作品名 | 志賀直哉に文学の問題はない |
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発表年月日 | 1948/9/27 |
ジャンル | 純文学・文芸一般 |
内容・備考 | 文壇の最高権威だった志賀直哉を徹底的にこきおろした挑発的なエッセイ。 安吾作品には、タイトルの中に既に主題を含むものが少なくないが、本作もその典型。直球ド真ん中の辛辣なタイトルに、引いてしまう人もいるだろう。 論旨は戦前の「枯淡の風格を排す」などと同様。権威や見せかけの風格にアグラをかいて、悩みのない自分のエゴを垂れ流すことは文学ではない、という誠実一途な主張である。 冒頭に「太宰、織田が志賀直哉に憤死した、という俗説の一つ二つが現われたところで、異とするに足らない」とあり、つまりこれが本論執筆の動機だとわかる。批評家たちの志賀崇拝と無頼派蔑視の発言を「俗説」だと、最初に葬り去ってみせたわけだ。 太宰は自殺前の連載エッセイ「如是我聞」で、志賀をけっこう感情的に攻撃した。志賀の側も条件反射的に悪態をつき、罵り合いに近いものになった。織田も「大阪の可能性」で志賀を嘲笑している。ただし、盟友二人が死ぬ前に志賀批判を展開していたからといって、べつに志賀に負けたことにはならない。それを「憤死」などと茶化して権威にこびへつらう文芸評論家たちに我慢ならなかったのだ。 志賀批判といえば、安吾はもっと早くから「咢堂小論」の中で、志賀を殴り倒す勢いで書いていた。終戦の年、生き残った特攻隊員たちが復員して野放図に暴れては困るから、彼らを集めて再教育せよ、と志賀が新聞に投稿したのを読んで激怒し、志賀の人間性の低さ、小ささを罵倒した。 志賀や芥川、漱石、荷風など安吾が手ひどくやっつけた大作家の全集を多くかかえる岩波書店から、文庫で安吾を出したいと相談を受けたとき、身も蓋もないタイトルの本作などを書いた安吾でもホントにいいんですか、と編集者に何度も念を押したものだ。 もっとも、安吾も文章修業時代には志賀作品を愛読したことがあり、作品のよい部分も実はわかっている。だから本作でも、認めるべき部分は公平に認めたうえで批判する、そういう論法になっている。批判するときほど、感情的にならず、注意深く論理的に主張を展開するのが安吾の常だった。 (七北数人) |
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