたりは「日本文化私観」の要諦といえるし、骨董的な作品より今生きている人間を見よ、とあるのは「教祖の文学」のエッセンスだ。 「昔はラモオだのバッハだのモオツァルトが日常生活の舞踏の友であった」のに、それを「典雅」な高尚芸術に祭り上げてしまい、現代の音楽に「典雅」がないと嘆く、そのナンセンスを突く。「現代の狂躁のみをこめたようなジャズの悪音響も、やがては典雅となる筈である」と。事実、当時のジャズは今、安吾の予言どおり「典雅」で高尚な音楽となりおおせた。逆に、現代のジャズプレイヤーのほうが、バッハやモーツァルトのなかに「典雅」と対立する前衛性を見いだしているのが面白い。 本作では日本文学のことは書かれていないが、状況は同じ。漱石や鴎外など、戦前から高級に扱われたが、彼らの小説が出た当時は破天荒で珍奇なものと受けとめられただろう。いま読んでも、彼らの作品は実験的で、小説らしさを失うほどに逸脱しまくった奇怪なものが多い。「規準」にはならないものだ。ドストエフスキーもそうだった。 いずれにせよ、永遠にゆるがない古典などというものはない。老人が「現代文学の貧困」を声高に叫び、いまだにモーパッサンやスタンダールを信奉している愚かしさ。 「織田作之助など、自分を二流と云い、スタンダールを一流と云い、二流の中には僕も含まれているらしいが、バカバカしい話である。/私は自分を何流とも考えないが、スタンダールよりも下の作家だとは思っていない。スタンダールの作品は、人間が紋切型で、分りきっていて、退屈で、私はバカらしいと思う」 「大阪の反逆」での主張をより激しく展開する。戦前は「スタンダアルの文体」などでその文体を褒めることもあった安吾だが、ここでは完全否定、まったく容赦がない。 自分たちの文学を卑下した織田の「二流文楽論」がよっぽど悔しかったとみえる。 (七北数人) |
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