作品名 | もう軍備はいらない |
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発表年月日 | 1952/10/1 |
ジャンル | 社会批評 |
内容・備考 | 1952年、軍備増強気運が高まり、キナ臭くなってきた当時の世相にクギを刺す意図で書かれたエッセイ。明快なタイトルで、戦争否定、軍備不要を徹底して繰り返す。 「人に無理強いされた憲法だと云うが、拙者は戦争はいたしません、というのはこの一条に限って全く世界一の憲法さ」 たとえ、ならず者国家に日本が征服されたとしても、日本人が豊かな文明文化を保ち続けるかぎり、心配は要らない。征服者たちは腕力が強いだけの原始人にすぎないので、いずれ逆に「居候になり家来になって隅ッこへひッこむ」ハズだと安吾はいう。無条件降伏論だが、その内面は充実している。戦争中「日本文化私観」で、日本の文化遺産が破壊されても日本人がいるかぎり日本文化は滅びない、と主張したのと同じ論旨だ。 1948年の「戦争論」は、「戦争は人類に大きな利益をもたらしてくれた」という逆説的な一文で始まったが、4年後の本作では「戦争にも正義があるし、大義名分があるというようなことは大ウソである。戦争とは人を殺すだけのことでしかないのである。その人殺しは全然ムダで損だらけの手間にすぎない」と締めくくられる。 安吾を批判する“知識人”たちは、こういう“矛盾”を責め立て、変節、ゴマカシなどとあげつらう。しかし注意深く読めばわかるとおり、安吾の主張は全く変わっていない。 戦争の利益面については、「歴史的立場」から見た「学者の研究室内に於ける真理であって、政治に於ては、真理ではない」と「戦争論」の中でもハッキリ述べてあった。いちばん大事なものは自由。自由を奪おうとするすべての枠組みは好戦的な精神の所産であり、共産主義などがその最たるものとしてヤリ玉に挙げられた。 当時の左翼批評家たちがこぞって安吾批判を打ち出したのも当然の流れだが、彼らはそれこそ矛盾だらけの信条に凝り固まって、安吾の文章を意図的に曲解した。「堕落論」は強盗や強姦を肯定する「法律を無視しようという思想」だと批判し、「人間侮蔑」「女性蔑視」「暴圧政治への無感覚な喝采」などと、正反対の読みをして、自分たちの左翼思想こそが最上なのだと喧伝した。 安吾を「好戦的」とみる批評家は、現在でも折々出てくる。出てくると「全く新しい安吾論」などと持ち上げられるが、批評の要点は70年前の左翼批評家たちのそれと変わりない。自分の思う“正義”を主張することに急で、とにかく声高で高圧的、自身の持論から次の持論を導き出すのみ。まるで安吾の文章が読めていないので、批判にもなりえていない。 (七北数人) |
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