作品名 | 悪妻論 |
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発表年月日 | 1947/7/1 |
ジャンル | 社会批評 |
内容・備考 | 夫婦の間に“恋愛”が保たれるため、妻よ悪妻であれと説く、反逆的なエッセイ。 「恋愛論」の3カ月後に発表された。恋の喜びより恋の苦しみこそ生きがい、と語る基本スタンスは本作でも変わらない。大きく変わったのは安吾の生活のほうで、「恋愛論」執筆後まもなく三千代と出逢い、腹膜炎を患って入院中の三千代を付きっきりで看病していた頃、本作が書かれている。 女房はむしろ奔放であるほうが魅力的でよいと説くのは、三千代サンに向けたエールでもあろう。女大学のエセ道徳にがんじがらめに縛られた「良妻」には自分の心も意志もなく、なんの魅力も感じられない。浮気性の「悪妻」にヤキモキさせられる「恋の苦しみ」が結婚後も続くほうが、「女大学」と居るより楽しい。生きている実感があるからだ。 「堕落論」同様の価値観逆転が行われ、いわゆる「悪妻」が真の意味の「良妻」に転じる。鮮やかな手並みだが、本当に浮気すぎる妻をもったら安吾は暴れまくったに違いない。 本論の前後に平野謙のエピソードが出てくるが、大方の読者には何のことやら分からないと思う。平野と安吾は戦前から『現代文学』の同人仲間で、一緒に推理小説を書こうとしたほど仲がよかった。けれども戦後、平野たちが『近代文学』を創刊し、「文学者の戦争責任」を声高に追及しはじめたことに、安吾は少なからぬ怒りを感じていた。 左翼文学者たちが言論弾圧まがいのやり方で、戦中の単なる“庶民派”を断罪する。戦後も生き残れた者は皆、協力したも同然じゃないか。自分たちだけキレイに口をぬぐって、友達だった不器用な文学者たちをよってたかって叩く。それが“正義”なのか? 平野の安吾追悼文によると、事の顛末は次のとおり。1946年末から翌年初めにかけてのある日、平野は奥さんと大ゲンカして「手首にミミズバレ」をつくってしまう。折しも出版社の会合があり、平野は腕にぐるぐる包帯を巻いて出席した。 安吾はこの一件をネタにして、半分は無邪気に笑っているのだが、そのウラに平野たちによる戦犯文学者追放運動への批判をこめている。安吾にしては珍しい“皮肉”表現で、流血させた「戦犯」の奥さんにも火の粉が飛んでいる。 平野もこれに怒り、本作発表以後、安吾とは一度も会わなかったという。 (七北数人) |
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